朝の学び144 創世記21章

創世紀21:8-14
その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。
少しも肉の考えを働かせていないアブラハム
このような状況にあったアブラハムに神様は、「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」とおっしゃいました。つまり、サラの言う通り、ハガルとイシュマエルを家から出せということです。後ほど説明しますが、アブラハムは神様の言葉にそのまま従順しました。アブラハムは、神様がどうするかをおっしゃってくださる前までは、ハガルとイシュマエルについて悩むしかなかったのですが、神様がどうするかをおっしゃってくださると、直ちに従順したのです。イシュマエルにもやはりイサクと同じ気持ちで愛を与えたアブラハムでしたが、「イシュマエルを送り出しなさい。」という神様の言葉に、いかなる理由や言い訳もしなかったのです。
人が肉の考えを働かせると、サラの言葉通りハガルとイシュマエルを家から追い出すよりは、サラをよく諭して理解させ、ハガルとイシュマエルを家にそのままおいておくようにするのがより良いと考えられるかもしれません。しかしアブラハムは全くこのような考えを働かせませんでした。神様のお言葉の前では、自分の思いも、自分が思う善と義も、徹底的に無にしたのです。これがまさに完全な従順であり、神を信じる人の姿です。多くの人が神様の言葉に従うと言いますが、それはあくまでも自分の考えや義と一致する時の場合がほとんどです。自分の考えに合わず、自分の見方に合わないことについては、すぐに肉の考えを働かせて不従順をし、自分の好きなように行う人が多いです。
皆さんなら、アブラハムのような状況でどうされたでしょうか?「善良な神様がなぜこのようにおっしゃるのだろうか?」と肉の考えを働かせる方はいらっしゃいませんか?それとも「何かもっと良い方法があるのではないか?」と他の方法を探さないでしょうか?しかし、自分の目にはいくら善良に見えて良い方法だとしても、神様のお言葉に反するのが、すなわち不従順であることを知らなければなりません。自分の考えや自分のやり方が正しいと思うこと自体が、すでに神様の前に途方もない傲慢です。神様は、皆さんがたとえ自分の考えでは理解できず、自分が見るにはもっと良い道があるように見えるとしても、神様のお言葉にそのまま従うことを望んでいます。そして神様にすべてを任せる心になることを望みます。アブラハムはまさにこのような心だったので、神様のみ言葉に従いすべてを神様に任せました。
私も今まで22年間教会を牧会して、神様の働きを成し遂げるにあたって、神様のお言葉の前に一度も私の考えや主張を前面に出したことがありません。もちろん、神様の働きを成し遂げるにあたって、私の考えや意見を持ったこともありませんが、神様がおっしゃってくだされば無条件アーメンでした。そうすると周りからは「堂会長、そうするよりはこうした方が良いのではないでしょうか?」「こうすればもっと早く成し遂げられるはずですが」というような話をしてくる時がありました。しかし、私はただ神様の言葉だけに従い、結果を見ればいつも神様の言葉が正しかったのです。一寸先も見通せない人の考えで、すべてのことを知っている神様の考えを先走ることはできないという事です。
したがって皆さんは、自分の考えに照らして神様の言葉を判断したり、自ら自分が正しいと思う姿は決してあってはならないでしょう。訓練を通して肉の考えが徹底的に砕かれたアブラハムは、このようにいかなる状況でも、神の言葉に完全に従順していったのを見ることができます。もしアブラハムが神様の言葉に従い、イシュマエルを家から追い出した後に、彼があてもなくさまよったり、そのまま血統が絶えてしまったとすれば、アブラハムの心がどれほど痛んだでしょうか。だから神様はこの時もやはりアブラハムの心を推し量って、「しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」と、イシュマエルを通しても一つの民族を成し遂げるように摂理して下さったという事です。
結局、イサクという約束の跡取りを通して神様の摂理を成し遂げるにあたって、サラは、人の考えと人の方法で、イサクを通した神様の摂理を成し遂げようとしました。一方アブラハムは、神様の言葉に従い神様にお任せすることで、神様の考えと方法に従いました。実は、イシュマエルは人の考えが働いた結果として出た実でした。これも神様の摂理の中にあったことでしたが、サラがもし人の考えを働かせなかったら、イシュマエルが生まれることもなかったでしょう。しかし、イシュマエルは生まれて、このようなイシュマエルもアブラハムの子孫だったので、彼は父親アブラハムによって来る祝福を受けることができたのです。これと同様に、皆さんが神様の愛を受けることになれば、皆さんと関連した周辺のすべての分野が一緒に祝福を受けていくことになるという事です。また、神様の愛をさらに大きく受けることになれば、神様は皆さんの心が痛くならないように、多くのことを働いていかれるのを見ることができます。
