朝の学び139 創世記19章

創世紀 19:23-38
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。
徹底した災のさばきを受けたソドムとゴモラ
神様のさばきがどれほど徹底したものだったのか、25節に「これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」とあります。地面に生えているものだけでなく、地の中まで打ち返すような大惨事に見舞われてしまったのです。だから、ソドムとゴモラに途方もない災いが臨んでいた時、遠く離れたところにいたアブラハムもその事実を知ることができました。27-28節に「翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。」とあります。この時、アブラハムがその朝早く起き、神様と会ったところに立ってソドムとゴモラの方を眺めたということは、アブラハムがすでに、いつソドムとゴモラに審判が行われるかを知っていたことを物語っています。アブラハムは一度おっしゃったことを必ず行う真実な神様を知っていたので、時が来て正確にさばきが行われることも分かりました。しかし、どうしてじっと座っていられたでしょうか。ソドムにいる甥のロトを思い、また滅亡の中におかれているソドムとゴモラの人々を思い、そこを眺めていたのです。
「翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。」アブラハムはどんな人でしょうか?何とかソドムに臨むさばきがおさまることを願う切実な気持ちで、最後まで神様の前に、ソドムに義人10人だけいても滅さないでほしいと申し上げ懇願しました。父なる神様に似て、憐みと慈悲の心が臨んでいたので、一人でも滅ぼさずに救いに至ることを願う気持ちでした。父なる神様がこのようなアブラハムの心をどうして知らないでしょうか。しかし、すべては正確な公義の中で行われるため、ソドムは結局、義人10人がいないためさばきの災いに遭ってしまったのです。
神様は愛と憐みと赦しがない方なのでしょうか。それも必ず公義の線を越えない範囲内でなされるほかはないということを皆さんは肝に銘じ、常に公義の中に留まり、神様から守られ愛され祝福を受けていくことをお願いします。アブラハムが残念な気持ちでソドムとゴモラの方を眺める時、そこでは煙がかまどの煙のように立ち上っていました。まるで陶器を焼くために焚いた火が煙を立てて燃えるように、ソドムとゴモラも火と硫黄の雨の中で燃えていたのです。まさに黙示録21:8に「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」」とおっしゃったように罪の結果は永遠の地獄なのです。
このようにソドムとゴモラとその周辺は徹底した災いのさばきを受けたので、今日までその土地が死んだ土地になってしまいました。土地が生命力を失って、これ以上何も住めない土地になったのです。神様の呪いが臨むとき、どんな結果を生むことになるかをはっきりと示す手本になっているのです。イエス様から呪いを受けたカペナウムとベッサイダもこれと同じです。ここは以前は栄えた都市でしたが、イエス様の呪いを受けた後、土地が生命力を失い、その周辺で水も見つけられない土地となり、ここもやはり呪われた土地の手本になってしまいました。ところが、私たちがソドムとゴモラの審判で一つ注意しなければならないことは、そこに臨んだ審判がソドムとゴモラに属した周辺の状況にまで該当したという事です。これはつまり何を意味するのでしょうか?私一人の犯罪が時には自分だけでなく、自分に属した周りにまで影響を与えかねないという話です。
申命記28:15-19によれば、「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。」とおっしゃいました。
数週間にわたって大礼拝を通して聞かれた通り、自分に来るべき懲らしめや災難が、霊的な紐がつながっている他の人におこったり、関連した周りのこととして現れることがあるのです。ですから、時には家族の中で一人が病気だと言った時、その人にだけ原因があるのではなく、家族全体に悟らせるための場合もあれば、時には夫婦や親と子供という霊的な絆の中で代わりに病気を患う場合もあります。だからといって、すべての病気がこのような理由だというわけではありません。ただ、病気や何らかの問題を解決してもらおうとする時、「もしかしたら、私はこのような関係の中で問題が臨んだのではないか?」と点検してみてくださいという意味です。家族の中の誰かに問題がある時、それを通して自分をもう一度点検してみる機会を与えてくださるという意味です。
アブラハムによって救われたロト
続く29節には、ロトが救われたのは、神様がアブラハムを覚えておられたためであることが明らかに出ています。 「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」と言いました。 皆さんもアブラハムのように神様から愛される人になれば、皆さんに属したすべてのものが一緒に祝福を受けるようになります。ヤコブ5:16に「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」という言葉のように、神様から義人だと認められた人の祈りはそれだけ霊的な力と権勢が伴うことになります。
