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朝の学び133 創世記19章

9月9日
読了時間: 9分

創世記19:9-16


しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。・・主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。




序論

創世記講解は人の知識や理論または考えの中で出てくる内容では決してありません。それと共に、世の知識や理論では全く説明できない部分までも、すがすがしくひも解いてくださる御言葉です。また創世記講解を初めからお聞きになった方々は感じているでしょうが、今までのすべての内容が互いに正確に一致して、同じ脈絡の中で続いているという事です。これをどうして人が作り出せるでしょうか?まず天地万物を創造して、全てのものを皆ご存知の父なる神様だけが解いてくださる内容です。

さらに創世記講解は、ただ単に御言葉の解き明かしだけで終わるのではなく、御言葉を通し説明された霊の世界の明らかな姿が、私たちの前に繰り広げられています。第二の天があるという証拠として、雲が突然現れて消える姿をはじめとして、星の移動とUFOが数えることができないほど目撃されて、カメラにもおさめられました。もちろん霊の目が開き、直接第二の天にあるエデンの空を見られる聖徒も、たくさん出てくるようになったのです。また創世記講解を通し、ノアの洪水のあらまし、恐竜の存在と滅亡、古代文明のなぞも解けるようになりました。私が考古学を勉強したことでもなく、天体物理学や地質学等世の学問を勉強したことでもないのですが、父なる神様が解いて下さると、世の学問では説明されないことを、このように明快に解いていけたのです。

 

しかし何よりも重要なのは、創世記講解を通し、初めに対して知るようになったという事です。この世の誰が、どこで、初め以前からの初めに対して、そして初めの神様に対してこのように解いてくださるのでしょうか?マタイ13:16-17「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。 まことに、あなたがたに告げます。多くの預言者や義人たちが、あなたがたの見ているものを見たいと、切に願ったのに見られず、あなたがたの聞いていることを聞きたいと、切に願ったのに聞けなかったのです。」とおっしゃられた通り、皆様自身が見て聞く全てのものが、どれくらい大きい神様の恵みの中で与えられたことかを、心の中心から悟って感謝できるよう願います。それでヨハネ第一2:13前半節「父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」とおっしゃった御言葉のように、皆様の信仰も迅速に父の信仰に出てこられるように主のお名前で祈ります。


人としての道理もなくしたソドムの人々

9節を見れば、「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに合わせてやろう。」と言いました。この御言葉を通し、私たちはソドムの人々がどれくらい悪なのかがわかり、その一方で、自らは自分たちの悪を悟れずにいるという事が分かります。ロトは自分の家に入ってきた二人が、神様に属する尊い方々であることを分かったので、どのようにしてでもその方たちを守るために、自分の娘を代わりに差し出すという提案までします。しかしソドムの人々は頑として、自分たちの行動がどれくらい誤ったことかを悟らせてくれるロトの話に、むしろ更に悪の姿として出てきます。

ロトはソドムの人々に、理性を持った人としての当然の道理を悟らせているのであり、ロトの話や行動が全く悪のことでなかったにもかかわらず、ソドムの人々は自分たちの思い通りにならないので、今はロトまで害しようとしたのです。私たちは現在でもこのような姿がしばしば見られます。悪の人々は、善の話をして善を教える人を見れば、かえって悪がさらに発動したりもします。善の中で自分たちの悪が耐えられないためです。

 

それでヨハネ3:20にも、「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。」とおっしゃいました。光の中に居て心が善良な人ならば、当然善なるものが好きで、光の中にさらに出ていくことを願うようになるけれど、反対に闇の中に居る人は、自身の闇が明らかにされることを恐れて、光の方に出ていこうとしないのです。それと共にむしろ光を嫌うのです。

 

ソドムの人々もまさにこういう状況だったので、ロトが正しい話をしたのにも、それが自分たちの闇を表して刺す言葉になって、このように悪の反応が出てきたのです。更にロトの行動を言い訳にして、すべての責任をロトに返しています。あたかもロトが自分たちの上に君臨する裁判官になろうとするために、自分たちがこのように行動するほかはないという論理です。しかしこれは単なる言いがかりであって、結局は、自分たちの行動が阻止されたことに対して恨みを抱いて、ロトに悪で返すという構図です。人が悪で染まるようになれば、これと共に人としての道理も忘れるようになるので、善を悪で返すようになるのです。

