朝の学び130 創世記18章
創世記18:20-33
そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。 もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」 そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」主はアブラハムと語り終えられると、去って行かれた。アブラハムは自分の家へ帰って行った。
ソドムとゴモラを視察された神様の意図
神様はアブラハムに非常に重要な約束の言葉をした後、直ちにソドムとゴモラについて話してくださいます。20-21節に「そこで主は仰せられた。『ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。』と言われました。
この言葉には3つの意図が込められています。第一に、神様はすべてを知っているにもかかわらず、もう一度慎重に調べることで、決して公義に外れないようにしようとすることです。ソドムとゴモラに下されるさばきは、すべてを滅ぼしてしまう途方もない災いであったので、このように最後まで繊細に調べて、わずかな間違いもないようにしようとしたのでした。
第二に、この言葉の中には罪の結果が何なのか、したがって罪悪に陥ることをどれほど警戒しなければならないのか、これをアブラハムが確実に心に刻むようにしようとする意味が含まれています。アブラハムに驚くべき祝福の契約を下さいましたが、その約束が完全になされるためには、彼の子孫の中に決してソドムとゴモラのような誤った前轍を踏むことがあってはならないので、このようにソドムとゴモラが滅亡に至ってしまう過程をアブラハムの心に確実に植え付けることで、また彼の後の子孫の心に刻み、後々まで警戒するようにされたのです。
第三に、神様はアブラハムにソドムとゴモラの滅亡についてあらかじめ教えてくださることで、そこに住むアブラハムの甥ロトに救いの道を開こうとされました。アブラハムがソドムとゴモラに差し迫ったさばきについて知った時、一番先に誰が思い浮かんだでしょうか?それは甥のロトでした。いつも心に留めていたロトでしたが、このロトが住んでいるソドムが滅亡される状況に置かれたので、これを知ったアブラハムはより一層ロトを心に抱いて祈るしかないのです。そしてアブラハムがこのように心に抱いて祈ることで、神様は甥のロトに救いの道を開いてくださいます。これはどういう意味でしょうか?これはまさにロトの救いが全面的にアブラハムによるものであることを確実にしていらっしゃるのです。
霊の世界の法則は、求めてこそ答えられるのです。ヤコブ5:16「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」の言葉のように、愛と信仰をもって捧げる義人の祈りは、働くと大きな力があります。したがって、神様はアブラハムにソドムに差し迫ったさばきのことを教え、アブラハムがロトを心に抱いて祈るようにされるのです。その祈りに答えてロトに救いの道を開いてあげようとなさるのです。
私もこのようなケースをよく体験してきました。例えば、神様が主のしもべや働き人についてあることを教えてくださる時がありますが、これはそれを教えてくださることで、私があらかじめ知って対処するようにしようとする意味もありますが、私にこのように知らせてくださると、私が心に抱いて祈ることを知っておられるからでもあります。たとえば、ある聖徒が死の道を進んでいると教えてくださったとしたら、それを知った私がどうしますか?知った瞬間から、その魂のために哀痛し、心に抱いて父なる神の前にしがみつくようになります。では、神様はなぜ私がこのように悲痛で心を痛めることを知りながらも、私にそのようなことをあらかじめ教えてくださるのでしょうか?それはまさにその魂に一度でも多くの機会を与えるためです。
もし神様が教えてくれなくて、結局その魂が死に行くことになったとしたら、その時は私がどれほど心を痛めて哀痛するでしょうか?だから、私がその魂について知った時、あまりにも心を痛めることを知っていますが、それでも私が心に抱いて祈らせるようにされ、その魂に救いの道を開いてあげようとするのです。羊飼いを見て、与えていただく機会なのです。これがまさに神様の愛であり、同時に神様の公義です。アブラハムを覚えて、甥のロトと彼の家族を救う時も、最後まで機会を与えておられるのです。アブラハムにあらかじめソドムとゴモラの審判について知らせることで、ロトを心に抱くようにしたように、神様は牧者を考えて、もう一度心に抱いて祈ることができるように機会を許すということです。
ロトと彼の家族だけに与えられた最後の救いの機会
ところが、これはまさにアブラハムが神様の愛される人なので、ロトに与えられた機会です。ソドムとゴモラには、アブラハムの甥であるロト以外にも、他の多くの人々の家族がいたでしょう。それでも神様はただアブラハムを覚えて、彼の甥ロトと彼の家族に最後まで機会を与えていらっしゃるという事です。これを肉で見れば公平ではないように見えるかもしれませんが、霊的にはあまりにも正確な公義です。神様の公義は愛の中で完全になるので、まさにこのような機会も与えられるのです。
たとえば、神の前に非常に忠実な家族がいます。神様をとても愛して愛される家族です。ところが、この家族の中で一人の子供が神様の前に怒りを買うようなことをしました。 それなら当然、公義よって懲戒が伴わなければならないのですが、時には神様が彼を懲戒せずに、もう一度機会を与える場合があります。まさにその家族のことを考えていたからです。神様の前に怒りを買った個人としては、直ちに懲戒を与えても当然だが、そのようにされた時に、家族が体験することになる苦痛を考え、神様の前に忠誠して愛される家族を見て、機会を与えるのです。このように神様は、公義の中で全てのことを成し遂げますが、あることを成し遂げる時に一つだけ考えるのではなく、それによって派生されることまで全て考慮するという事です。
