朝の学び136 創世記19章

創世記19:15-22
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。0 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
ロトがツォアルに入ることを許した神様
このように災いの兆しに怯えて震え、近くにあったツォアルへ逃げようとするロトの願いに、21-22節に「その人は彼に言った。『よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。』それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。」とあります。 ロトがより完全に神様を信じて頼って「山に逃げなさい」という言葉に最後まで従順だったら良かったのですが、ロトにはそれだけの信仰がなかったのです。このようなロトの言葉を聞いて神様はもう一度慈しみを施して、ロトがツォアルに入ることを許されます。そして、ロトがツォアルに入ることも、結局はすべてを働かせて善を成すきっかけになります。 当時、ソドムとゴモラは、川とは言えないほど小さな河川を隔てた都市で、多くの民と文明が発達した大きな町でした。一つの町のように、人々が互いに自由に行き来し、生き方の姿や風習もまた世的な享楽文化も似ていました。つまり、ソドムのねじれた悪は、またゴモラの悪をそのまま示しているのです。
ツォアルもソドムとゴモラからさほど離れていない場所で、ソドムとゴモラと同じではないとしても、ここもやはり、すでに享楽的な文化にずいぶん染まっている状態でした。したがって、ツォアルもソドムとゴモラのさばきとともにいくらでも裁かれうる状態でした。 ところが、このようなツォアルをロトがその町を避け所に選んだので、そこは裁きから抜け出すことができました。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。」という言葉には、その町、すなわちツォアルも滅ぼすしかない所であるが、ロトの願いを聞き入れ滅ぼさないという意味が込められています。 結局、ツォアルはもう一度機会を得たのです。
もし、ロトがツォアルに逃避することを懇願しなかったら、ツォアルはソドムとゴモラに降った途方もない災いによって、一緒に滅ぼされたことでしょう。ところが、ロトがツォアルに入ったことで、神様はロトを救うために、その町もまた滅びから救ってくださったのです。そして、ツォアルの民はソドムとゴモラに降った災いをはっきりと見守ることができました。自分たちが住んでいた町に比べると、あまりにも大きくて華やかで多くの人が住んでいたソドムとゴモラが、一瞬にしてその跡形もなく消えてしまいました。ツォアルはソドムとゴモラから近い場所だったので、空からソドムとゴモラに降る赤い硫黄と火の雨を直接見ることができました。その上、ツォアルに逃げてきたロトと彼の家族からソドムとゴモラがなぜさばきを受けなければならなかったのか、その裁きを下した方が誰なのかを聞くことになります。 ツォアルの人々は罪と悪の結果が何なのか、ソドムとゴモラの災いを通して、あまりにもはっきりと見るようになったのです。
ソドムとゴモラに下った火の裁き
ロトがツォアルに着いたとき、待っていたかのように、ついに神は天から硫黄の火を雨のように降らしてソドムとゴモラの町を滅ぼします。 25節に、「これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。」とあります。城と周辺の人々と民だけでなく、土地から出たものをすべてひっくり返して滅ぼすことで、ソドムとゴモラの土地を二度と人々が住めない荒廃した場所にしてしまいます。審判の結果がどんなものなのかを後代の人々もやはり明確に見て悟ることができるように、このように徹底的に審判されたのです。ところが、ソドムとゴモラの地にはもう一つ災いが加わります。それはすぐに地に塩分を加えて死んだ土地になってしまいました。前にロトがソドムの土地を選んで行くときは、その土地がどんな状態だったかが創世記13:10によく出ています。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」と言ったのです。
まさにこのような土地が今日ではどうなっているのでしょうか?今日、ソドムとゴモラの土地のそばには死海が位置しています。文字通り死んだ海で、この海にはどんな生物も生きていくことができません。昔は水が豊かで肥えていて、主の園のようでエジプトのようだったその土地の周辺には、もう死んだ水が溜まっているだけです。そして当時のソドムも地盤の沈降によって、今は死海の中に沈んでいると推定されています。それで、今日はその町のあった跡までも見つけられずにいる状況です。何も育つことができない死んだ土地になるようにすることで、誰も二度とそこで以前のように文明を起こしたり、生活の基盤を成すことさえできないようにされたのです。
ソドムの町を振り返ったロトの妻
ロトと一緒にソドムの町を抜け出したロトの妻は、二人の御使いの言葉に従わず、後ろを振り返ってしまいました。その結果、ロトの妻は塩の柱になってしまいました。これは世の未練を捨てなかった結果がどんなものかをよく示してくれるのです。ルカ9:62に見ると、『するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」と言われました。主を信じて、主の中に入ってきた人が再び世を見つめることはふさわしくありません。また、ペテロ第二2:20-21には、「主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」
結論
神様の愛と公義はコインの両面のようで、お互いに切っても切れないものだと言いました。今日の本文に出てくるソドムとゴモラのさばきにも、このような神様の属性がよく現れています。正確な公義の中でソドムとゴモラを裁きますが、彼らと共に滅亡させることもできたツォアルには、もう一度機会を与えているという事です。これは何としても哀れみと慈悲を施して、一人でも滅ぼさずに救われるようにしようとする神様の御心でもありますが、このような愛が適用されたのは、ツォアルの町にロトが入ったためです。ロトに適用される救いの公義によって、ロトが入ったツォアルまでも公義の枠の中で機会を得たということです。アブラハムによってロトが救われ、ロトによって彼の家族まで救われ、今はロトとその家族によってツォアルの民にも機会が与えられたのです。
これだけ見ても、神様がどれほど愛の神様であり、どれほど最後まで機会をくださる方なのかをよく感じることができるでしょう。しかし、このように無限の愛があるにもかかわらず、最後までその愛を受け入れない人は、結局公義の審判を受けることになります。神様の愛と哀れみと慈悲が足りないからではなく、人の側でその愛を受け入れるように少しの心の扉も開かなかったからです。皆さんはこのような神様の愛と公義を悟り、常に神様の愛の中に住んでください。 また、公義の中に溶け込んでいる神様の愛に気づき、皆さんを通して周りの人々が救われ、神様の愛が伝えられる貴重な道具になりますように、主のお名前によって祈ります。