朝早くハガルとイシュマエルを送ったアブラハム
14節に「翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。」とある通り、私たちはアブラハムがどれほど神の言葉に従う人だったのかをもう一度悟ることができます。アブラハムは、ハガルとイシュマエルを送り出せという神様の言葉が伝わるやいなや、朝早く起きてそのことを行いました。「もう少し後で行かせよう」としたのではなく、神様の御心を知るや直ちに従順しました。慰めの言葉や財産を与えたのでもなく、ただパンと水の革袋だけを与えたまま去れと言ったのです。
人間的な見方では薄情だと思うかもしれませんが、これこそ神様にすべてを任せ全面的に頼る姿事です。神様が「ハガルとイシュマエルを送り出せ」とおっしゃったので、その言葉にだけ従えば、その後は神様が責任を負ってくださるのです。アブラハムがこうすることによって、ハガルとイシュマエルは、むしろ神様のみわざ体験し、彼らを導く繊細な手を感じることになります。人の側で人の方法と考えを働かせれば、神様が働かれる幅はむしろ狭くなるという事を知らなければなりません。神様に100を任せれば神様は100全てに責任を負って下さいますが、50を任せて50は自分がしようとするならば、それだけ神様が働いて下さる領域を狭める結果になるということです。アブラハムはすべて完全に任せたので、神様も完全に責任を負うことができました。
ところが、アブラハムがこのようにパンと水の革袋だけを与えて送ったことには、一方で子供を愛する父親の心も込められていました。もちろんすべてを神様に任せたアブラハムですが、彼はハガルとイシュマエルが自分のいるところから遠く離れていくことを望んではいませんでした。その気にさえなれば手の届くようなところにいて、噂が聞こえてくるほどの距離に彼らが定着して暮らすことを願ったのです。だからといって、これが肉の考えではありません。アブラハムが肉の考えを働かせたとすれば、なぜ多くのしもべを付け、より多くの財産と糧食を与えて送らなかったのでしょうか?しかしアブラハムはすべてを神様に任せたので、いっさい人の方法や考えを働かせたわけではなく、「イシュマエルが近い距離に住んでいてほしい」と願う父の心があったのです。 それでは、このようにアブラハムがすべてを神様に任せた時、果たして神様がどのように働いてくださったのかを次の時間に続けて見ていくことにします。
結論
初信者や新しい信者のような場合は、彼らが信仰生活をどのようにすべきかをいちいち教え、導いてあげなければなりません。まるで乳飲み子の面倒を見るような気持ちで、細かいこと一つでも気を配ってあげなければなりません。しかし、信仰がある程度成長すると、いちいち教え、導いてあげるのではなく、今は自らが道を探すようにしなければなりません。もちろん、時によって訪問し相談を通して霊的にきちん歩めるように、常に関心と愛で接してあげなければなりませんが、今は霊の知識をある程度知って自らも体験できる信仰なら、この時は食物を食べさせるよりは、食物を食べる方法を教えてあげなければなりません。そうしてこそ信仰がより早く成長し、自らも自信を持つようになるのです。また、ある場合は訓練の中にあることを知りながらも、自分で通過して出てくるようにしてあげなければならない時もあります。訓練を受ける姿が大変そうだと思って、そばで助けようとするのがむしろ相手の信仰の成長を阻む場合もあるからです。
では、皆さんの信仰は今どのような状態ですか?相変わらず誰かにいちいち食物を食べさせてもらい、どうすればいいのかを教えてもらう姿ですか?それとも、もうある程度自分でも分別をして神様の導きを受けて行っていますか?または、明らかな聖霊の導きの中で、神様の御心に完全に聞き従っていらっしゃるのでしょうか?まさにアブラハムのように神様の御心に完全に従い、正しい導きを受けていかなければならないでしょう。
これは、皆さんが肉の考えを完全に破り、小さなこと一つから神のお言葉に従う時だけ入ることができる次元です。そんな時、神様が皆さんを一段階、一段階深い霊の次元に導いていくことができます。 今日の本文に出てくるアブラハムの姿と、皆さん自身の姿を比較してみることで、私はどれほど神様の言葉に完全に従う姿なのかを点検してみてください。それで足りないところを発見して変化し、すべてがすなわち神様の深い御心までも伝えられる聖霊様の導きの中で、日々もっと深い霊の次元に入っていかれるように主のお名前でお祈りします。



