朝の学び138 創世記19章

創世紀 19:23-30
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。
四つの生き物
創世記8:1-2に、洪水のさばきが終わるとき、「神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。また、大いなる水の源と天の水門が閉ざされ、天からの大雨が、とどめられた。」とあります。神様はまず、洪水のさばきのために張り裂いた水の源をふさがれました。また、第二の天の水がこれ以上第一の天の地球に降らないように、天の水門も閉じられました。ところが、第一の天と第二の天の間の空間を、完全に閉ざされたのではありません。神様が「地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」と書いてあります。ここでいう「風」とは、自然の風ではありません。神様が用いておられる四つの生き物によって、途方もない風を起こされたのです。それで、地球をおおっている水が、水蒸気などの形で再び第二の天のエデンに上がるようにされました。このようなわけで、聖書には、天の水門が「閉ざされた」と書かれているのです。このように、第二の天のエデンにある物が、第一の天に出たり入ったりするとき、神様は四つの生き物を用いられます。この点も皆さん、覚えておかれますように。
神の七つの御霊と四つの生き物は人の心の奥まで探ります。黙示録5:6後半節を見ると、使徒ヨハネが小羊、すなわち、主を見て、「これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。」と言いました。ここで七つの御霊を「七つの目」にたとえましたが、これは七つの御霊が「探って測る役割」をするからです。四つの生き物も、神を護衛するだけでなくて、人の行ないと心を探る役割も果たします。特にわしの生き物は、各人が神のみことばをどれほど心に刻んで、それを実践しているのか調べます。わしは視力がとても良くて、遠くにいる小さい餌食も正確に捉えます。このように、わしの生き物は一寸の誤差もなく、おのおのの心を調べるのです。心の奥まで正確に見分けます。
私たちは聖書を通して、御使いと神の七つの御霊、四つの生き物のような霊的な存在がおのおのの一挙手一投足を調べていることがわかります。神は仕える霊を遣わされ、私たちの言葉と行ないはもちろん、心の奥までご覧になります。神がこのように正確に測るために力を注がれる理由は、けちをつけて信仰を低くしたり、罰を与えるためではありません。少しでも多くの機会を与えて、さらに進んで報いを与えたいという心で正確に測られるのです。
黙示録4:5-9「御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その回りも内側も目で満ちていた。彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。』また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」
四つの生き物は、ケルビムのかしらとして、護衛の大将のように最も近くで神様に仕える存在のひとつです。その権威もやはり大したものであり、その下にいる数多くのケルビムを指揮します。時によっては、神様の命令を直接受けて遂行したりします。四つの生き物については、黙示録とエゼキエル書にも詳しく説明されています。しかし、その内容だけを見ては、四つの生き物の姿を正確に描き出すことはやさしくありません。霊の目が開かれて、直接見てこそわかります。たとえば、預言者エゼキエルは、エゼキエル1:6で、「彼らはおのおの四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。」とありますが、使徒ヨハネは、黙示録4:8で「それぞれ六つの翼があり、」と言いました。
これは四つの生き物が合体された姿を見て、それぞれの翼がつながったり重なったりする姿を表現したので、ふたりの記録に差があるのです。だからといって、聖書が間違って書かれたという意味ではなく、むしろこのように違って書かれることによって、四つの生き物の姿をさらに正確に伝えてくれるのです。合体された時と分離された時、また、どの方向から見るのかによって、その姿が変わるということです。四つの生き物は、文字どおり生き物四つが一つになっているケルビムです。四つが合体されたり、それぞれ分離されたりします。全体の形は人に似ていて、頭は一つですが、頭の四面にそれぞれ四つの顔があります。四つの生き物は後ろに背を向けて行ったり、頭を左右に回したりすることがないので、分離された四つの生き物の正面から見える顔が、それぞれその生き物を代表する顔になります。四つの生き物の顔はおのおの、人、獅子、牛、鷲です。
黙示録4:7に、「第一の生き物は、獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空飛ぶ鷲のようであった。」とあります。実際、四つの生き物を正確に見ることはやさしくありません。それほど霊の目が明らかに開かれた人であるべきで、神様が許されてこそ見ることができます。四つの生き物は特別な場合を除いては、神様の御座の周りを離れないし、その役割がかなり重要で隠密なので、神様もよく表に現さず、隠されるのです。ところが、私たちの教会には、数年前に、この四つの生き物の姿と役割について明らかに解き明かされ、霊の目が開かれた何人かに見せてくださいました。四つの生き物は、一般の天使や天の軍勢とは違って、とても怖くて、見ている人に脅威までも感じさせます。全体の色も少し暗くて濃く、非常に強くてがっちりした感じを与えます。一つに合体されていた四つの生き物が、何かの命令を遂行しようとする時は、あっという間に解体され、四方に飛んで行きます。四つの生き物はいつも前にだけまっすぐに行き、その速度がとても速いのです。