しかし、ほとんどの人がこのように様々な面まで考慮できないまま、すぐに過ちだけを問題視して機会も与えず、二度と回復できない状況にまで至らせることを見ることになります。もし神様が皆様にもこのように行われたと考えてみてください。誰が再び機会を持つことができ、誰が今日の神様の愛される人として出てくるでしょうか?ただ神様の愛があったからであり、公義も愛の中で行われたので、皆さんが機会を得て、また機会を得て、今日にまで至ることができたという事です。これがまさに愛の中での正確な公義であり、公義の中での愛です。先にも申し上げたように、神様の公義は愛の中で完全になるので、公義が愛によって調和を成すのです。神様に愛される祭壇に属した羊の群れの時、神様からもう少し特別な保護を受けることができ、時には召天された方々が自分の信仰で行ける天国の所よりもっと良い所に行ったりすることがあるのは、すべてこのような愛の中での公義によるものです。
したがって、神様の公義はある一面だけを見てはならないことであり、決して人の考えや知識で判断してもいけません。しかし同時に、神様の公義は必ずおっしゃる通り正確に行われるという事実も肝に銘じてください。このような公義については、来週から始まるリバイバル聖会の際に「公義」というタイトルの言葉を通して、さらに詳しい説明が出ていきます。
ソドムとゴモラを調べるために御霊の神を送られた理由
父なる神様は、ソドムとゴモラについて調べるために御霊の神を送られましたが、その理由は何でしょうか?これは少しでももっと人性的な面で状況を察して、最大限に恵みを施して下さるためです。例えば、ある交渉のために代表が行く時に同じ目的を持って行くとしても、代表として行く人の性格によって、いくらでも温柔に交渉することもでき、時には強硬に交渉することもできます。父なる神様がソドムとゴモラのさばきの時に御霊の神を送られたのも、まさに少しでももっと人性の心を推し量るためです。三位一体の神様は人性と神性を全て持っておられますが、その中で御霊の神は人性の分野がもう少し大きいです。ですから、より人性的な面で配慮して、憐みを施そうとする属性があります。反面、神様は神聖な面がより強いので、神様は御霊の神を送ったのです。
本文に出てくるアブラハムと御霊の神の対話を見れば、アブラハムは神様の前にあえて5回も言葉を変えながらソドムのために求めます。 最初は義人50人がいれば、それによってソドムを滅ぼさないようにと懇願したが、次は45人、40人、30人、20人、ついには10人まで下がります。 アブラハムがこのようにできたのは、まさに人性的な面が強く、人性の分野をよく理解する御霊の神が来られたために可能だったことです。 したがって、神様が御霊の神を送られたのは、公義の法則上、いずれにしてもソドムとゴモラを滅ぼさなければならない状況でしたが、それでも少しでも人性的な面で顧みて、救いの機会を与えようとした父なる神様の心が込められていたのです。
私もあることを決める時、父なる神様の公義をあまりにもよく知っていますが、時には相手の心をもっと深く察してあげようとするので、公義よりは愛に偏るようになる場合が多かったのです。もちろん、公義を行う方は父なる神様なので、すべてを父なる神様に任せようとする気持ちですが、私の方ではきっぱりと切って、公義どおりに処理するのは難しいです。それで父なる神様はいつも私に神性と人性の調和について話してくださったのであり、この前に7年患難と地獄について知らせてくださるのもまさに、公義の善がどこまでなのかを私が悟って心に抱くことができるようにするためでした。 それで赦されるまで抱くようにするが、ある限界を越えて「赦せない」と決定が出る時は、父は抱くことができないようにします。私の心は赦してまた赦そうとする心ですが、父は私に正確な公義の善を知らせてくださって、神性と人性の完全な調和を成すことを願われるのは、これが父の心であり父の意思だからです。
父なる神の心も主の心も聖霊の心も愛そのものですが、いずれにしても公義という正確な法則の中で、霊の世界と肉の世界が存在し運営されます。そのため、霊の次元を完全に所有するためには、正確な公義の線がどこまでなのかを明確に知る必要があります。まさに神様はこのような公義の線を外れない範囲内で、最大限愛で働かれることを望んでいるので、ソドムとゴモラを審判する時も、人性の分野をより多く知って感じる聖霊様を送って、憐みと慈悲を施すことを望んだのです。 次の時間には、アブラハムの前に現れた神様を御霊の神と言いましたが、なぜ御霊の神と記録せずに神である主と言ったのかについて説明したいと思います。
結論
愛する皆さん、私たちが神様の公義について知れば、心の願いに答えてもらうことはあまりにも簡単です。公義は即ち、答の公式とも同じで、公義に従って正確に適用していけば必ず答が与えられるからです。その方法を申し上げますと、多くありますが、代表的なものの一つがまさに七つの御霊です。神様の公義に照らして答を与えるかどうかを決めるために、各人の準備された状態を測量する秤のようなものがまさに七つの御霊です。それでリバイバル聖会を控えて主日大礼拝と夕方礼拝の時には、7つの御霊についてもう一度証しすることになります。今日の御言葉を通しても神様の公義についてお聞きになりましたが、次の日曜礼拝を通しても語られる御言葉をよく糧にしてください。そして神様の公義に従って、ヨハネ15:7に「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」という祝福の言葉が皆さんに臨むことをイエス・キリストのお名前で祈ります。



