朝の学び131 創世記19章

創世紀 19:1-8
そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らない二人の娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」
序論/御霊の神を「神である主」と記録した理由
聖書に記されている人間耕作の歴史は、大きく3つに分けることができます。御父の神ご自身がつかさどって、導いて働かれた時代、御子イエス様がこの地上に来られて働かれた時代、御霊の神が聖霊として来られて働かれる時代です。旧約聖書を見れば神である【主】の御名によって働かれる場面が多くあります。ご自身で声や幻で働かれたり、仕える御使いを使者として遣わして働かれたりもしました。もちろん、今も人間耕作のすべての歴史は御父の神がつかさどっておられますが、旧約時代にはご自身で前面に出て働かれたということです。
その後、御子イエス様がこの地上に来られて、救い主としての使命を果たされる働きがあり、天に上っていかれた後は、働きのバトンを聖霊様に渡されました。将来、主が私たちを連れに再び来られるまで、聖霊様が働かれる時代が繰り広げられます。だからといって、旧約時代には御父の神おひとりだけが働いて、御子と御霊の神は何もしなかったのではありません。また、聖霊時代だからといって、父なる神と主が静かにご覧になっておられるだけではありません。三位一体の神はいつもご一緒に働かれるので、旧約時代であっても、御子と御霊の神が時に応じて御父の神の働きを助けられたし、今日聖霊の時代にも、父なる神と主が活発に働いておられます。ただし、各時代に主体となる方がいらっしゃるので、その時代にはおもにその方の御名によって働きが行われます。
したがって、旧約時代には御子と聖霊様がなさったことでも、父なる神様の御名で働かれる場合が多く、聖霊時代に至っては、父なる神様と主の働きも、聖霊様の御名によってなされる場合が多いです。 旧約時代の主体は父なる神様なので、御子と聖霊様の働きは、あくまでも父なる神様に代わる役割になるのです。それで、前回学んだ通り、ソドムとゴモラをさばくために来られた御霊の神を、聖書にはその方を「神である【主】」と表現した理由がまさにここにあります。 実際、御霊の神が来られたのですが、これはあくまでも父なる神様に代わって、その御こころを授かって来られたのですから、「神である【主】」と表現しているということです。 例えば長男が父親に代わってある仕事を見に行き、父親の名前で契約をして判子を押したとすれば、それについては、当然父親に責任があり権限もあるようにです。今、なぜ聖書に、アブラハムの前に現れた神様を御霊の神と言わず、「神である【主】」と言ったのか理解できましたね。
肉の空間の法則に従ってソドムに到着した二人の御使い
創世記18:22によれば「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」として御霊の神と共に人の形でこの地に降りてきた二人、すなわちルシエールとルシヤの御使いのかしらは、自分たちの使命を遂行するために、ソドムに向かって出発しました。そして、創世紀19:1に「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」とある通り、正午頃にアブラハムの前に現れ、食べ物をもてなされてしばらく対話した後、ソドムに向かって出発した二人の御使いのかしらが、日が暮れる頃にはソドムへ至ったのです。
イスラエルはその土地の面積が我が国の江原道(カンウォンド)より少し大きく、アブラハムが住んでいたマムレの近くとソドムとはそれほど遠い距離ではありません。もし御使いたちがこの街を霊の空間に乗って行くとか、あるいは肉の法則を跳び越える能力で行ったとすれば、このように多くの時間がかからなかったでしょう。使徒の働き8:36-40を見ると、「道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。『ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。』そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。」とあります。ここで主の霊に導かれたピリポが、他の場所に現れることが分かります。まさに霊の空間の中で、霊の流れに乗ってあっという間に移動したのです。
二人の御使いのかしらもいくらでもこうできるのに、日が暮れる頃になってようやくソドムに至ったということは、彼らが霊の空間に乗ったり、肉を超越する能力を使ったのではなく、完全に肉の法則に従ったことを物語っています。つまり肉の体をまとった人が歩くように、彼らも同じように歩いて行ったということです。これは、二人の御使いのかしらが限られた肉の空間をまとっていたために可能でした。そして、彼らがこのようにしたのは、まさに人と同じ条件の中ですべてを調べるためでした。ただ「さっと」飛んで行って、ソドムの町だけを見て火のさばきを決めたのではなく、人と同じように歩き、感じながらソドムの周辺の情況までも細かく調べたのです。
