朝の学び137 創世記19章

創世紀 19:23-30
太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。
序論 / ソドムが火の審判で滅亡する中で
ロトと彼の家族が救われた最大の理由は、まさに神がロトの叔父であるアブラハムを覚えられたからです。義人アブラハムがロトを常に心に抱いているので、彼と霊的な紐がつながっていたロトには救いの機会が与えられたのです。しかし、ロトにいくら機会が与えられたとしても、ロト自らがその機会をつかまなければ、決して救いの道が開かれることはできませんでした。ロトの家族も同じでした。ロトの家族がロトの言葉を信じて、ソドムにあるすべてを後にしたままロトと一緒にソドムを離れたので、彼らにも救いがあったのです。このような救いの原理は、今日も同様に適用されます。私たちが救い主なるイエス·キリストを信じる時、イエス様の血によってすべての罪を赦され救いに至ることになるのです。
ヨハネの手紙第一1:7によれば「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」と記されています。唇だけで「信じます」と言って私たちのすべての罪が許されるのではなく、光である父なる神様に似て私たちも光の中で生きる時だけ、イエスの血が私たちのすべての罪をきよめるということばです。したがって、救われた神様の子供なら、当然、以前身を置いて生きてきたソドムのような闇の世界から出てきて、真理の光の中で生きていかなければならないのです。自らはいくら「信じる」と告白しても、その姿が以前と変わらず世の中に留まっているとすれば、彼はまだソドムを離れたのではありません。
ところが、ロトと彼の家族がソドムを離れたように、一旦世の中を後にして去ったとしても、それで完全な救いを成し遂げたわけではありません。ロトの妻は御使いたちの警告を覚えられずつい後ろを振り向くと、塩の柱になってしまいました。これは今日も同じです。イエス·キリストを迎えて聖霊を受け新しい被造物として生まれ変わったとしても、心から世に対する未練と欲を完全に脱ぎ捨てなければ、いつかそれによって世を再び振り返る場合が起こりえるのです。再び闇が好きになり、昔の姿に戻ってしまうのです。聖書にはこれを警戒する言葉が色々な所に出てきます。
ローマ6:6によれば「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」とあり、またガラテヤ5:1にも「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」とおっしゃいます。 ロトと彼の家族たちに「「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」」と警告したように、私たちが行かなければならない最終目標である天国に至るまでは、決して世を振り返ったり、信仰の行軍を止めてはいけません。 ロトと二人の娘たちも、自分たちが長い間生きてきたソドムの町を、もう一度振り向いて見たかったのではありませんか?しかし彼等は、御使いたちの警告に従いその誘惑に勝つことができ、結局救いに至ることになったのです。
このように皆さんも天国に向かって走っていくにあたって、時には近づいてくる誘惑と迫害に勝たなければなりませんが、そのために最も重要なのが祈りです。マルコ14:38にイエス様も弟子たちに「誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」」と言われました。心の中では「それはやめよう」と切に願っていますが、まだ捨てられていない罪の性質によって結局、肉に負けることになれば誘惑に陥ってしまうのです。ですから、肉に負けないためには目を覚まして祈り常に聖霊に満たされて、上から供給してくださる恵みと力を受けなければならないのです。信仰生活をしながら祈らない方々は、いくら信仰の年輪が古いとしても心に割礼ができず、聖霊の御声と主管と導きを受けることができないのです。
ソドムとゴモラに火の審判を執行した四つの生物
ソドムとゴモラの審判は、後代の人々に罪の結果がどんなものかを示す手本のようなものです。新約においてもソドムとゴモラが何度も引用されるほど、ソドムとゴモラとは罪と悪の象徴であり、将来あるべき罪の裁きに対するモデルなのです。このように重要な意味を持つできごとなので、神様はソドムとゴモラを審判する時、単に御使いたちを送られたのではなく、御霊の神と二人の御使いのかしらを遣わされました。直接ソドムとゴモラの状況を観察し正確な公義の中でさばきをするためでした。後代にまでその影響が及ぶとても重大なさばきなので、御霊の神ご自身が御使いのかしらたちを伴って来られたのです。正確な公義の中で最後の審判が下されると、それに従ってさばきを執行したのは、まさに「四つの生きもの」でした。
四つの生きものとは、文字通り生きもの四つが一揃いになっているケルビムのことです。それぞれの生き物に頭が一つありますが、頭の四面に人(人の子)、獅子、子牛、鷲の顔があります。このように四つの顔を持つ生きものが計四つありますが、これを総称して「四つの生きもの」と言います。四つの生きものは神様を護衛し、その命令に従って親衛隊のように動く存在です。彼らの権勢もまたすごくて、神様の意思によって審判する権勢まで持っています。彼らがどれほど大きな権勢を持っていて、神様と直接関連があるかについては、エゼキエル1:24-26のことばを見ただけで分かります。「彼らが進むとき、私は彼らの翼の音を聞いた。それは大水のとどろきのようであり、全能者の声のようであった。それは陣営の騒音のような大きな音で、彼らが立ち止まるときには、その翼を垂れた。彼らの頭の上方の大空から声があると、彼らは立ち止まり、翼を垂れた。彼らの頭の上、大空のはるか上のほうには、サファイヤのような何か王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。」また、エゼキエル1:14には「それらの生きものは、いなずまのひらめきのように走って行き来していた。」と記録しています。四つの生きものは、神の命令が下されれば、少しの遅滞もなく稲妻のひらめきのように走って、その命令を遂行するのです。
では、四つの生きものが遂行する使命はどのようなものでしょうか?四つの生きものは、神と直接関連した罪がある時、神の命令に従って動きます。例えば、聖霊の妨害、冒涜、反逆のような罪です。また、四つの生きものは、ある民族や国があまりにもひどい悪を行ってその罪の代価としてさばかれる時、直接さばきを遂行する役割をします。今日の本文に出てくるソドムとゴモラの審判のような場合です。ところで、四つの生きものがそれぞれ果たす役割がそれぞれ違います。もちろん、四つの生きものは別々でありながら、まるで一つのようにいつも一緒に動くのを見ることができますが、それでも状況によって主導的な役割をする生きものがいるのです。
ソドムとゴモラに火の審判を下した時、四つの生きものの中で、火を吐き出す権勢を持った獅子の生きものが、主導的な役割を果たしました。このように災いをもたらす権勢を持った獅子の生きものは、どんな時でも口を開くのではありません。その口を開く場合は災をもたらす時、または災いを収める時です。その他に、人の子の生きものはケルビムに命じて働かせる権勢、鷲の生きものは天の門を開けて閉じる権勢、子牛の生きものは天気の変化と気候に関することをつかさどる権勢があります。ソドムとゴモラに雨のように下った硫黄と火のさばきの場合は、硫黄と火を吐き出す災いを主導する獅子の生きものと、天の門を開けて閉じる権勢を持った鷲の生きものも補助的な役割を果たしたのです。