サウロ王がまさにそうでした。サウロ王は、自分を助けて敵をしりぞけ、国に大きい功績を立てたダビデに対して、善を悪で返した人です。ダビデの功をほめて、それに感謝することであるにもかかわらず、民が「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」という話を聞いて、思わず悪を発動して、人としての道理も忘れてダビデを殺そうとしたのです。何が正しくて誤っているかを分別できなくて、かりに分別するとしても、結局は自分の心の悪で行っていくようになるのです。皆様の中にはあるいはこういう姿があってはなりません。

明らかに正しい話であると思いながらも、その話が自分の欠けていることを指摘するとか、自分の利益に役に立たないことである時、それによって話をする人を嫌うようになって、悪の企みや行動でその人を倒そうとしてはいけないのです。特に自分が力を持っていて、より大きい権力を持った場合ならば、より一層下の人や周りの人の話に耳を傾けるべきです。たとえ子どもの話でも、その話が真理に照らし適当なことならば、謙虚に受け入れられる姿勢にならなければなりません。

ソドムの人々は性的に堕落していた悪だけでなく、すでに人としての道理さえもなくしたまま、道徳的にも倫理的にもあまりにも荒廃している状況でした。それ故に、ロトはかつて目に見るのに良いソドムの地を自ら選んで行ったのですが、実際に彼らの中で生きていくうえで、彼らと同化して暮らすことはできなかったのです。自ら信仰があったロトの立場では、悪に染まって生きていくそれらの人々と相反し,多くの分野で困難な状況に直面しました。またソドムの人々の立場からも、ロトは自分たちの放蕩な生き方にならう人でなかったので、いつも異邦人のようにみなしていたのです。だから普段お互いの間で円満でなかった関係が、今回のことを契機にしてより一層悪化しながら、ソドムの民たちはロトに害を与えようとする状況にまでになったのです。しかし彼らがロトを害するということが彼らの目的ではなかったのです。本来の目的はロトの家に入った二人を自分たちの望むとおりにしようとすることであったし、これに邪魔になるロトを先に害を与えようとしたのです。


 

空間を分離して、入り口を探せないソドムの人々

このように状況が急迫するとついに二人の御使いのかしらが隠していた能力を表します。10-11節に「すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。」ここで目つぶしをくらったことがあたかもしばらくの間、目があけられないようにしたという意味ではありません。仮りに、一時的でありながらしばらくの間、目が見られなかったのだったら、目も見えない状況で継続して、入り口をさがそうとする人はないでしょう。彼らが入り口を探すのに困難だったということは、彼らの目にははっきりと入り口が見えるようだが、それにもかかわらず、実際にさがそうとすればさがせない状況であったということです。これはまさに空間を分離させたので可能な現象でした。

もう少し簡単に説明をするなら、例えば私たちがいるこの空間の中に数多くの御使いたちが共にいるとしても、霊の目が開かれなければ見られないですね。もちろん肉の空間と霊の空間が違うけれど、霊の目が開かれた人が見ると、私たちのすぐ近くにいる天使であっても、霊の目が開かれなければ見られないのです。二人の御使いのかしらが、人々の目を暗くしたということは、まさにロトとロトの家族たちがいる空間と、ソドムの人たちがいる空間を分けるため、ソドムの人たちには、ロトが入っている空間の中にある入り口をさがすことをできなくしたという意味です。そうなるとあたかも霊の目が開かれない人は天使を見ることができないように、ソドムの人々にはロトの家の入り口が明らかに彼らと同じ空間の中にあるにもかかわらず、さがせなくなるという事です。同じ空間にいるようでも、実際には全く違う空間に入っているためです。

一つ比喩をあげれば、犬か猫のような動物に生まれて初めてテレビを見せるとしましょう。するとテレビで見せる場面が、あたかも今自分たちと同じ空間で形成されている状況として受け入れます。それでもしテレビで彼らが好きなおいしい食べ物を見れば、犬や猫はそれが画面の中にある食べ物なのかを知らないまま、その食べ物をとろうと努めるようになります。しかしいくらつかもうとしても、テレビの中にある食べ物が犬や猫の足で捕まえられますか?初めは犬や猫が、テレビの中に映る食べ物を捕らえようと、ありったけの力をふりしぼるでしょうが、後にはおのずと疲れてあきらめるようになります。これと同じようにソドムの人々も空間が分離した状況で、これを全く感じられないまま、熱心にロトの家の入り口をさがそうとしましたが、結局は探せなくてあきらめてしまいました。このようにして急に悪化した状況からまぬがれて出て、ついにロトと彼の家族たちのソドム脱出が始まります。

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