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朝の学び142 創世記21章

9月11日
読了時間: 11分

創世記21:1-8


主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。




序論

前の時間には、父なる神様が周辺の異邦の民族にアブラハムの存在を現わし、彼の存在を確実に植えつけていく契機になった事件について調べました。まさにアブラハムが、妻のサラをゲラルの王アビメレクに奪われた事件でした。肉で考えればこの事件が心の苦しみを伴うことに見えるかもしれませんが、結果的にはむしろアブラハムに祝福でした。この事件を契機にアブラハムは、周辺の異邦人にまで、神様に愛され保証される預言者として心に刻まれるようになり、彼らにアブラハムをあえてどうすることもできない恐ろしい存在と感じるようにされたのです。それで創世記21:22に見れば「そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。『あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。』」と告白するのを見ることができます。このようにアブラハムの存在が周辺の異邦の民属の中にも植えつけられたので、アブラハムは彼らの勢力の中でも自分の人生の基盤を築き、将来形成される選民イスラエル民族の基礎を磨いていくことができたのです。     


もし周辺の異邦の勢力がアブラハムを単純な族長程度だと考えたなら、彼らは自分たちの勢力を広げる過程で、アブラハムを自分たちの勢力の下に入れるために虎視眈々と機会をうかがっていたでしょう。しかし、アブラハムは周辺の異邦の民族の間でも、決してむやみに接してはならない神の預言者と見なされたため、そのような周辺の脅威から守られることができたのです。もちろんアブラハム自らも、自分と自分に属した人々を守る力を持っていましたが、それよりは神様の保証される証拠が伴ったので、周囲の人々は彼に危害を加えようとはしなかったのです。     


詩篇127:1「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」とおっしゃった通り、神様が守って共にしてくだされば、完全に守られて保証されるという事です。アブラハムにはこのような証拠が伴ったので、妻のサラを奪われる事件が、以前のように肉の考えを働かせて生じたのではなく、神の摂理の中で許された事件だったことがよく分かります。もちろん以前、妻を奪われた時も、結果はすべてを働かせて益としてくださいましたが、今回妻を奪われる事件は、それ以上の祝福の実として出てきたのです。今日の本文はいよいよ約束の子孫であるイサクが生まれる内容です。    



神様の定められた時期と時に生まれたイサク  

    

1-2節「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。」とありますが、神様がイサクをくださったのがアブラハムのためであることを明確にしていらっしゃいます。前に神様がアブラハムにサラを通して息子を産ませるとおっしゃった時、これを聞いていたサラはその言葉を信じられず、つい笑ってしまいました。だから、このようなサラの信仰では、約束の子孫であるイサクを得ることができなかったのです。しかし、神様はサラを見たのではなく、神様の言葉を真剣に信じるアブラハムを見て、ついにサラが妊娠して息子を産むようにしたのです。     


これは今日も神様のはたらきを成し遂げるにあたって、頭になった人の信仰と行いがどれほど重要かを悟らせてくださいます。サラが息子を産んだのは、アブラハムの子孫として許されたことなので、たとえサラの信仰が足りないとしても、アブラハムの信仰を見て神様が働かれたことです。これと同じように、たとえ下の人たちの信仰は足りない場合だとしても、神様は頭になった人の信仰を見て働かれる場合が多いです。したがって、神様のはたらきを成し遂げるにあたって、頭になった人は神様に愛され信仰のある人でなければなりません。肉的な条件や外見を見るのではなく、霊的なことを優先して立てなければならないのです。このように神様はアブラハムの信仰を見て、彼に約束された子孫であるイサクを許されましたが、それが正確な時期に至って成就するのを見ることができます。  


 人の考えでは「アブラハムにもう少し早くイサクを与えても良かったのではないか?」と思うかもしれませんが、伝道者の書3:1「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」とおっしゃった通り、すべてのことには定めた時期があり、それを成し遂げる時があるという事です。そして、それを決める方はただすべてのことをご存知の神様なので、時期と時を神様が一旦決めておかれれば、人が急いでいるからと前倒しされるのではありません。人の側では神様の御心と摂理を信じて、変わらない信仰で祈りながら願うのです。アブラハムは、約束の子孫を許した父なる神様の言葉を疑うことなく信じたので、歳月が経ってもその信仰が変わらなかったのであり、結局、神様が決めた時期が次第に目に見える実として許されたのです。このように神様の考えと人の考えは違うこともありうるということを知って、決して人の側で神様の事を判断しようとしてはいけません。     


ところが、イサクを得たアブラハムについて「年老いたアブラハム」と言っていますが、神様があえて年老いたアブラハムと表現した理由は何でしょうか?これは肉で見ればすでに年を取って老いて、とうてい息子を産むことができない状況であるにも関わらず、神様は彼の信仰どおりに働かれたという事を物語っているのです。このように、肉では到底望めず考えることもできないことを願って信じることが、まさに信仰です。アブラハムはこのような信仰を持っていたので、ローマ4:18「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。」と記されています。皆さんの信仰はどれくらいですか?


