top of page

朝の学び127 創世記18章

9月9日
読了時間: 10分

創世記18:1-9


主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。



 

序論

本文の第18章を見ると、アブラハムがもう一度主なる神様と会う場面が出てきます。日の暑いころ、天幕の入り口に座っていたアブラハムは、3人の人が彼に向かって立っているのを見ることになります。ところが、彼らを見たアブラハムは、直ちに天幕の入り口から駆けつけて、彼らを出迎え、体を地にひれ伏して礼をします。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」

アブラハムが今三人に話す言葉を見ると、不思議に感じられるほど謙虚に手厚い仕えの姿勢が現れています。当時は、遠くへ旅をする人たちが適当に泊まれる旅館のようなところが多いわけでもなく、人口が多くないので、人家もまばらだったので、一般的に自分の家の近くを通る旅行者を見ると、自分の家に入れて接待するのが風習でした。したがって、アブラハムのように善良で施しをする心を持った人なら、通り過ぎる旅行客を見て、自分の家に招待して、もてなすのが当然の姿かもしれません。ところが、今日の本文の内容を見れば、アブラハムが今、普通の旅行者を接待する水準ではないことが分かります。妻のサラに直接、上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作れと言い、自分が直接、牛のところに走って行って、柔らかくて、おいしそうな子牛を取ってきたのです。また、お客さんに食べ物をもてなすことも、自分で直接口を出して接待しました。8節をみると「それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。」とあります。理解しやすく言えば、アブラハム自身が直接そばに立って、給仕までしたという事です。

アブラハムは非常に裕福で、力でも連合軍と戦って勝利するほど勢力のある大きな族長でした。創世記14:23によれば、アブラハムがソドムの王に対する時も「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」と、王に接しながらも、非常に堂々と威厳のある態度で話していることが分かります。また、霊的にもアブラハムは神様から愛され、信頼され、保証される本当に尊い人です。このようなアブラハムが、通り過ぎる旅行者たちを見て、このように慌てて走って行き、地面にひれ伏してお辞儀をし、彼らを家に呼び、自分が直接そばで食べ物までもてなしたのです。しかも彼らを「ご主人」と呼び、アブラハム自身を彼らのしもべだと低くしています。また、この3人がアブラハムに対する態度を見ても、普通の人ではないことが分かります。9節によればアブラハムに「あなたの妻サラはどこにいますか。」と言って、まるで目下の人に対するように尋ねています。 また普段よく知っているように話しています。では、果たしてアブラハムがこのように仕えるほどすごい人は誰でしょうか?


アブラハムに再び現れた聖霊の神様

創世記18:13を見ると、この3人が誰なのか分かる手がかりが出てきます。アブラハムが3人と対話する内容ですが、突然「主がアブラハムに仰せられた。」と言って、アブラハムに話している方が、主なる神であることが分かります。 3人のうちの1人が、主なる神様であることを言っているのです。それでは、主なる神様と親しく同行できた残りのお二人は誰だったのでしょうか?創世紀18:22によれば、主なる神様はそのまま残って、アブラハムと対話を続けますが、その人たちまもなくして、残りの2人はソドムに向かって行きました。 


そして続く、創世記19:1によれば「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」とあります。まさに主なる神様と同行した二人が御使いだったことを語っているので、ロトは前にも会ったことがあるということを物語っています。すでに知っているという事です。アブラハムの甥であるロトは彼らに気づきました。そのため、地面に顔を伏せてお辞儀をしてまで、彼らを手厚く出迎えたことが分かります。

では、この二人の御使いは果たして誰でしょうか?それも主なる神様が同行してこの地に降りてくるような位にある御使いなら、普通の天使ではないということを推察することができます。この二人はルシエールとルシヤ天使長です。したがって、この日にアブラハムの前に現れた3人は、主なる神様と2人の天使長が人の形で現れたのであり、アブラハムはこの方々が誰だということをすぐに知ったので、このように手厚く最初から出迎えたのです。もちろんアブラハムの甥であるロトも、この2人の天使長を一目見てわかりました。では、どうやってアブラハムと甥のロトは、このように人の形で現れた神様とお二人の天使長を知ることができたのでしょうか? 

その答えは、前にアブラムが戦争の捕虜として連れて行かれた甥のロトを救って帰る途中、メルキゼデクに会った出来事から見つけることができます。前に創世記14章で説明したように、メルキゼデクの形でアブラムの前に現れ、彼に会ってくださった方は聖霊の神様でした。そして、今日の本文にアブラハムの前に人の形で現れた方も、まさに聖霊の神様だったのです。アブラハムは以前、メルキゼデクという形で現れた聖霊の神様にすでにお会いしたことがあったので、このように再び聖霊の神様にお会いした時、すぐに見分けることができたのです。もちろん、前にメルキゼデクの形で現れた時と、今の人の形で現れた時とは全く違う状況です。これについては、後ほど詳しく説明されます。 


