朝の学び125 創世記17章
更新日:9月10日
創世紀 17:15-27
また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」神はアブラハムと語り終えられると、彼から離れて上られた。そこでアブラハムは、その子イシュマエルと家で生まれたしもべ、また金で買い取った者、アブラハムの家の人々のうちのすべての男子を集め、神が彼にお告げになったとおり、その日のうちに、彼らの包皮の肉を切り捨てた。アブラハムが包皮の肉を切り捨てられたときは、九十九歳であった。その子イシュマエルが包皮の肉を切り捨てられたときは、十三歳であった。アブラハムとその子イシュマエルは、その日のうちに割礼を受けた。彼の家の男たち、すなわち、家で生まれた奴隷、外国人から金で買い取った者もみな、彼といっしょに割礼を受けた。
序論/割礼
神様はアブラムの年齢が99歳になった時、彼の前に現れ驚くべき約束の言葉を与られます。まさに彼の名前がアブラムからアブラハムに変わり、多くの国民の父として立てられたことで、信仰の父としての地位が約束されたのです。もちろん、彼が神様の前に完全であることを認められるようになるのは、将来一人子のイサクを捧げる試練を通過した後です。しかし、神様がアブラハムを多くの国民の父として立ててくださるこの出来事を通して、これを契機に本格的な人間耕作の歴史が始まります。この時までもすべてを主管された神様が、今後アブラハムの子孫を通して、人間耕作の歴史をどのように成し遂げていくかに対する輪郭が明らかになっているのです。こうして人間耕作の歴史の流れは、神様を信じる人と信じない人このように大きく2つの種類に分かたれ進行されていくでしょうが、それでも結局は、人間耕作の歴史の流れは、神様が選んだ者たちを通して主導されていきます。神様が選んだ者たちとは、まさにアブラハムの子孫です。
このように重要な意味を持つ出会いなので、父なる神様は息子たちを同行させ、自らアブラハムの前に現れ、約束の言葉を与えているのです。ところが、このような契約の言葉を受けたアブラハムの方でも契約に対する確証の証を見せなければなりませんでした。神様の側でいくら大きな祝福の言葉を与えても、受ける側でそれを信仰で受けなければ意味がありません。それで、この信仰を示す行いの証として示すようにしたのが割礼です。創世記17:11によれば割礼について神様が「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。」とおっしゃいました。旧約聖書ではこの割礼が必ず行為的なものとして現れなければならなかったのですが、聖霊の時代になってはそうではないことを見ます。肉的な割礼を行い、それで神様との間の契約のしるしとするのではなく、キリスト・イエスに属したのかをもって神様との契約のしるしとすることになります。肉的な割礼をしてこそ、アブラハムの子孫と認められ神の約束の民になるのではなく、イエス·キリストを信じることによってなされるということです。
ガラテヤ3:26-29に「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」とあります。誰でもキリスト・イエスにあって洗礼を受けるので、キリストをその身に着た人がアブラハムの子孫です。約束による相続人なのです。では、キリストをその身に着たということは、どういう意味でしょうか?まさに心の割礼です。「服」は霊的に「心」を意味するが、私たちが神様を知る前に持っていた肉的な心の服を脱ぎ、今はキリスト・イエスの心で新しく服を着なければならないということです。罪と悪、古い習慣を心から取り除き、神聖で聖潔な神様の心に変化しなければなりません。このように行為的な割礼ではなく、まさに心に神様との契約のしるしを持った人だけが、約束された救いに至るという事です。割礼を行うことは、すなわち、私たちの方から印鑑を押すようなものです。
それでヘブル10:15-16にも「聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。『それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。』またこう言われます。」とあります。今は神の法を肉体の割礼や行為に置くのではなく、まさに心に留めて記し、その法どおりに生きていかなければならないのです。ここで思いに書きつけるということは、魂にも刻むという意味です。このように割礼に込められた霊的な意味をよく悟り、熱心に心の割礼を成し遂げ、アブラハムのように神様の祝福を受けられる器を準備して下さい。
神様の契約を聞いて喜びで笑ったアブラハム
神様は、アブラハムの名前だけをアブラハムに変えてくださったのではなく、サライの名前もサラに変えてくださいます。今日の本文の15-16節に「また、神はアブラハムに仰せられた。『あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。』」と話しています。サラもやはり夫のアブラハムによってこのように驚くべき祝福を受けるに至ったのです。もちろん、ある祝福を受けるためには当然、自分の方での努力と器の準備が必要ですが、時には義人と共にするだけでも神様の祝福を受ける場合があるのです。ところが、今日の本文17節を見ると、多くの人が誤解している言葉が出てきます。神はサラによって、「あなたにひとりの男の子を与えよう。」おっしゃると、これを聞いたアブラハムが意外な反応をします。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」と言ったのです。
この言葉を文字的に誤って解釈すると、アブラハムが笑った理由や考えたことについて誤解することがあります。「百歳にもなった自分と、九十歳にもなったサラの体でどうやって子供を産むことができるか」と、神様の言葉を信じられず笑ったと勘違いすることがあるという話です。とんでもないことを聞く時、呆れて笑うような笑いとして考えるのです。しかし、決してそうではないという事です。アブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と考えたのは、むしろ神様の全能であることをより信頼する告白を心の中で成し遂げているのでした。つまり世の中の理屈通りなら、これほど年上の夫婦から子供が生まれるということは不可能なことです。しかし、今アブラハムはこのように不可能なことであるにもかかわらず、全能な神様がすべてを成し遂げることを明確に信じたという事です。
これに対してローマ4:18-20によれば「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、」とあります。それでは本文でアブラハムがこのような考えをしながら笑った理由は何でしょうか? これはまさに喜びの笑いです。神様が跡取りを約束した後、たとえ長い歳月が過ぎても、アブラハムはその歳月の間、変わらず神様の約束を信じ、またその約束の成就がハガルを通して産んだイシュマエルではないという事を知っていました。ところが、もうサライの名前を変えてくださり、彼に息子を約束する祝福の言葉を聞く時、アブラハムはついに神様の約束が成就する時が来たことを心に悟るので、喜びの笑いが出たのです。
皆さんもこういうことを体験される時がありますね。切に願う願いがあって祈る時、その祈りの内容が神様の前にふさわしい場合、神様は心に平安と喜びで答の確信を与えます。ところが、祈るとすぐに心に確信が来て平安が来たとしても、常にその答の実をすぐに取ることになるわけではありません。その答の実を目にしたところ、手に触れたところになるまでには、最も適切な時期を待たなければならない場合があります。もちろん、このように時期を待たなければならないとしても、マルコ11:24に「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とおっしゃった通り、すでに受けたと信じるので、心には答に対する確信と平安があります。そうするうちについに答の時が目の前に近づくと、聖霊の感動の中でこれを感じるので、より一層喜びが充満するのを体験することができます。
例えば、春になって種を蒔いた農夫は、秋になると実を結ぶことを信じているため、希望とやりがいを持って秋を待ちます。そして、ついに秋になって穀物が黄色く熟し、田に黄金の波が立ち、収穫する時が間近になると、農夫の心は以前とは比べられないより大きな喜びで満たされるようになります。実がすぐ目の前に見えるからです。これと同じように、アブラハムも長い間待ってきた跡取りに対する約束が、今や実際になされる時が近づいてきたことに気づくと、その喜びによって笑うようになったのです。したがってアブラハムが「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」と言った言葉には、そのことが不可能だという否定的な告白の意味ではなく、「しかし神様はできる」という信仰の告白の意味が含まれているという事です。



