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朝の学び124 創世記17章

9月7日
読了時間: 10分

更新日:9月10日


創世記17:1- 15


アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」




神様と契約の証、割礼

「割礼」とは「男の生殖器の先にある包皮の肉を切り捨てる儀式」として、神様は生まれて8日目に割礼することを命じました。その後、イスラエルの民はこの言葉に絶対的に聞き従い、さらには安息日にも割礼だけは行いました。ヨハネ7:22-23には「モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。・・ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです。・・それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。」というイエス様のお言葉あります。    


では、神様がこのように割礼を命じた理由は何でしょうか?これは神を信じる者として、神の前にそれを行いで表すことをおっしゃるのです。先にも申し上げたように、信じるなら当然行いも従わなければならないので、神様はそのしるしとして割礼を命じたのです。そして、このように割礼をするということは、もう全てのことを神様のお言葉に従って行っていくという、人の方での契約を意味します。割礼だけしたからといって、それで『神を信じる。』と認められるのではなく、割礼を通して、神様を信じるということを証明して見せると同時に、これから神様を信じる人として、神様のお言葉どおりに生きていくという約束のようなものです。     


これに対してガラテヤ5:3で使徒パウロは、「割礼を受けるすべての人に、私は再びあかしします。その人は律法の全体を行なう義務があります。」と語っています。だから、たとえ割礼をしたとしても、彼が神様の御言葉通りに生きていかなければ、彼は結局、神様と関係のない人になってしまいます。それでローマ2:25にも「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。」と言っています。また、続く26節に「もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。」つまり、無割礼の者が律法の制度を守れば、その無割礼を割礼のように考えられるのではないかとして、無割礼の者でも律法に従って生きれば割礼したように考えることができると言います。     


しかし、この言葉はローマ2:14-15「・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 ・・」という言葉と対になる言葉で、これは神を知らず、割礼を受けられなかった異邦人でも、良心に律法の行為を表す時は、それで救いを得ることができることをおっしゃったのです。    


しかし、神様を信じる人なら、神様との間で結んだ契約の証として、旧約時代にはこれが必ず行為的な割礼としても出てこなければならなかったのです。ところが、新約聖書の時代においても、ユダヤ人は、割礼を受けていない人々には救いがないと考えました。主を信じるユダヤ人の中にも、割礼をまるで救いの証であるかのように考える人がいました。使徒の働き15:1に「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。」とあります。     


ガラテヤ5:6に「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」ローマ2:28-29には「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」と話しました。だから、肉体の割礼が救いの基準ではなく、肉体の割礼をした表面的なユダヤ人だからといって、皆が霊的に神が認めるユダヤ人ではないことを知らなければなりません。肉体の割礼をしたユダヤ人だからといって、皆が救われるわけではないということです。もし約束の民として、割礼をしたイスラエルの民だけが救いの対象なら、神様は異邦人まで割礼の対象に含まれなかったでしょう。


しかし、今日の本文の12-13節を見ると、「あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。」とおっしゃいました。これは救いの御業が、イスラエルの民族に限ったことではないことを示唆しています。すべての民族とすべての国の中で割礼を受けた者、すなわち神様と契約が立てられた人は誰でも、救いに至ることができることを旧約聖書においても語っているのです。     


イスラエルの民であれ、異邦人であれ、割礼を受けたということは、霊的に神の契約の中に入ってきたことを意味するもので、救いの枠の中に入ってきたことを意味します。割礼を受けたかどうかということは、肉体の割礼を受けたかどうかということで決まるのではなく、彼が神との契約の中にいる人か、そうでない人かで決まるのです。だから救いはイエス様を救い主として迎え、神様の子供になった約束を受け、神様のお言葉の中に生きていく人なら誰にでも与えられるものです。アブラハムはすべての国と民族の中で信仰の父になるために、多くの国民の父と呼ばれるようになったのです。    


このようにアブラハムがイスラエルの民だけでなく、すべての信じる人の父として立てられたという事について、ローマ4:9後半節-13節にはっきりと述べています。 「私たちは、『アブラハムには、その信仰が義とみなされた。』と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」

したがって、アブラハムが信じるすべての者の父になったのが割礼を受けた後ではなく、割礼を受ける前だということです。アブラハムは割礼を受ける前でも、信仰によって義と認められたのです。アブラハムが割礼を受けたからといって、割礼者の父だけになるのではなく、彼が割礼を受ける前に持っていた信仰の跡を追う人なら、誰であっても父になるという意味です。 したがって神様との間の契約は、割礼や律法の行為だけによるものではなく、信仰の義によるという意味です。今日の本文は、神様とアブラハムとの出会いを通して、このように重要な霊的な意味が込められた契約が結ばれる時点であったので、神様は自ら息子たちを同行して、アブラハムの前に現れて話してくださったのです。 次の時間には、ほとんどの人が誤解している聖書の内容が解かれます。神様から約束の子孫を与えるという話を聞いたアブラハムが笑ったという言葉の意味が何なのか、次の時間に説明させていただきます。 



結論


今日の本文14節によれば「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」と話しました。神様との間に契約を結んだ人は、その証拠として必ず割礼を受けなければならなかったし、このように割礼を受けた人にだけ神様の契約も効力があるのです。この地上で、人と人との間でどんな契約を結ぶ時も、片方だけに印鑑を押した契約書は無効であるように、神様と私たちの間の契約においても、私たちの側で印鑑を必ず押さなければ、この契約が完全になれないのです。印鑑を押すような役割をするのがまさに割礼なのです。割礼を受けていない人は神様と関係のない人として神様から断ち切られることになるのです。     


それでは、今日はどのように割礼をすべきでしょうか? コロサイ2:11「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。」イエス様が、私たちの罪を代わりに負って、十字架にかけられ亡くなることを信じる人ならば、その信仰の証として、これ以上罪の中で生きてはいけなくて、肉を脱いで霊に変化する人生を生きなければなりません。「私は教会に通っているから」、「私は教会にこんなに長く通っていたから」、「私はこのような職分を持っているから」、「私はこのように多くの仕事をしているから」このようなことは、ただ自分がキリスト教徒であることを表面的に示そうとする肉体の割礼に過ぎません。


神様はキリストの割礼を受けた者として「どれほど悪を捨てて、どれほど主に似せられて聖められて、神に似せられた御霊に属する心を持っているのか」まさにこのような心の割礼を望んでいらっしゃいます。第一ヨハネ3:18「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」とおっしゃった通り、言葉や口先だけで神様を愛すると言ってクリスチャンだと自認するのではなく、ただ行いと真実をもって愛さなければならないのです。

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