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朝の学び126 創世記17章

9月8日
読了時間: 11分

創世紀 17:15-27


また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。

 



イシュマエルの祝福を約束した神様    

 

続く18節を見れば「そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」と言いました。これもまた、ある人々はあたかもアブラハムが「私が老いて子供をこれ以上持つことはできないので、すでに産んだ息子を神様の御前に生きながらえさせてください。」という意味で理解していますが、これは全くそのような意味ではありません。もしアブラハムがこのように神様の言葉を正面から否認するほど信仰のない人だったら、神様は最初からアブラハムを選ぶこともなく、彼に約束の子孫が与えられることもされなかったでしょう。 しかし、アブラハムは神様の言葉を少しも疑わず、約束通り新しい息子を得ることになることを明確に確信しました。

   

本文に「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」という言葉は、「イシュマエルもまた神様の前に生きることを願う」という意味です。皆さんの中に子供を持つ()親なら、このアブラハムの心をよく理解することができるでしょう。たとえイシュマエルが約束の跡取りではないとしても、アブラハムにとってイシュマエルもまた貴重で大切な息子です。これから私と約束の子孫を通して神様の摂理がなされ、その子孫が神様の民として正統性を継続することをアブラハムも知っているのですが、だからと言って先に産んだ息子イシュマエルを知らないふりをするアブラハムではないですね。

   

それでアブラハムは、神様から約束された跡取りに対する約束を受ける場で、また別の息子、すなわちイシュマエルについても神様にお願いしているのです。「神様、これから生まれる約束の子孫だけでなく、このイシュマエルも覚えてください、イシュマエルも祝福してください、神様の前で暮らすようにしてください」という父親としての切ない愛の証しなのです。このようなアブラハムの心をあまりにもよくご存知の神様は、イシュマエルに対しても祝福の契約をくださり、アブラハムの心を慰めてくださいます。  

 

20節「イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。」と言ったのです。たとえ、イシュマエルの子孫を神様の選民として選ぶわけではないが、彼もアブラハムから産まれた子孫であり、そして父の愛で懇願するアブラハムの祈りを聞かれるので、彼にも神様が祝福をくださるという約束です。それで、創世記25:13-16を見ると、神様がイシュマエルに対してくださった約束が、以後の歴史の中でそのまま成就したことを見ます。「すなわちイシュマエルの子の名は、その生まれた順の名によれば、イシュマエルの長子、ネバヨテ、ケダル、アデベエル、ミブサム、ミシュマ、ドマ、マサ、ハダデ、テマ、エトル、ナフィシュ、ケデマである。これらがイシュマエルの子孫で、それらは彼らの村落と宿営につけられた名であって、十二人の、それぞれの氏族の長である。」と言いました。12の氏族を成す大きな国になるようにするという約束が、このようにそのままなされたのです。

   

アブラハムの甥であるロトがアブラハムと共に暮らす時、神様はアブラハムによってロトの所有までも豊かにするように祝福を与えました。その後、ロトがアブラハムを離れてソドムに住んでいた時も、アブラハムの願いを聞かれるので、滅亡するソドムの町でロトの生命を救ってくださいました。 これと同じように、イシュマエルもアブラハムに属した者だったので、神様は彼とその子孫たちがそれなりに繁栄し、祝福を受けて生きるように道を開いてくださったのです。 しかし、イシュマエルはとにかく信仰の子孫として立てられる人ではなかったので、神様はイシュマエルに対するこのような約束の言葉をくださる前に、先にもう一度イシュマエルは約束された子孫ではなく、サラを通して産む息子が約束された子孫であることを明確にしてくださっています。

  

20節でイシュマエルに対する約束をくださる前に、まず19節「すると神は仰せられた。『いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。』」と言ったのです。ここで神様が「いや、」と言われたのは、先にイシュマエルのために求めたアブラハムの祈りと求めを断るという意味ではなく、神様の契約はイシュマエルではなく、サラが産むイサクを通して実現されるという意味です。

 


約束の子孫、イサクの誕生を知らせてくださった神様 

    

このように神様は繰り返して強調し、約束の子孫であるイサクについて話してくださいました。これから続く21節「しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」とおっしゃって、神様は約束の子孫がいつ生まれるのか具体的な時期までも明らかにしてくださっています。


アモス3:7「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。」という言葉のように、神様は信じて信頼し愛するアブラハムに、時にはこれからの先のことについて具体的におっしゃって下さり、彼を導いて行かれたという事です。ソドムとゴモラの審判も教えてくださったし、彼の子孫たちがどんな人生を生きているのかも教えてくださったし、メルキゼデクについても教えてくださいました。

   

