朝の学び135 創世記19章

創世記19:15-22
夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。0 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアルと呼ばれた。
序論
愛する聖徒の皆さん、ついに審判の時間が近づくと御使いたちはロトを催促して家族と一緒に町を抜け出すようにします。父なる神様が決めたことは、すべてが正確な時と時限に合わせて働かれるので、誰も任意に変えられるものではありません。使徒の働き1:7に「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」とおっしゃっています。人間耕作の6,000年の歴史もやはり最初から始まりと終わりに対するすべての計画が出ていて、いかなる理由であれ変更できるものではありません。 もし、途中である理由で変わったら、すべてのことを知っている神様とは言えません。しかし、神様は予知予定の全能な方として、これからのことの全てを知って決めたことなので、一寸の誤差もなく叶うことになります。
したがって、神様は必ずあることを行うにあたって、あらかじめ兆候を示してくださったり、神の人に知らせてくださったという事です。アモス3:7に「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」と言われた通りです。ソドムとゴモラのさばきも、やはり神様はアブラハムにあらかじめ知らせて下さり、ロトにも知らせて下さっているのです。ここで重要なことは、このようにあらかじめ教えてくださった時、その言葉を受ける人の心と態度です。前回申し上げたとおり、ロトは自分たちの娘と婚約した婿たちにもソドムに迫った審判について伝えました。しかし、この言葉を聞いた婿たちはどうだったのでしょうか?「しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」と。だから、いくらこれからあるさばきについて教えても、婿たちは全く準備もせず、結局はソドムとともに滅びてしまいました。反面、ロトはどうでしたか?すぐに御使いたちの言葉に従い、ソドムを離れたことが分かります。自分がこれまでソドムで築き上げた多くの財産と生活の基盤を放棄したまま、ソドムの町を脱出して出てきたのです。
このように、ロトと彼の婿たちとには大きな違いがあります。ロトの婿たちは、ロトの言葉を信じることもできなかっただけでなく、たとえその言葉を信じようとしたとしても、ソドムの町の暮らしと自分たちの生活の基盤を放棄できる人々ではなかったのです。結局は世が良くて、そして自分たちが築いてきた肉のものに対する未練が残っているため、あきらめることができないのです。 今日もこんな人たちがいます。日曜日に教会に行かなければならないことを知りながらも、お金を稼ぐことに未練があり、主日を完全に守れない人がいます。神様の言葉に従って祈るべきで、捨てるものは捨てて、切るものは切るべきであることを知っていながらも、世を愛し、肉を愛するので、世を断ち切ることができずにいる人もいます。しかし、ロトはそうではありませんでした。考えを働かせたり、未練を持っているのではなく、すぐに従順して行ったことが見られます。
このようにアブラハムを覚えて神様がロトに恵みを与えてくださったこともありましたが、ロト自らも神様の言葉に直ちに従う信仰、行いの信仰があったために、救いの恩寵を受けることができました。前にも申し上げたように、当然、従うことができるものだけに従うことは、霊的な意味で完全な従順ではありません。人の考えを働かせれば従順できないこと、現実を見れば従順できないことに従うことが真の従順です。聖書を一度ずっと読んでみてください。アブラハム、モーセ、エリヤ、ダニエルと3人の友人など、信仰の先輩たちは一様に信仰でなければ従順できないことに従順しました。自分の命をかけなければならない状況、自分の力と能力では到底できない状況、「自分」が残っている以上は、決して従順できない状況で従順が出てきたのです。それでは皆さんご自身はいかがですか? 当然すべきこと、いくらでもできることに従順でない姿はありませんか?もし、皆さんにも、ロトのように人生のあらゆる基盤を放棄したまま去るように言われたら、喜んで「アーメン」として従うことができますか?それとも、あれこれ言い訳と理由を言いますか?
