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朝の学び121 創世記16章

9月7日
読了時間: 11分

更新日:9月10日


創世紀 16:4-16  


彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」アブラムはサライに言った。「ご覧。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。彼女をあなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女をいじめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。主の使いは、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。」と尋ねた。彼女は答えた。「私の女主人サライのところから逃げているところです。」そこで、主の使いは彼女に言った。「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。」また、主の使いは彼女に言った。「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。」さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼んだ。それは、「ご覧になる方のうしろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからである。それゆえ、その井戸は、ベエル・ラハイ・ロイと呼ばれた。それは、カデシュとベレデの間にある。ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだその男の子をイシュマエルと名づけた。ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。




序論

アブラムの妻サライは70歳を超えていましたが、まだ子供を持てないでいました。彼女は自分がみごもれない状況のなかで、自分なりの考えと方法を働かすことになります。自分の女奴隷であるハガルを夫に妻として与え、ハガルによって子を得ようしたのです。ところが、実際にハガルが妊娠するようになると、自分が思っていたこととは違う結果が現れ、これによってサライは自ら訓練に陥ることになります。神様を信じる人として、何かの問題があるとすれば、当然、神様の前に祈って神様の御心を悟り導かれるべきでしたが、サライは人の考えと方法を働かせて、結局、訓練を自ら招いてしまったのです。したがって、私たちは人の考えと方法というのが神様の前ではどれほど無益なものであり、むしろ神様の働きを阻む障害物になるという事を知らなければなりません。

 

イザヤ55:8-9「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げ。―天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」と述べています。だから、どんな状況でも、人の考えと方法を働かせるのではなく、まず神様の考えは何であり、どのような意味と摂理があるのかを悟らなければなりません。それで、自分に問題があれば発見して悔い改めればよいので、そうではないとしても、常に感謝の気持ちで神様の善良な御心を悟らなければならないのです。     


では、サライが自ら招いた訓練とは果たしてどのようなものなのでしょうか?サライは自分の計画通りにハガルという女奴隷を夫に与え、彼女はみごもるようになります。しかし、実際にハガルが妊娠するようになると、思いもかけなかった問題がサライとハガルの間に生じました。ハガルは自分がみごもったことを悟ると、女主人のサライを見下げるようになったのです。サライはハガルが自分に属する奴隷であったので、彼女を思いのままにすることができると思っていましたが、ハガルは自分がたとえ奴隷であっても、跡継ぎのいない家に跡継ぎの子を宿したのですから、自ら自分を高めるようになったのです。サライの立場で感じる時には、ハガルの小さな行動や言葉一つも自分を見下げるように感じられる状況でした。これもサライに自尊心と悪があるからです。相手はそのような意図で行った行動や言葉ではないのに、自分自らが相手が私を無視すると考えるようになるのです。     


人の高慢というものが一般には、自分の境遇が低い時には現れないのに、実際に権勢が与えられ認められる立場に立つと、その時になって初めて現れる場合が多いです。ハガルもやはり奴隷の身分だった時は、たとえ高くなろうとする心があったとしても、どうしてそれを明らかにすることができたのでしょうか?しかし、主人のアブラムの子供を宿すと、抑えていた高慢の心が明らかになり、このように女主人のサライを見下げるまでに至ったのです。これは必ずしもハガルの場合だけでなく、真理に完全に変化する前には誰からでも出てくる姿です。 したがって、仕えられる立場にいる人はもちろん、仕える立場にいる人だとしても、常に自分を振り返り「私には仕えられようとして、自分を表わし高めようとする高慢の心があるのではないか?」と顧みなければならないでしょう。全き霊に入るまでは、箴言16:18「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」という言葉が心に常に肝に銘じられていなければならないのです。    



訓練の責任をアブラムに転嫁すること

本文5節を見れば、サライも自らが自ら招いた訓練を通して悪の形が一つ一つ現れるのが見られます。 「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」と言っています。事実、すべてのことを最初から計画したのもサライです。そして、ハガルを夫に与えたのもサライ本人ですが、それによって自分に害が返ってくることになると、その責をすぐに夫のアブラムに帰しています。当の夫には一言の相談もせず、自分の考えと方法どおりに行ったことであるにもかかわらず、その結果に対する責任を夫に転嫁しているのです。

また、自分の方ではハガルに寛大に恵みを施したと思っていたのですが、ハガルの方で自分を見下げるように出てくると、ハガルに対しても寂しさと感情が溢れ出ています。それだけでなく「主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」と神様の名前を使ってまで、自分は全く誤りがなく、悔しいことを訴えています。それでは、このような「サライ」の姿を通して、私達が気づくべきことは何でしょうか?第一に、自分の行動に責任を負わなければならないということです。サライは最初からすべてのことを自分の考えと計画通りにしたにもかかわらず、実際に結果が自分の望む通りに出てこないので、その責任を夫に転嫁するのを見ます。結果が良くなかったら「私は何が間違っていたのだろうか。神様の御心から外れたことは何だろうか?」とこのようなことを祈って悟らなければならないのに、サライは自分を振り返るよりはその責任を他人に転嫁しているのです。

