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朝の学び122 創世記16章

9月7日
読了時間: 10分

更新日:9月10日


創世紀 16:4-16  


彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。




道理に従ってすべてを神に託したアブラム

6節「アブラムはサライに言った。『ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。』それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。」とあります。では、アブラムはなぜハガルをサライの手に任せて、このような結果が出るようにしたのでしょうか?ハガルは自分の大切な子供を妊娠している状況なので、彼女の行動がちょっとやり過ぎだと思っても、サライを説得してなだめて、最後までハガルの肩を持って守ってあげてもよかったのではないでしょうか?今、アブラムは人の考えと方法を働かせたのではなく、すべてを父なる神様の御手にゆだねているのです。アブラムは一家の長として、いくらでもサライを説得してなだめたり、あるいは指示してでも何とかハガルを守ることができる状況です。しかし、これはあくまでも人の考え方と方法です。 


アブラムがそうしたなら、たとえ表向きには問題が解決されたように見えても、心の中では2人の心がどれほど気まずくなり、互いに憎んでわだかまりを持つようになるでしょうか。サライに「我慢しなさい」と言って問題が解決されるわけでもなく、ハガルに「我慢しなさい」と言ってできる状況でもなかったのです。どちらか一方の手を挙げなければなりませんが、どちらの手を挙げても問題が解決できる状況ではありませんでした。アブラムはこれをあまりにもよく知っていたので、自分がしようとしたのではなく、問題の解決を父なる神様にゆだねたのです。家長として権限があるからといってその権限で、「あなたはこのように、あなたはああしなさい」と指示して決定を下したのではなく、道理に従って行うことで、神様がすべてを解決してくださるようにゆだねたのです。 


ハガルは本来サライに属する女奴隷で、ハガルに対する権限がサライにあるのでそのまま任せるのが道理です。その結果、すぐにハガルがサライを避けて荒野に逃げてしまう結果が現れましたが、これがむしろ解決の糸口になります。肉から見れば問題がさらにこじれるように見えるかもしれませんが、霊的にはこれがまさに問題解決の始まりでした。主の使いが現れ、自らハガルに「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」と言うと、ハガルも他に方法がなかったのです。もしアブラムがハガルに「どんなことがあってもあなたは女主人サライのもとで身を低くしなさい」と言ったとすれば、ハガルはその言葉を聞こうとしなかったでしょうし、そのように話すアブラムに対しても、むなしさやわだかまりを持つこともあり得たのです。しかし、このように主の使いが現れて指示すると、ハガルはその言葉に従うしかありませんでした。     


だからといって、ハガルにただ帰ってサライに服従するように言ったのではありません。将来彼女が産むことになる子供に対する、祝福と約束の言葉をくださいます。ただ無条件に帰りなさいと言うなら、帰って後に耐えなければならない苦痛を思うと、ハガルの心はどれ程苦しかったでしょう。しかし、「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」という約束の言葉を下さったので、ハガルは希望の中でその言葉に従い、素直に帰ることができたのです。また、サライも実際にハガルをひどく虐待し、ハガルが逃げる状況にまでなると当惑せざるを得ず、夫のアブラムにも申し訳ない気持ちになります。「私がちょっとひどかったようだ。それでも夫のアブラムの子供を妊娠しているのに。何か問題でも起こったらどうしよう。…···」こんなことを考えながら、自分を振り返る時間になったのです。

だから、ハガルが戻ってきたときは、以前のようにひどく虐待はできないですね。このようにアブラムが自分の力と方法でしたのではなく、道理に従ってすべてを神様にゆだねたので、神様はすべてが平和の中で解決されるように働いてくださったのです。そして、神様がこのように働いて下さったのは、まさに愛するアブラムの心を考えたからです。もし、サライとハガルの間の葛藤が日に日にさらに激しくなっていけば、これを見守るアブラムの心がどれほど痛んだでしょうか?だから神様は愛するアブラムを考えて、結局すべてが平和の中で解決されるように導いていったのです。ところで重要なことは、この時、アブラムがこのように神様が働かれるように、すべてを神様に任せたという点です。   


それでは皆さんの姿はどうですか?「大小いろいろあることの中で、もしかして私が持っている権勢と力を持って、道理から外れて問題を解決しようとしなかったのか?その過程で他の人の心を傷つけ、平和を壊したりはしなかったのか?」このようなことを振り返ってみてください。また、すべてを神様にゆだねるのではなく、自分の考えと自分の方法の中で解決しようとしませんでしたか?今日の本文のアブラムの姿を通して、皆さん自身の姿と比べてみてください。