皆さんが神様を信じて信頼すれば、神様も皆さんを信じて信頼してくださいます。そして、このような信頼関係が築かれれば、神様と多くの秘密を分かち合うことができるようになります。では、皆さんは神様をどれだけ信頼していますか?アブラハムのように神様が一度くださった言葉は、決して疑ったり信仰が弱くなったりせず、十年が過ぎて二十年が過ぎても、その言葉が成就することを信仰で待ち望んでいますか?神様に対する私たちの信仰が変わらなければ、一度与えられた神様の約束は必ず成就します。 民数記23:19「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。」とあります。 聖書を通して神様が一度予言された言葉は数百年、数千年が経っても変わらず、必ずそのまま行われてきました。人間耕作の歴史を貫き、すべてを主管していく神様なので、一寸の誤差もなく成し遂げることができるのです。

   

アブラハムに現れて祝福の言葉を与えて契約を結んだ神様は、22節「神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。」とあります。皆さんがこれまでアブラハムと神様の対話を見れば、神様がどれほど繊細にアブラハムを導いていかれるのか、またどれほど誠実に約束を成し遂げるのかが分かります。アブラハムにとって重要な瞬間ごとに、神様は自ら来られたり、幻を通して彼に会ってくださって、導いて行かれたのです。アブラハムはこのように繊細で優しい神様を絶対的に信頼し従順したので、この地で耕作される人生の中でも毎瞬間、勝利していくことができたのです。

  


割礼を行ったアブラハムと彼の家族     

 

本文23-25節によれば神様が上られた後、アブラハムは直ちにすべての言葉に従うので、神様を信頼する証拠を示します。アブラハムは自分自身と息子のイシュマエルはもちろん、自分の家にいるすべての男に割礼を行うので、神の言葉を完全に守り行いました。 家で生まれた者だけでなく、お金で買った者までも彼に属するすべての者に割礼させることで、神様の前に徹底的に従ったのです。 さらに26-27節によれば「アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。」と言われます。あれこれ理由をつけて割礼を先送りしたり、肉の考えを働かせたのではなく、その日のうちに皆が割礼を行ったという事です。

 

肉で考えると、こんなに多くの男性が一度に割礼するというのは、かなり煩わしいだけでなく、非常に危険でもあることです。割礼をすると、少なくとも数日間は痛みがあり、体を自由に動かすことができません。ところが、男たちが一度に割礼をした時、もし周りの敵が攻撃でもしてくると、この時は完全に無防備状態になるのです。 だから、考えを働かせると、交代で割礼を行うこともできるし、今すぐにではなく、周辺の状況や条件を考慮して、適当な時を選んで割礼を行うこともできたはずです。しかし、アブラハムはいかなる理由や考えも働かせず、神様がおっしゃって天に上がったその日、当日にすべての男を割礼させたという事です。何と絶対的で完全な従順なのでしょうか? だから、このようなアブラハムを見る時、神様がどれほど喜ばれるでしょうか? アブラハムはこのように神様がおっしゃられると、遅らせたり、考えを働かせずに直ちに行う信仰の行いを示したので、信仰の父になることができ、彼を通して神様の意思がなされることができました。 彼は公義に照らしてみると、神様の道具として完全に用いられる資格が備わっていたからです。

 


結論

 

イザヤ55:10-11によれば「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」と言いわれました。 神様が発する初めの声は必ずその言葉通りに行われます。 重要なことは、私たちがその言ったことをどれほど信じ、変わらず信頼し、従うかにかかっています。私は今日まで神様がおっしゃったすべてのことを一点の疑いもなく信じて従順でした。  「これはこうだから難しいです。」「あれはあんな問題があって大変ですね。」といういかなる言い訳や理由もなく、ただ「アーメン」と「はい」で走ってきました。 そんな時、神様はその信仰通りに必ず叶えてくださいました。

   

いくら神様が契約の言葉をくださったとしても、もし人の側でこれを信じられず従順でなければ、また機会を与えたとしてもその機会をつかむことができなければ、約束した祝福はなされません。 しかし、皆さんは今日、アブラハムが神様の言葉にどのように従い行うかを聞きました。 父がくださった言葉を肝に銘じて、一つも欠かさず全てを成し遂げるのはもちろん、直ちに従順だったという事です。これが、答えられる祝福の道です。私が見るには「私は神様の言葉に従順でした。」ではなく、神の側から見て完全な従順にならなければならないのです。今日の御言葉を通してアブラハムと皆さん自身の姿を一度比較してみることで、私は果たして神様のみ言葉に、どんな信仰の従順と行いを示しているのかを点検してみてください。 それで皆さんの信仰の従順と行いが、神様に完全に認められる姿に変化し、皆さんを通してもアブラハムに下さったような祝福がなされることを神様の名前で祈ります。

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