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朝の学び141 創世記20章

9月10日
読了時間: 10分

創世紀20:1-18


アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。 彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」翌朝早く、アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ。』と頼んだのです。」そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。




ゲラルの王アビメレクに妻を奪われたアブラハム

ロトの二人の娘のように、自分の考えの枠組みによって肉の考えを働かす場合が多くあります。自分の限界の中で答えを探そうとすると、これが肉の考えになってしまうのです。私たちはこのような例を創世記12章に出てくるアブラムの場合を通して見てきました。飢饉を避けてエジプトに下ったアブラムは、自分の妻をそこの人々に奪われるのではないかと思い、妻に自分を妹だと言いなさいと言ったのです。もちろん、これは嘘ではありませんでした。実際、サライはアブラムの異母姉であり、これはアブラムが自分の考えの中でそれなりに最善の方法を求めたものでした。しかし、その結果はどうなりましたか?アブラムは結局、エジプトの王に妻を奪われ、自分の考えが間違っていることを悟ってから、神様の方法で再び妻を探すことになりました。このように、自分の方から見ると良い道が、時には神様の方から見ると全く違うことがあるのです。

その当時、肉の考えを働かせたことに対して大きな教訓を得たアブラハムが、再び似たような事件に出会うことになります。この事件は、肉的な状況だけを見ると、前にあった事件とあまりにも似ているように見えますが、それぞれの事件に対する霊的な意味は全く違います。以前にエジプトの王に妻を奪われるようになったのは、アブラムが肉の考えを働かせた結果であり、これによってアブラムは自分を発見し、徹底的に打ち砕かれる契機にすることができたのです。しかし、この事件は、アブラハムが肉の考えを働かせて始まったことではなく、神様がアブラハムを現わすためにお許しになったことなのです。

アブラムがエジプト王に妻を奪われた時と、今再びゲラルの王アビメレクに妻を奪われた時とは、アブラハムの信仰が全く違う状態でした。すでに長い歳月の訓練を通して肉の考えが徹底的に砕かれたので、全能な神様を全面的に信じて頼る信仰になりました。このようなアブラハムが、どうして以前の信仰状態で肉の考えを働かせて行ったことを再び繰り返すことができますか?だから今日の本文の事件は、神様の摂理の中で神様がすべてを導かれてなされた事件だという事です。これは将来、アブラハムとその子孫たちが一つの民族を形成していけるように徐々に準備させる過程でした。

神様は今回の事件を通してアブラハムがどんな人物であり、彼がどんな権勢を持った人なのかを周辺に確実に植え付けてくださったのです。このような神様の摂理の中で行われたことなので、結果を見ればすべてが働いて益とされ、祝福として出てくることを見ることができます。たとえアブラハムが彼の妻サラをアビメレクに奪われてしまったとしても、神様はアビメレクに決してサラに近づけないように夢を通して働かれます。創世記20:3「ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。『あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。』」とおっしゃいました。しかし、アビメレクの立場では言いたいことがありました。4-5節「アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」」と言ったのです。これは、アビメレクが、サラが他人の妻であることを知っていながら、邪悪な心から近づこうとしたのではないことを示しています。アビメレクのこのような心を神様も知っていたので、6節「神は夢の中で、彼に仰せられた。『そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。』とおっしゃいました。



アブラハムに祝福を与えるための訓練

続く7節には「『今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。』」とおっしゃいます。先程、神様が今回の事件を許された目的が、アブラハムがどんな人なのかを周辺にはっきりと知らせるためのものだと言いました。まさにアブラハムを預言者だとおっしゃって、アブラハムの祈りによって彼が生きられることをおっしゃっています。夢を見たアビメレクは恐れるしかなかったし、彼の話を聞いた臣下たちもひどく恐れるようになります。これはすなわちアビメレクと彼の臣下たちが夢の内容を信じたという意味であり、その心に善良な良い心があったことを物語っています。心が悪い人たちだったら、このような状況でむしろもっと悪を行うはずなのに、アビメレクと彼の臣下たちは夢に働かれた神様の言葉を信じ、この状況を解くことができる善良な方法を探すことになります。