イシュマエルのへ予言  

続く12-16節では、ハガルを通して産まれることになるイシュマエルに対する神様の預言的な言葉が出てきています。12節「彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」と言われました。ここでろばのような人になるという意味は、彼が荒れた環境の中で自ら開拓していく人生を生きることを言います。その暮らしが簡単で平坦なものではなく、領土と暮らしの基盤を得るために、自ら開拓していかなければならないことをいうのです。そして、その過程では「すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。」と言われた通り、他の人々とぶつかりながら戦っていくことを言います。他の民族を侵略したり、他の民族から侵略されたりするこのような過程があるという意味です。     


また「彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」とありますが、これは神様が彼の領域を正確に区分してくださったのです。イシュマエルは、神様がアブラムに約束した正統性を継続する跡取りではなかったので、彼は約束の子孫であるイサクと共に暮らし、神様の祝福を享受できるのではありませんでした。それで神様はイシュマエルにも領土を下さるが、そこは神様がアブラムの跡取りに約束された土地とは離れたところでした。アブラムを考えてイシュマエルにも恵みを与えられましたが、彼は完全な祝福の跡取りではなかったので、約束された地とは離れた所に区分された領域を与えて、その中で自らが開拓して人生を築いていくようにしたのです。    



ご覧になる神様

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。サライの虐待に耐えられず荒野に逃げてきたハガルは、主の使いから約束の言葉を受けた後、主の名を「あなたはエル・ロイ。」と告白します。自分のすべての事情と境遇をご覧になって、たとえ奴隷の身ではあっても、自分から生まれてくる子孫までも顧みられる神の御手を感じたからです。このように神様は人生の生死禍福を主管し万物を治める方として、いつでもどこでもすべてを監察していらっしゃいます。 


詩篇33:13-15には「主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。」とあります。 また詩篇139:1-4では「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」このように私たちの人生をご覧になる神様は、各人が行った通りに公義に従って正確に働いていかれるのです。ハガルはまさに主の使いを通して、このようにご覧になる神様に対して悟り感じるようになり、これからはその心に神様を信じて仕える人に変化していきます。しかし、ここで私たちが悟らなければならないのは、神様がこのようにハガルと彼の息子イシュマエルに恵みを与えられるのも、結局はアブラムをご覧になったためだという事です。

 

ハガルを通してイシュマエルを得ることになるこのすべての過程が、最初から神様のご計画ではありません。人の考えの中で行われたことでしたが、それでも神様は義人のアブラムを見て、すべてが平和の中で行われるように、イシュマエルにもこのように約束の言葉で、共にしてくださっているということです。こうしてアブラムがイシュマエルを得た時、彼の年齢は86歳でした。アブラムが約束の子孫に対する約束の言葉を受けて、10年が過ぎた頃になってからだったのです。それなら人の考えでは「この息子のイシュマエルが神様の約束の子孫なのだ」と考えることもできます。しかし、約束された子孫である本当の跡取りは、それから14年後に生まれるのです。

このように、約束の子孫に対する約束の言葉を受けてから10年が過ぎて、息子のイシュマエルを得て、以後も14年間も他の跡取りがいなかったにもかかわらず、アブラムは神様の言葉に対する信頼が少しも揺れたり弱くなったりしませんでした。そのため、ついに100歳になり、人の考えでは到底不可能な時に、約束の子孫であるイサクを得ることができたのです。これから17章で神様が99歳になったアブラムに現れ、彼を多くの国民の父であるアブラハムとして立ててくださる内容は、次の時間に見てみることにします。    



結論

エレミヤ33:2によれば神に対して「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。」と言っています。すべてを一寸の誤差もなく計画し、その計画に従って必ず成し遂げられる神様です。まさにこのような神様を信じると言いながらも、今日多くの人々が自分の考えと方法を頼る場合が多いです。真理である神様の言葉に照らしたり、先に神様の前にひざまずいて祈るよりは、すぐにも自分が見て良い道と方法を選びます。しかし、今日の本文で見たように、アブラムは家庭のこと一つまでも、自分の任意に考えと方法を働かせたのではなく、道理に従って神様の前にゆだねたのです。皆さんも大きなことでも小さなことでもすべての事に神様を信じてゆだね、聖霊の導きを受けて下さい。家庭の頭も主ですし、教会のすべての組織の頭も主になることで、常に祝福の中で暮らす皆さんとなられますよう、主のお名前によって祈ります。

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