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朝の学び134 創世記19章

9月9日
読了時間: 10分

創世記19:9-16


しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。




アブラハムを覚えてロトに憐みを施された神様


12節に「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」とあります。この時ふたりの御使いのかしらが、ロトの身内がここにいるのかを知らなくて尋ねたわけではありません。それでもふたりの御使いのかしらがこのように尋ねたのは、神様がアブラハムを覚えられて、ロトと彼の身内の者にまでも、どれほど憐みと恵みとを施しておられるのかを感じられるようにされたのです。ロトの立場では、たとえふたりの御使いのかしらが自分を救うために来たとしても、彼の身内の者まですべて助けてくださいと、先にお願いできることではなかったのです。ソドムが今どんな状況に達したのかを感じ、自分自身がこうしたところを選択してきたことに対して、神様の御前であまりにも申し訳なく心苦しいなかで、とても家族と自分の身内まで助けて下さいとお願いできる状況ではなかったということです。

ところが神様はふたりの御使いのかしらを通し、ロトにあらかじめ「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」とおっしゃられて、憐みと慈悲の中で救いの幅をひろげて下さったのです。アブラハムを覚えてロトを救われた神様は、ロトの家族とその身内までも救われる機会を与えておられたのです。ロトは救いを受けたとしても、かりに彼の家族たちと彼の身内に、ただ一度の悔い改める機会も与えられないまま、直ちに滅びが臨んだとすれば、ロトがどれほど後悔して心痛く感じますか?神様はこれらすべてのことまでご存知であるので、アブラハムを覚えられて、ロトだけでなく彼の身内にまでも、恵みを施しておられるのです。神様はどのようにしても滅ぼされようとする方ですか?いいえ、どのようなたましいでもさらに救い、天国に導こうとあまりにも願う方であるので、公義から抜け出さない範囲内で、なんとか救いの幅を広げていかれたのです。この一つの事実をみる時、神様の愛される人に属しているということだけでも、如何に多くの機会を得ることができるかを悟るようになります。


ロトの話を冗談だと思ったロトの婿たち


13-14節を見れば「『わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。』そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。『立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。」とおっしゃっています。このように、御使いのかしらが説明する時に、ロトは彼らの話を全て信じたので救いの道に従います。その救いの道は、まさに御使いのかしらたちが提示した通り、町の外に出て行くことです。もうすぐソドムには火の審判が臨むようになります。したがってその町にずっと残っていながら、「私はどうしたら救われるだろう」と考えることは、あまりにも愚かです。これは霊的にも同じです。聖書を見れば、神様はある罪に対しては、その中でずっといるようになれば救いを受けられないことを明確におっしゃいます。

ガラテヤ5:19-21「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」とあります。またヨハネ第一5:16-17には「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。そして、まったく死に至る罪もあることをおっしゃいます。したがってロトがソドムを離れた時救いがあるように、私たちも罪から離れた時、救いがあることであり、特に肉の行いや死に至る罪には決して陥ってはいけません。

ロトはソドムを離れろという御使いのかしらの言葉を聞いた時、その言葉を信じたので、家族たちにも救いの道を提示してあげます。「私だけ救われれば良い」としたことでなく、何とか自分の家族と自分に属した人々を、皆救いに導こうとしたことです。家族を愛して自分の周りの人々を愛したら、どうして滅亡が差し迫ったという事を分かりながらも、伝えられないことがありますか?結局、ロトの娘たちと妻はロトの話に従ったが、婚姻を定めていた婿たちには冗談のように思われたのです。救いの機会が与えられたが、彼ら自らがその機会を捨ててしまったのです。彼らにはソドムを離れるべきだという言葉が耳に入ってこなくて、悪で染まっていた彼らの心にはソドムの人生があまりにも良かったし、それをあきらめる心が全くなかったのです。

 