アビメレクは、自分はたとえサラがアブラハムの妻ではなく妹だと思って娶ろうとしたとしても、これによってサラとアブラハムが体験しなければならなかった心の苦痛を何とか補償しようとしました。これもまた、アビメレクが善良な良い心を持った人だったことを示しているのです。もし邪悪な心を持った人だったら、むしろアブラハムとサラに嘘をついたと怒鳴りながら、ただ何もなかったように終えたはずですが、アビメレクはそうではありませんでした。14-16節「そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。そして、アビメレクは言った。『見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。』彼はまたサラに言った。『ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。』」と言いました。アブラハムにはもちろん、サラにも最大限の誠意を見せ、善で状況を解決していこうとしています。それ故に神様はアブラハムにこのようなアビメレクに恵みを施すようにされました。


祝福してくださるための神様の方法

アビメレクはゲラルという一国の王として、彼にとって最大の関心事は何でしょうか?物質が乏しいのでもなく、名誉と権勢が足りないわけでもない彼にとって、最も大きな関心事は、まさに代を受け継ぐ跡取りに関する問題です。したがって、神様はアビメレクにとって最も大きな関心と問題になりそうな分野を、アブラハムの祈りによって解決されるようにされたのです。これによってアブラハムの存在が彼らの心に深く刻まれるようにされました。すべての状況をご存知の神様は、このように最も確実な方法でアブラハムがどんな人であり、どんな権勢を持った人なのかを周辺に確実に植え付けてくださったのであり、共に大きな祝福までも許してくださいました。

これはアブラハムが肉の考えを働かせて起きたのではなく、神の摂理の中で行われたことだったことを確実に示す証拠になっています。神様の摂理の中で行われたことは、たとえすぐには損をするように見えるとしても、結果を見れば祝福であり、神様に栄光を捧げることになるという事実です。1999年に教会にあった試練も同じです。その当時は悔しい濡れ衣を着せられるようでしたが、私たちが神の摂理を信じて従順で忍耐し、善の方法で出た時に、今日の結果を見るとどうなりましたか?すべての誤解が解けており、私たちは以前よりさらに立場が高くなり、現れる実を通して私と本教会を確実に保証してくれています。今日、本教会で現れている数多くの神の力の働きを通して、父なる神様はどれほど栄光を受けておられますか?だから私たちはすべてのものを、実を通して分別しなければならないのです。次の時間は、約束の子孫であるイサクの生まれる内容についてみていきます。


結論

愛する皆さん、先に申し上げた通り、アビメレクは善良な良い心を持った人として、夢に働かれた神様の言葉を信じ、アブラハムを預言者として信じたので、彼にも結局はすべてを働かせて益とされる結果として出てくるようになりました。 彼がたとえ神の摂理を成し遂げるための道具として用いられた人であったとしても、善良な良心を持った人だったので、結果は祝福として出てきたのです。一方、出エジプトの当時、エジプトの王はどうでしたか?彼はモーセを通して働かれるその無数の神様の働きを見ても、むしろ心をかたくなに強くするので、結局は悲惨な最後を迎えてしまいました。それでエジプトの王は悲惨な最後を彼だけでなく、彼の民、臣下、エジプトの兵が共に悲惨な結果を迎えてしまったのです。アビメレクと比べてみると、あまりにも大きな違いがあることが分かります。

これがまさに善良な心を持った人とそうでない人との違いです。神様は人間耕作の摂理を成していくにあたって、様々な人々を用いますが、その中には神様を知らないが、善良な心を持った人もいれば、時には神様を知っていると言いながらも悪の心を持った人もいます。結局はその心の器なりに使われるようになります。ですから、ある人は羊の間に入っているヤギのような形で使われる人がいて、まるで映画の悪役のような役割で使われる人もいます。それでは皆さんはどんな形で使われているのでしょうか?当然、肉の考えを働かせた結果として出てきたモアブ人とアモン人のように、神の人々を訓練する杖のような役割ではなく、神の摂理を成し遂げる上で主導的な役割を果たさなければならないでしょう。 そして、神の国を成すにあたって、必ず必要な主人公たちとして出て来られるようにと主の御名で祈ります。

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