そして、前に聖霊の神様がメルキゼデクの姿で現れた時も、今日の本文に出てくる二人の天使、すなわちルシエールとルシヤ天使長が一緒にしました。それでアブラハムは聖霊の神はもちろん、共にした二人の天使長も見たのです。また、ロトもやはり二人の天使長をみましたが、これは今後おこるすべてを知っている神様が、アブラムがメルキゼデクと会っている時、ロトにもしばらく霊の眼を開いてその状況を見えるようにしたためです。その時、ロトはメルキゼデクと一緒にした2人の天使長を見たので、創世記19:1でソドムを訪ねてきた2人の天使長を見てすぐに分かったのです。


「三人の人を見た」と記録した理由

愛する聖徒の皆さん、それなら聖書にはこの地に降りてきた聖霊の神様と2人の天使長に対して「アブラハムが神様と天使たちを見た」と言わずに「3人の人を見た」と記録した理由が何でしょうか?これはまさに神様がアブラハムの前に現れる時に、どんな方法と姿で現れたのかを分かるようにするためのものです。神様がアブラハムに現れる時は、色々な方法がありました。夢や幻で、声を通して会ってくださった時もありました。また、メルキゼデクというかたちとして来られたこともありました。ところが、今までのすべての場合は肉の世界にあるアブラハムの前に霊の空間を開いて見せてくださるので、霊の空間の中にいる神様に霊で会って感じさせてくださった状況でした。このような場合には霊の眼が開かれ霊の耳が開かれてこそ神様に会い、その声を聞くことができました。霊の眼が開かなかった人は、いくらそばに一緒にいたとしても、霊的にどんなことが起きているのかわかりません。しかし、霊の眼が開かなかったからといって、全く霊的な状況を感じないわけではないのです。霊的な気運とともに御霊によって感じることはできるのです。

ところが、今日の本文に神様が二人の天使長と一緒に現れた場合は、以前とは全く違う状況でした。この時は、単に肉の空間の中に霊の空間を開き、その中にいる姿を見せてくださった次元ではなく、ご自身で肉の空間に出て来られたのです。まるで以前はテレビの中に出てくる神様の形にお目にかかったのなら、今回は直接テレビの外に出てきた神様の形にお目にかかったのと同じです。このように神様が制限的ではありますが、肉の空間をまとって現れたということです。このような場合、霊の眼が開かれていない人にも神様の姿が見えることもありますが、まるで人の姿のように見えるのです。アブラハムも三人がこのように肉の空間をまとって人のかたちをして現れたのを見たので、本文に「三人の人」を見たと記録しているのです。ところが、アブラハムの場合は三人を見ると、人のかたちとしてだけ見たのではありません。 アブラハムは同時に霊の眼が開かれて見えたので、肉の空間をまとったかたちと、本来のかたち、つまり霊の姿も同時に見ることができました。

これについてもう少し詳しく説明します。霊の世界にいる預言者や天軍、天使のような霊的な存在が、私たちが住む肉の世界、すなわち第一の天の空間の中に現れる時、これらは霊の時間と霊の空間が流れる流れに乗って現れるのが一般的です。この時は、霊の時間の流れが止まり、霊の世界と肉の世界を結ぶ通路のようなものに乗ってくるのです。しかし、この時に肉の世界に降りてくるとしても、空間は依然として霊の空間の流れに乗っています。つまり、肉の空間の中に霊の空間とつながる通路が開かれ、霊の空間が部分的に形成され、その中に入っていると言えます。


したがって、このように霊の空間に乗っている預言者や霊的な存在は、肉の目で見ることができるのではありません。肉の世界に来たとはいえ、依然として霊の空間の中にあるので、霊の眼が開かれてこそ彼らを見ることができるのです。彼らが肉の空間に属する存在ではなく、依然として霊のからだとして霊の世界に属する存在として来るからです。

しかし、同じ霊の空間だとしても、第二の天のエデンに住む人々が肉の世界に降りてくれば、彼らは霊の眼が開かなくても見ることができます。もちろん、この地の人とは少し違いますが、それでも彼らは霊のからだではなく、土で作られた肉と骨がある存在なので、肉の空間でも見え、触れることができるのです。それで創世記6章で説明したように、エデンの園に住んでいた神様の息子たちがこの地に降りてきて、人の娘たちとも結婚することができたのです。前にも説明したように、第二の天は霊の空間ではありますが、完全な霊の空間ではないのです。しかし、第三の天以上の空間は完全な霊の次元に属する空間なので、このような霊の次元に属している存在を肉の人々が見るためには必ず霊の眼が開かれなければなりません。

ところが、今日の本文の場合には、神様が霊の空間の中にいらっしゃるのではなく、自ら第一の天の肉の空間をまとうので、制限された肉の空間に合うかたちで現れたという事です。この時は霊の眼が開かれていない肉の人たちも神様を見ることができるようになります。霊の世界にいた時のかたちとしてではなく、肉の空間の制約を受けている、まるで人のような姿に見えるのです。


イエス・キリスト日本連合聖潔会
名古屋万民教会
Nagoya Manmin Church

〒 465 - 0014

名古屋市名東区上菅一丁目916番地

TEL/Fax: 052-774-8874

E-Mail: qqrb5br9k@gaea.ocn.ne.jp

2017 Nagoya Manmin Church,All rights reservde.

bottom of page