ヨハネ第一2:15に「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」とおっしゃられた通り、神様が先ず、愛をもって御手を差し伸べて、救いの機会を与えて下さったにもかかわらず、世を愛する心がいっぱいだから、世の中に陥ってしまうのです。神様の愛がその心の中に入ってくる余裕がないためです。これは現在でも同じです。この祭壇に現れる数多くの御力の働きらと、あまりにも明らかな神様の御心を伝える生命の御言葉があるにもかかわらず、世を愛する人はこの中に入って来られないのです。かりに教会は行き来しても心がすでに世にある時、心の中をご覧になる神様も神様を愛する心がないとおっしゃいます。

また皆様が周りの方にこの祭壇に現れる神様の働きを伝えた時、信じて来る人がいるかと思えば、ある人はロトの婿たちのように冗談や嘘だと思う人もいるでしょう。救いの恵みを施していたとしても、神様の働きを信じられないことによって、その機会を自らが逃しているのです。しかし私たちは最後まであきらめないで伝えなければなりません。テモテ第二4:2「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」とおっしゃられたように、私たちはまず神様の御心により福音を伝えなければなりません。


ソドムを抜け出すロトと彼の家族


15-16節「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。『さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。』しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」もうすぐさばきが差し迫った時点になって、これ以上の機会は与えられません。ここで「ロトがためらっていた」ということは、ロトが最後まで自分に属した人々の中で、ひとりでも救いに達するようにするために努めていたという意味です。

 

ロトには家族と婚約をしていた婿以外にも、家で使っていた多くの人々がいました。ロトは彼らにも救いの機会を与えたかったのですが、彼らはソドムの町に対する未練を捨てられなくて、離れることができなかったのです。ついに決められた期限がすべて満ちてしまったら、ふたりの御使いのかしらは、急いでロトと彼の妻とふたりの娘たちを率いて町の外に連れ出します。ただロトの話を信じて従う準備ができていたロトの妻とふたりの娘たちだけが、ロトと一緒に救われるのを見ることができます。このように救いとは、自分自身の選択の中で得られるものであって、誰かが代わりに救ってくれたり、強制的に救われるようにすることではないという事です。

 

それでは皆様はこのような状況でどのようにしますか?もちろん皆が「ロトのように町の外に出て行きます。」と答えるでしょう。しかし現実には、そうではない方々を見るようになります。その当時ソドムの町を離れるということは、これまで自分自身が築いてきた生活の基盤を全て放棄することを意味します。自分が持っている富と名誉と権力も未練なく置いていかなければならないのです。また「私はロトに従います。」と言っても、もし家族が引き留めたりするなら、一緒に従わないこともあります。こういう場合には家族までもあきらめなければなりません。今すぐには滅びが差し迫っているという兆しが目に見えるわけでもありません。かりに滅びが臨んだとしても、これまで集めた財産を少しでも手に入れる時間はありそうですね。それでも全てのものを捨てて、からだだけ抜け出しなさいということです。

この状況で皆様は果たしてどんな選択をしますか?もしかしてロトの妻のようにすぐには町を抜け出したが、未練を捨てられなくて後ろを振り返りますか?決してそのような方がいてはならないでしょう。ソドムの滅びに対して次の時間に引続き調べるようにします。


結論


今日、私たちはあたかもソドムの町と同じ状況で生きています。新聞やテレビに出てくるニユースを見ればあまりにも恐ろしく、人としては考えにくい多くのことが起きています。ペテロ第二2:8「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」という御言葉のように心が傷むほかない現実です。だからといって、私たちが世に背を向けたまま生きていけるのではありません。私たちの使命はむしろ世の光と塩になることですから、世でも正しいキリスト者としての光を放ち、味を出さなければならないのです。

また神様の子供としてこの世の生活を送る間にも、祝福され人々からも認められる生活を送らなければなりません。しかし覚えておくべき明らかな事実は、ただ旅人のように通り過ぎる人生だということです。いつでも神が「来なさい」と呼べばこの地の人生に少しの未練もなく、主のふところに抱かれなければならないのです。こういう人ならばこの世でも世にあることに心を寄せません。ただ主に向かった愛と天国に対する希望でいっぱいになります。そうして将来、主が私たちを迎えに来られる時、先頭に立って主のふところに抱かれることが出来ますように、主のお名前で祈ります。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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