ところが本文の16節を見ると、「しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」ロトがしばらくためらっている場面が出てきます。しかし、ロトがこのようにためらったのは、ソドムに対する未練があったり、従う気持ちがないからではありません。 この時、ロトがためらったのは、まさに自分に属した人々を一人でも多く救うためだったと言いました。ノアが箱舟の扉が閉まる瞬間まで、さばきが迫っていることを叫んだように、ロトも最後の瞬間まで、どうしても自分に属していた人々に審判が迫っていることを知らせ、彼らと一緒にソドムの町を離れようとしたのです。当時、ロトはそれでも、ソドムである程度富を持って住み着いていたので、当然彼に属した人たちもたくさんいました。ソドムの滅びを知るロトとしては、彼らをそのまま置いていくことができなかったのです。それで何とか一人でも連れてこようとしましたが、結局はやっと妻とふたりの娘だけを連れて町を抜け出さなければならなかったのです。このようにいくら「さばきが近い、最後が近い」と叫んでも、救いは自らの自由意志の中で従う人にだけ与えられるのです。
うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。
17節に「彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。『いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。』」とあります。状況が緊迫したあまり、御使いたちはひとまずロトと家族を町の外に引き出した後、もう一度お願いをしているのです。ところが、この時、御使いたちがロトと彼の家族を町の外に連れ出したということは、瞬間的に霊の空間に乗る力を表したことを意味します。先に16節に「その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」とおっしゃったように、御使いたちは霊の空間に乗る力でロトとその家族たちを導き出したのでした。
ふたりの御使いのかしらがこの地に来る時は肉の制限的な空間をまとわなければならず、また制限された肉の法則に従わなければならなかったのですが、すでにソドムの町の罪悪を自ら体験して目的を成した後だったので、これ以上肉の限界の中に留まる必要がなかったのです。それで、ロトの家に集まってきたソドムの町の民の目を目つぶしで暗くした時から、すでにふたりの御使いのかしらは、本来の能力に回復した状態だったのです。そして、今災いが差し迫っている状況で、再び自分たちの能力を発揮し、ロトと家族を一瞬で、町の外に導いたのです。
それでは御使いたちが頼んだ「うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。」という言葉はどういう意味でしょうか?「振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。」というのは、罪悪で満ちた世を徹底的に断ち切り、振り返ってはいけないという意味です。また、自分の中にある肉的なものを徹底的に断ち切ってしまえという意味です。ソドムは霊的にねじれている世を意味します。そのため、ソドムの町を振り返ったり、いったんソドムの町を離れた後でも、低地にとどまることは、世から完全に出てきたのではありません。依然として世の中に対する未練を持っているのであり、再び世の中に戻ることもできるのです。
今日もこのような人々がいます。世を捨てて主の中に入ってきたといっても、再び世の中に落ちる人がいて、依然として世の中を捨てられないまま、片足は世の中に片足は教会の中に置く人もいます。このような人たちがソドムの町を抜け出しましたが、後ろを振り返ったり、途中に留まる人です。「山に逃げなさい」というのは、世の中と区分された新しい人生を始めなさいという意味です。山は世の中と区分されて生きていく場所で、このような山に逃げろということは、世の中と接していないところから新しく始めろという意味です。
ロトがたとえ最初に選択を誤ってソドムという曲がった世に陥ってしまったが、神様の言葉に従い世の中のすべてを捨てて新しい人生に向かって出てきた時、救いが許されました。ただ体だけが世の中から抜け出したのではなく、後ろを振り返ったり、留まるなという言葉によって心から完全に世に対する未練を捨て、徹底的に切れたのです。心から断ち切らなければ、いつか再び心が世に向かうこともありうるということを悟らなければなりません。満たされている時は、そのような心が現れなくても、満たされていない状況になると、押し込められていた世を愛する心が現れるようになります。ですから、皆さんは行いと共に心から完全に真理に変化させてください。それで心がただ父なる神様への愛でいっぱいに満たされている時だけが、世の中のどんなことにも心動かされず、サタンの働きを受けないという事です。
災いの兆候が迫ると、ツォアルに行くことを頼むロト
「山に逃げなさい」という御使いのかしらたちの言葉に、ロトは18-19節に「ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。」と答えました。これにより、私たちはソドムに降りる災いがどれほど差し迫っていたかを知ることができます。あまりにも災いの兆しが差し迫った状況になると、ロトは恐怖のため山まで逃げる気力を持たず、より近いツォアルに逃げることを許してほしいと要請したのです。
20節に「『ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。』」と懇願したのは、ロトがソドムに対する未練が残っていたり、「山に逃げなさい」という言葉に不従順しようとしたのではありません。ソドムとゴモラに降る火のさばきの兆候だけを見ても、ロトがこのように恐ろしく震えながら急いで避ける所を探そうとしたのかを見るとき、そのさばきがどれほど途方もないものだったかを推察することができます。
ところが、このような兆候の前でも、実際にソドムとゴモラの民は気づかなかったという事です。まさに最後の時もこのようです。マタイ24:37-39に「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。」とおっしゃいました。ところが、テサロニケ第一5:4-6によれば「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。」とおっしゃっています。
眼を覚ましていたロトがソドムの町から出ることができたように、目をさまして、慎み深く、光の中を生きていく人には決して主の日が盗人のように臨むのではありません。霊と魂と体が傷もなく守られた状態で、新郎になられる主を迎える準備をして迎えることになります。ヨハネの手紙第三1:2「 愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」それでは皆さんは神様の再臨をどのように迎えたいですか?世のことに酔って眠っていて、その日を盗人のように襲われる方は一人もいないようにお願いします。