神の言葉どおり従順するアブラハム  

    

続く3-4節「アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。」とあります。イサクという名前は、すでに神様が彼を産む前にくださった名前です。 創世紀17:19「すると神は仰せられた。『いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。』」と言われたのです。このようにアブラハムは神様がくださった言葉を忘れずに、それを心に刻んで行ったことを見ることができます。   


イサクが産まれてから8日後に割礼したのも同じです。創世記17:12「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」という言葉に従い割礼を行ったのでした。前に神様が、アブラハムと彼の属したすべての男子に割礼を行うように命じた時も、アブラハムは話を受けたその当日に、割礼を行ったことを見ることができます。だから神様はこのように考えを働かせず、御言葉に完全に従順していくアブラハムを愛するしかないのです。5節には「アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。」と言って息子のイサクを産んだことが神様の摂理の中に正確な時を合わせて働かれたことをもう一度おっしゃっていらっしゃいます。



悔い改めの心と共に喜びと感謝の心で笑っているサラ       


6節では肉と霊の明白な違いが表れています。「サラは言った。『神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。』」と言ったが、サラは前にも神様が息子をくださるという話を聞いた時、それを信じられず笑ってしまいました。 「どうして90歳にもなったサラと100歳にもなったアブラハムから子供が生まれるのか」とサラ自身が信じられなかっただけでなく、彼の話を聞く人々の中でも肉の人はその話を信じられず笑うことになるのです。しかし、結果的にサラは神様の言葉通り、息子のイサクを産むことになりました。そうしながらもう一度笑うことになりますが、この時笑うのは喜びの笑いでした。これまで信じられず、望めなかったことを経験することになると、感謝と喜びが押し寄せてきませんか?自分が完全に信じられなかったことが悔やまれながらも、神に対する感謝と喜びによって生きるという喜びの笑いで笑うことができたのです。     


しかし、このように神様のみわざを体験して嬉しくて充満するからといって、彼女の心が変化するわけではありません。将来、以前と似たような状況に置かれることになるので、その中にあった悪の形が再び出てくることが分かりますが、その内容は次の時間に説明されるでしょう。 受けた恵みと充満さを持って、自分の心を割礼して変化させる機会にしなければならないのに、そうではなく瞬間の喜びと充満さで終わってしまうので、結局、心の割礼も果たせないまま時間が経てば、依然として以前の姿がまた出てきてしまうのです。肉に住む人たちは、直接見て聞いて体験するとしても、このようなしばらくの間の喜びと充満さがありません。あるきっかけを通して神様のわざを自分が直接見て体験した後も、依然として信じられず疑うことを見ることになります。 「聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」と言った通りに、信じずに疑う人々にはいくら神様の生きている証拠を見せても依然として信じられず笑ってしまうのです。     


今日の本文でもう一つ悟らなければならないことは、サラが笑ったのが一方では恥ずかしさのためだったという事です。 自分が年をとって年老いた体で子供を産んだということを人々に言うのは恥ずかしいことですね。今日もこんな方がいます。 これはまさに神様が癒してくださったのに、恥ずかしいと言って証ししようとしない方々です。しかし、神様はそれを喜びません。証しというのは、私を癒してくださって答えてくださった神様の前に感謝の告白であり、癒しと答の確信に対する信仰の告白です。7節「また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」」とおっしゃったのも、肉では到底不可能なことを神様が成し遂げたという事をもう一度強調するためです。人の考えではサラがその年で子供を産んで乳を飲ませるということは想像できないことでしたが、サラが子供を産んだことは明らかな事実であり、これはただ神の能力だけで可能なことだという事実です。  



結論

神様が約束の子孫であるイサクを許したのは、アブラハムの信仰を見て働かれたことです。同じ言葉を聞いた時、アブラハムは信仰で受けました。反面サラは信じられなかったのですが、その違いはその後も現れるようになります。信仰で受け取れなかったサラは、息子のイサク一人を産むことで終わりますが、アブラハムはその後も6人の子供をさらに産みました。ローマ4:19「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。」と言った通り、アブラハムは百歳になった頃にすでに自分の体が死んだようであることが分かりました。そのようなアブラハムが100歳でイサクを産んでも75歳をさらに享受し、6人の子供を産んだということは、彼の体が一時的に生き返ったのではなく、若返りしたという事実を物語っているのです。これがまさに魂が幸いな人とそうでない人の違いであり、アブラハムはどんな状況と環境でも動揺しない完全な信仰を持っていることを発見することができます。   


当時、彼の周辺には多くの異邦の民族が住んでいて、異邦人たちと交流しなければならないことが生じざるを得ない状況でしたが、アブラハムの信仰は周辺の環境と条件から影響を受けませんでした。アブラハムの甥であるロトは、ソドムの町の人々の中で暮らしながら、信仰に多くの否定的な影響を受けたのとは異なり、アブラハムはたとえソドムのようなところに住んでいなかったとしても、異邦人の中で信仰を堅固に守り、むしろ周辺の人々に神様の生きておられ全能であることを示し、証しする人生を送りました。私たちもたとえ世の中で世の人々と接して暮らすとしても、世の中に染まっていくのではなく、むしろ神の子供になった権勢と光りの姿を通して、神を証しできなければなりません。これは結局、どれほど揺れない堅固な信仰とまっすぐな心を持ち、光の中で生きていくのかにかかっているという事に気づき、アブラハムのように本当に揺れない盤石の信仰の所有者になりますように、主の名前で祈ります。

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