朝の学び128 創世記18章
創世記18:1-9
主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
霊と肉の空間での神様の形
それでは、神様はどのようにして、このように人のような姿で現れることができたでしょうか?これは以前に、少し説明をしたことがありますが、第四の天の空間を所有している神様は、心に抱いている通りにその形状を変化させることができるためです。例えば、第四の天の空間では、ある物質の状態が固体、液体、気体などに固定されているのではなく、その空間を所有している神様が、心に抱いている通りにいくらでも変えることができるということです。
それで神様は本来、ある形のない光と声でいらっしゃった方ですが、第三の天に降りてくる時には、具体的な人のかたちをまとわれるのです。それがまさに私たちが将来天国に行けばお目にかかれる神様のかたちです。そして、そのかたちに沿って最初の人、アダムが造られたのです。もちろん、第四の天でも人のかたちをされているかもしれませんが、そこでは主に光と声でいらっしゃいます。
ところが、同じように人のかたちをしている時でも、根本的に第四の天にいた時と第三の天にいた時の姿は違います。次元によって現れる光と栄光、威厳などすべてが違うからです。正確な例えではありませんが、理解を深めるためにクリスタルピースを考えてみます。クリスタルで美しく削られた彫刻があるとすれば、同じ彫刻でも、どんな光と雰囲気に展示するかによって、大きく異なる姿に見えることができます。とても明るい光がある空間で見ると、様々な色できらめいて華やかに輝き、まるで神秘的な光の塊のように見えます。しかし、光が暗くて薄暗いところで見ると、あまり光も出ず、形だけが見えます。
これと同じように、第四の天にいらっしゃる、はじめの神様の栄光と姿が、それより制限された下の次元の空間の中では、異なるように見えるという事です。このように、霊の世界であっても、第四の天と第三の天ではその姿が大きく違って現れます。まして神様が、第一の天に臨んで肉の空間をまとった時は、その差がさらに大きくなるしかありません。さらに、肉の空間に降りてくる時も、霊の空間を開いてその中にいる姿を見るのと、完全に制限された肉の空間をまとって、肉の空間に出てきた姿を見るのとは違うということを知らなければなりません。
ところが、預言者や天使たちは、自ら制限された肉の空間をまとうことができません。肉の空間に現れるとしても、依然として霊の空間に乗っているのであり、霊の空間に属する存在なのです。しかし、神様はすべての空間を創造された創造主として、心に抱く通りに、どんな次元の空間でもまとうことができます。霊の空間に乗ったまま、肉の空間に臨むこともでき、肉の空間の限界を自らまとうこともできるので、人の目に見える形で現れることもできるのです。
今日の本文でアブラハムに現れた聖霊様は、このように限られた肉の空間を自らまとって現れた場合なのです。聖霊様は神様と一つである方として、このように心に抱く通りに、肉の空間をまとって人の姿で現れることが可能だったのです。また、共にした二人の天使長も、自ら肉の空間をまとって人のかたちで現れることができるわけではありませんが、この瞬間だけは聖霊様の空間の中で、聖霊様と共に肉の空間をまとったので、このような姿で現れることができたのです。しかし、聖霊様とお二人の天使長たちが、このように肉の空間をまとって人の姿で現れたからといって、人と同じではないという事です。肉のからだはまとっていますが、霊に属する肉のからだに近いと言えますね。
今日の本文によれば、三人、すなわち聖霊様と二人の天使長が、アブラハムがもてなす料理を食べたとありますが、これは私たち人が食べることとは違います。人が食べ物を食べるように、食べ物を噛んで細かく砕いて分解し、消化して吸収するのではなく、ただ散らばって消えるようになります。まるで復活した主が、食べ物を召し上がったのと似ていると言えるでしょう。復活した主は食べ物を召し上がった後、呼吸を通して食べ物を分解しましたが、神様と二人の天使長もこれと似ていたということです。しかし、肉の空間をまとった状態が、復活のからだと同じだというわけではありません。復活のからだは、この地で耕作されたからだが霊の体に変えられたものですが、今日の本文に三人が人のかたちをしたのは、しばらく必要に応じて肉の空間に適した形のからだとして存在していただけです。
では、なぜ神様は、二人の天使長と一緒にこのように肉の空間をまとった状態で、この地に降りてこなければならなかったのでしょうか?以前のように、霊の空間の中にいる姿でアブラハムに現れてもいいのですが、その理由は、ソドムとゴモラの地を注意深く調べなければならなかったからです。もちろん、霊として降りてきて調べることもできますが、今回は自らソドムとゴモラの地の人々の中に入って、直接彼らに接しなければならなかったからです。
これから19章に入って再び説明致しますが、二人の天使長がこのように人のような形で直接彼らの前に現れたので、彼らのはい逆した(道理に背く)悪の程度を確認することができたのです。彼らは人の姿で現れた天使長たちを見て、自分たちにふさわしい悪行をもって、天使長たちに関わろうとしたのです。ただ霊で来ていたら、彼らの悪を肌で感じることができなかったはずなのに、人の姿をして来たので、このように彼らの悪を直接体験して感じることができたということです。次の時間には、神様とアブラハムの間にあった会話の内容について見てみましょう。
結論
今週は苦難週間として過ごしています。イザヤ53:5に「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」という言葉のように、イエス様は私たちの罪と過ちによって代わりに苦難を受け、十字架にかけられ亡くなりました。この時、イエス様が、私たちが想像できないほど大きな苦難と苦痛を受けなければならなかったという事も重要ですが、より重要なことは、まさにその苦痛は「私」のために受けたという事です。
今日2部の時間、復活祭カンタータ公演をご覧になると思いますが、イエス様の苦難にあう姿が出てきます。その場面を見ながら、ほとんどの方々が涙を流すことになりますが、涙が出る理由が、単にイエス様が受けた苦難があまりにも残酷だということではありません。そのような涙は世の人々も流すことができます。私と皆さんが涙を流すしかない理由は、イエス様が受けた苦難が、本来は私と皆さんが受けなければならないことだからです。
ところが、イエス様は私と皆さんのために、その苦難を代わりに受け入れてくださるほど、私たちを愛してくださったという事です。その愛に感謝し、感動して涙を流すことであり、そのような愛を受けながらも、神様をさらに愛せなかったことが申し訳なくて、涙を流すことになるのです。神様の息子が人の体を着て、そのような残酷な十字架の苦痛に遭ったという事実が、あまりにも心が痛むのは当然なことです。
一週間の間もイエス様の苦難をよく黙想されたと思いますが、今日2部にある公演を通して、もう一度イエス様の苦難の意味を再確認し、私と皆様を救った血の功を考えながら、恵みと感動になることを願います。それでローマ14:8に「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」という御言葉のように、私たちのために生命をくださった主のために、自身の生命も惜しみなく捧げることができるという告白が、心の中心から湧き出る皆さんになられますように、主の御名でお祈りします。