例えば、ある人は自分の考えが全て正しく、自分がすることは全て神様の御心であるかのように考えます。それであることを成し遂げるにあたって、常に自分の考えと計画に固執し、何とか推し進めようとします。他の人々の意見は無視したまま自分の意見だけを前面に出すのです。このような場合、他の人たちが平和を追うためにその人の意見に従ってあげたりすれば、さらにいい気分になって自分の主張どおりに導いていきます。ところが、このように自分の好きなようにしたにもかかわらず、実際にその結果が良くなかったりすると、責任を他の人に押し付けようとするのです。自分が神様の意思を明らかに悟れなかったし、他の人々とも和平できなかったことを振り返り、自ら責任を負う姿ではなく、自分の考えが正しかったし、自分は依然として上手にしたが、他の人々がよく助けてくれなかったとか、自分の計画通りに100%ついていけなくて結果がこのように出たというのです。

預言者モーセの場合は、自分の救いを担保にしてまで、同族の罪に代わって責任を負おうとした姿だったことを考える時、このように自らした行動に対してさえ責任を負おうとしない姿は、あまりにもふさわしくない姿です。サライも自分の計画によって生じた結果ならば、自分が謙虚に受け入れて解決していかなければならなかったのですが、そうではなく、むしろその責を夫に転嫁する非真理の心が如実にあらわれています。したがって、皆さんも常に自分の言葉と行動に自ら責任を負うことができなければならず、自分によって良くない結果が生じた時は、それを他人のせいにしようとするのではなく、神の前で謙虚に自分の姿を発見して、何が間違っているのかを悟らなければなりません。そのような時、その一度の過ちが何の意味もなく通り過ぎるのではなく、むしろその過ちを通して自分を発見し、変化できる祝福の機会にすることができるのです。 

第二に、悟らなければならない点は、最後まで善を施すことができる善の心です。サライはハガルに対してそれなりに善と恵みを施したと思っていましたが、自分に戻ってくることが考えと違うので、その心から悪が出てくるのを見られます。サライが本当に良い心でしたことなら、ハガルがみごもった時に一緒に喜び、もっと彼女のためにしてあげるべきだったでしょう。ハガルがサライを見下げたのは明らかに間違っていますが、だからといってその責を夫に帰しながら自分の悔しさを神様の前に訴える姿は決して善良な心から出たものではありません。

例えば、リーダーになった人が目下の人に善を施し、彼がうまくいくように熱心に導いてあげました。それで、目下の人がすくすく成長し、いつの間にか自分と比べられるような位置に立つようになったのです。以前は自分が管理していたメンバーだったとすれば、今は同じ役員になって同等の立場で仕事をしていくことになったのです。さらに、今は自分よりも認められて愛される人になりました。それではこの時、リーダーになった人の心はどうあるべきでしょうか?善良な心を持った人なら一緒に喜び、相手がもっとうまくできるように引き続き助けてあげなければならないでしょう。そして、このような善良な心を持った人ならば、たとえ相手が自分より高い位置にまで上がっても、今はその人を目上の人として丹念に仕えることができるのです。神様の前にも「あの方があのように成長して、神様の前に大きな働き人になるようにしてくださってありがとうございます。」と感謝の祈りを捧げることができます。     


しかし、サライのような気持ちがある人は、このような状況で感謝が出てきません。相手がいつの間にか成長して、自分よりもっと認められ愛される位置に立つようになると、嫉妬する気持ちになります。 また、ひょっとして自分の考えに相手が自分を少し無視するような姿が見えれば、「いや、私があんなに育ててあげたのに、その恵みも知らずに私を無視するなんて」と心が傷つくこともあるのです。皆さんの中にもこういう状況がありますか。例えば、私は教会に来てからずっと長いのに、私より遅く来た人がいつの間にか自分よりもっとリーダーになっているのです。そのため、以前は私が仕えられる立場にあり、相手を訪問して多くのことを教える立場だったのですが、今は反対に、私が相手に仕え、時には指示を受けなければならない状況になったのです。もちろんこの時、リーダーになった人も、以前に受けた恵みを忘れない人ならば、たとえ今は自分がもっと上の立場にいたとしても、以前自分を助けて恵みを与えてくださった方に対して、変わらずに仕えて感謝しなければなりません。   


しかし、以前は仕えられていたが、今は仕えなければならない立場に立った人の方では、相手にそれを望んでばかりいてはいけません。「以前は私がまとめ役をしていたのに、以前は私の方が信仰が良くて認められていたのに」このような考えに浸って、依然として仕えられようとしてはいけません。今は秩序に従ってリーダーになった方に熱心に仕え、「あの方は遅く来ていたのにどうして、あんなに早く神様の前に認められて働き人になったのだろうか?」このようなことを学ぼうと努力しなければならないのです。マタイの福音書19:30「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」という言葉のように、誰が先に来たかが重要なのではなく、誰がより先に霊に入ってくるのかが重要だという事です。

だからといって、肉的な秩序を無視しなさいという意味ではなく、肉の秩序に縛られて、霊的な秩序を悟れないのはいけないということです。さらに、皆さんが善と恵みを施したなら、それ自体喜んで感謝し、最後まで善で接することを願います。サライもやはり自分がハガルに恵みを与えた時、ハガルがそれを善で返せなかったからといって、同じように自分も悪を発するのではなく、もし続けて善で接していったとすれば、結局、神様がハガルの心を動かし、主の事の全てが平和の中で解決されたでしょう。

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