ヨセフはまさにそのような人だったので、創世記39:3-5に「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家を管理させ、彼の全財産をヨセフの手にゆだねた。主人が彼に、その家と全財産とを管理させた時から、主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を、祝福された。それで主の祝福が、家や野にある、全財産の上にあった。」と記されています。
ソドムとゴモラのように悪でねじれていたツォアル
30節を見ると、「その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。」とあります。御使いたちがソドムの滅亡を避ける場所として最初にロトに示したのは山でした。しかし、ロトがツォアルを選んだため、ツォアルの町とそこの民はソドムとゴモラの審判とともに滅亡する状況でしたが、もう一度機会を得ることになりました。ロトと彼の家族がツォアルに入ったので、神様はロトと彼の家族を救おうとツォアルの町は審判の災いから除外してくださったのです。ツォアルもソドムとゴモラの影響で、すでに悪でねじれていたところでしたが、ロトによって審判を免れる機会を得たのです。ところで、ロトがこのツォアルに住むことを恐れたのはどういう理由でしょうか?それは、ツォアルがどんな状況だったのかを物語っているのです。ツォアルはソドムとゴモラの審判を見たにもかかわらず、依然として立返らずに悪でねじれた人生を生きていたのです。だから、それを見守るロトには、再び恐怖が迫るしかないのです。
ソドムがなぜ審判を受けたのかをあまりにもよく知っているロトとしては、ツォアルの状況を見ながら、ここも例外ではないということに気づいたのです。審判を避けてソドムを離れてきたが、ここツォアルで再びソドムの人々が行っていたねじれた人生の姿を見ることになると、「これ以上ここに留まってはいけない」という気がしたのです。ロトはソドムの審判を見ながら、罪悪の中から徹底的に去ることを誓ったので、ねじれたツォアルには少しでも滞在したい気持ちがありませんでした。それで最初、御使いたちが指定してくれた通り、山に登って洞窟に住んでいたのです。山は霊的に世と区別された人生を送ることができる所で、ロトが山に登って暮らしたということは、もう世を断ち切って新しい人生を生きようと決心して努力したということを物語っています。このように山でふたりの娘と暮らしていたロトに、人の考えでは少し理解できない事件が発生することになります。ロトのふたりの娘たちが父親のロトを通して種族を保存し、繁栄させることになる事件です。それでは、ロトのふたりの娘たちがなぜこのような行動をしたのか、次の時間に続けて説明します。
結論
時には神様が罪の行いに対して、苛酷なほど大きな訓練や懲戒を許す場合がありますが、これは神様が愛と憐みと赦しが不足しているためではありません。神様が大きな訓練や懲戒を許すのには大きく2つの理由があります。一つ目は罪の結果に対する手本です。他の人々に罪の結果について徹底的に悟らせることで、同じ罪の中に落ちないように警戒するためです。ソドムとゴモラのような場合です。一方、ニネベの民はソドムとゴモラと同じ道を行くようでしたが、徹底的に悔い改め立返った結果、審判の災いを避けることができました。神様が聖書にこのような事件を記録しておいたのも、まさに後代の人々に手本として決して滅びに至ってはいけないことを願うからです。
二つ目は、徹底的に悔い改め、元に戻すためです。神様は愛する子供が間違った時、むしろより大きな代価を払わせます。ダビデ王の場合も、忠誠した民を異邦人の手によって死なせた罪により、苛酷なほど激しい訓練を受けることになります。しかし、これがダビデにとっては祝福でした。その訓練を通して徹底的に自分を発見し、神様の前に心合わせる者に変化することができたためです。
ですから、皆さんの中にも試練や訓練の中にいらっしゃる方がいれば、これを通してむしろ自分を発見し、変化する祝福の機会にして下さい。 すべての試練や訓練には必ず理由があるのであり、それをどれほど霊で悟り、価値あることとして受けるかによって、同じ試練や訓練を受けた人の間にも大きな違いが生じるのです。ただ、過ちに対する代価を払う次元にとどまってしまう人もいるわけですし、それをきっかけに二度と同じ姿が出ないように、自分の中にある肉を見つけて脱いでしまうので、霊に変化する機会にする人もいるのです。
私たちが信仰生活をするとき、必ず訓練を受けるようになりますが、どのように受けるかが霊的な成長に大きく影響を与えかねないという事実に気づき、自分に近づく小さな訓練一つでも疎かにせず、自分を完全にさせる契機にして下さい。そのため、ソドムの滅亡を通して、ロトがしばらく滞在しようとしたツォアルからもすぐに去ることができたように、訓練を通して得た悟りが能力となり、迅速に肉から離れ、霊に全き霊に入って行かれますよう、神様の御名によって祝福してお祈りします。