エゼキエル1:12に、「彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。」とあり、エゼキエル1:14には、「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」とあります。そして黙示録4:8節に、「この四つの生き物には、その回りも内側も目で満ちていた。」とあるように、この四つの生き物は全身が目で満ちているのです。これは、彼らの役割が神様の近くで守ることですから、当然周りをもれなく見回すためですが、もう一つの目的は、神様の命令を受けて、この地上をあまねく見回すためでもあります。四つの生き物は、神様と直接関連した罪があるとき、神の命令に従って動きます。たとえば、聖霊をけがし、冒涜し、逆らう罪や、神様にひどく立ち向かって公義の線を超えた場合、この四つの生き物が直接災いや患難の審判を下すのです。ソドムとゴモラの審判の時も、四つの生き物が直接命令を受けて遂行したのであり、将来、七年患難の時にも四つの生き物が直接かかわるようになります。
ところで、四つの生き物には全体的な使命もありますが、おのおのが持つ固有の使命と役割があります。まず人間の顔をした生き物は、ケルビムに命じて彼らを動かす権威があります。彼が口を開けて命じるとき、ケルビムが動きます。第二の天にいるケルビムも、この人間の顔をした生き物の命令に従って動きます。次に、わしのような生き物は、天の扉を開いたり閉じたりする権威があります。彼の羽ばたきによって霊の世界の扉が開きます。したがって、天から雲が出たり入ったりするのも、まさにこの生き物が第二の天に通じる扉を開いてこそ可能なのです。また、霊の世界の扉を開いて、移動する星や、二重以上の丸い虹が見られるようにするのも、まさにこの鷲のような生き物が関わるのです。獅子のような生き物は、災いを働かせる権威があります。彼が口を開けて火の災い、疫病の災いなどが臨むようにするのであり、またその災いを収める権威もあります。最後に、雄牛のような生き物は、第一の天で天気をつかさどる権威があります。雲を集めたり雨を降らせたりすること、または雨を止ませたり台風を動かして消滅させたりすることなどが、まさにこの生き物の権威でなることです。
四つの生き物は、このようにそれぞれの使命と役割がありますが、四つの生き物が連合して、その途方もない権威で同時に働く場合も多いです。神様はまさにこのような途方もない権威を持った四つの生き物をつかさどられ、公義に従って天気を動かして、災いを下すことも、また収めることもあり、霊の世界の扉を開いて驚くべき現象を現すこともあるのです。ところで、もしかしてある方々はこのような四つの生き物の姿についての記録を読むとき、「ちょっとおかしい形だな」と思うかもしれません。しかし、実際に見ればそうではありません。もちろんその威厳と権威がものすごくて、見ている人に恐れまで感じさせますが、彼らは神様のそばで直接警護する存在ですから、当然近づけない威厳と権威があるべきです。世の王も、最もすばらしくてりりしい者を選んで護衛させるように、神様を警護する任務を任された四つの生き物も、実際に見れば、とても威厳があって立派でありながら美しい姿なのです。
このような四つの生き物が神様の御座の前で告白する内容が、黙示録4:8-9に出てきます。「彼らは、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、今いまし、後に来られる方。』また、これらの生き物が、永遠に生きておられる、御座に着いている方に、栄光、誉れ、感謝をささげるとき、」とあります。天国では、神様の栄光の光が新しいエルサレムからパラダイスまでいつも照らしているので、暗やみや夜がありません。それでも「昼も夜も」と表現したのは、この地上に生きている人が理解できるように表現したからです。つまり、休まずにいつもそうする、という意味です。聖書には、人が肉的に考えると、誤解する表現がたびたびあります。たとえば「休まずに祈りなさい。」とあるからといって、それが24時間、一年中ずっと祈りなさい、という意味ではありません。いつも祈る心であり、その心が神様に向かっていなさい、という意味です。祈る時間には当然、心を尽くして神様の前に祈るべきであり、祈らない時間だといっても、心だけはいつも神様に向かっていなさい、という意味です。
このように、四つの生き物が昼も夜も神様の御座の前で栄光と誉れと感謝をささげて賛美をするとは、ただの1秒も休まずにそうするという意味ではなく、いつも心を尽くして神様を賛美して崇める心でいる、という意味です。時には実際に聞こえる声で告白したり、時には聞こえないけれど、心から告白したりする時もあります。ところで、天国では実際にいつも賛美が絶えません。四つの生き物のほかにも、賛美だけのために造られた天使もいて、何よりも救われて天国に行った神様の子どもたちからは賛美が絶えないのです。永遠に休まずに神様を賛美して崇めても、どうして神様から受けた恵みへの感謝を全部表すことができるでしょうか?天国の所々ではいつも宴会が開かれるので、そこで誰でも思いきり賛美して、神様に心から香りがささげられるのです。また、宴会でなくても、いくらでも賛美で神様に栄光を返すことができます。音のある賛美でも、心の香りでも、心の感動でもささげるのです。このように四つの生き物も、その心を尽くしていつも神様を恐れ敬い、賛美しています。彼らは神様の前に「聖なるかな」と告白しています。