ソドムでの人生に疲れ果てて空虚だったロト
ちょうど町の門のところに座っていたロトがソドムに到着した二人の御使いのかしらを見て、すぐに立ち上がって迎えに行き、地面に顔を伏せてお辞儀をします。 ロトがどのようにしてこのように手厚く出迎え、お辞儀をしたのかは前にすでに説明をしました。 自分が捕虜になった時、自分を助けに来た叔父アブラハムと一緒にメルキデゼクに会うことができたロトは、その時、霊の眼が開かれ、メルキデゼクと共にしていた御使いのかしらたちを見ましたが、彼らがまさに今日の本文でロトの前に現れた御使いたちでした。 御父の神はこれからのすべてをご存知なので、あらかじめロトに2人の御使いのかしらを見ることができるように、彼の霊の眼を開いて働かれたのです。
では、ロトが門のところに座っていたということは、何を物語っているのでしょうか? それは、ロトがソドムの人生にどれほど疲れていて、彼の心が空虚だったかを物語っています。ペテロの手紙第二2:6-8によれば、「また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」と述べています。
叔父のアブラハムのそばで真理を見て聞いて学んだロトだったので、たとえ自分の目に良いところを選んで、ソドムに彼の人生の基盤をつくったとしても、その中で行われることが神様の前にどれほど正しくないのかを心に感じて、苦しみを受けていたのです。 さらに神様のさばきが迫り、罪と悪で染まっているソドムの姿を見守るロトの心は、どれほど痛んだでしょうか?だからソドムでの生活に疲れたロトの心には、虚しさがこみあげてきたのです。前に叔父のアブラハムと一緒に暮らした時と今の自分とを比べてみて、今あまりにも価値なく生きていく自分の人生に対する悔恨が押し寄せてきたのです。 ちょうどこのような時に、二人の御使いのかしらが彼の前に現れました。 これはロトに訪れた貴重な恵みの機会でした。
心があまりにも貧しくなっていたロトは、彼らがどんな方なのか知っているので、この機会を逃すことができませんでした。二人の御使いのかしらが、どんな目的をもってソドムを訪ねてきたのかは知らなくても、ロトはこの時こそ自分が失った恵みを取り戻せる機会だと考えたので、二人をそのまま去らせることができるわけではありませんでした。 これが結局はロトにとって救いの機会になりました。
恵みの機会を逃さないロト
それで、ロトは二人の御使いのかしらに懇願して、自分の家で泊まるようにお願いします。 2-3節に「『さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。』すると彼らは言った。『いや、わたしたちは広場に泊まろう。』」しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。」とあります。まさにロトに仕えの行いがあったから、これが、ロトが救いに至るもう一つのきっかけになったという事です。もちろんロトが救いに至ったのは、アブラハムを覚えておられる神様の恵みでしたが、ロトがこのように神の使いを手厚くもてなして、恵みを求める心があったので、公義に外れることなく救いの道が開かれたのです。これはまるで私が病人たちに祈る時、私の神の力がいくら大きいとしても、祈りを受ける側からも、少しの信仰は示さなければならないのと同じ理屈です。何の信仰も誠意もなく、幸運や奇跡を願う気持ちで私の前に出て祈りを受けようとするなら、心を見る神様がどのように働いてくださるでしょうか?
ロトが救われたことには、叔父アブラハムの恵みがあまりにも大きかったのですが、救いは結局、個人の信仰によるものなので、ロト自らも救いの枠の内に入ることができる、彼の信仰を見せなければならなかったのです。このようにロトの立場では、自分に訪れた恵みの機会を逃さずにつかんだという事です。 例えば、以前は主のしもべを見れば何とか仕えることを望み、恵みを受けることを望み、恵みの席があれば何とか訪ねて恵みを受けようとする姿だった方が、恵みが落ちれば、今は恵みの席があっても避けようとするのです。しかし、本当に信仰のある人ならどうすればいいですか? むしろ恵みが落ち充満さが落ちた時に、さらに恵みを慕わなければならず、満たされる道を探さなければならないでしょう。恵みの席があればさらに訪ねていかなければならず、恵みの機会が来た時につかまなければならないのです。
したがって、ロトは二人の御使いを見た時、彼らに懇願して家に迎えて仕えるほどの信仰があり、その信仰を行いに現わしたので、恵みの機会をつかんだのです。 アブラハムがロトを心に抱くことの上に、このようなロトの信仰の行いが加わったため、火のさばきの中でも救われることができたのです。



