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朝の学び120 創世記16章

9月7日
読了時間: 10分

更新日:9月10日


創世記16:1-5


アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」




自ら訓練を招いたことについて(つづき)

しかし、今日の本文のサライはどうでしたか?最初からすべてを自分の考えと自分の考えの中で自分が決めたことを貫いていったのです。それは父なる神様の御心でも、アブラムの心でもありませんでした。  ところが、このような状況で、アブラムは妻のサライの話を聞いてあげたという事です。「アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」とあります。アブラムは妻のサライに、自身が悟っている神様の御心をうちわけたり、「もう少し待ってみよう。」となだめたのでもありませんでした。ただ静かに妻の言葉に従ってあげました。では、アブラムはなぜそうしたのでしょうか?

私たちはここでまずアブラムとサライの二人の性格の違いを知ることができます。今日の本文に出てくるサライの姿だけを見ても、彼女が普段どんな姿だったのかを十分に推測することができるでしょう。自分の主張、自分の考え、自分の意思があれば、それをなんとしても貫いていく姿でした。アブラムは、まさにこれらの妻サライの性格についてよく知っていました。だから今日の本文の状況でも、アブラムは自分が望まないからといって、妻のサライが、すでに決めたことを変えることはないことを知っていました。自分がいくらあれこれ話しても、サラは結局自分の望み通りにする人だったのです。

一方、アブラムは先に甥のロトに土地を譲る姿からも分かるように、すべての人との和平を望み、相手が望むことを聞いてあげることを願う気持ちです。罪でなければ、相手の思いに寄り添い、これもよし、あれもよしの心であり、自分が正しいとしても相手に合わせてあげる心です。自分の信仰に合わせず、相手に余裕を与えられる心です。これがまさに和平の心ですが、アブラムにはこのような和平の実が結ばれていたので、今日の本文のような状況で、素直に妻のサライの意見に従ってあげたのです。何かの欲や利益を求めたのではなく、すでに妻のサライの性格をよく知っている状況で、何とか相手の心に合わせてあげようとしたのです。もしこのような状況で、アブラムが妻のサライの言葉を断ったと考えてみてください。妻のサライが「そうですね、あなたの言う通りですね。あなたの意見に従います。」と、このように従ったでしょうか?

私たちは本文5節の御言葉を通して、そうではなかったという事を推測することができます。「そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』 自分自身が自ら招いた訓練によって苦痛を受けることになると、サラは夫のアブラムに「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。」と言って、むしろ夫のせいにしていることが分かります。ですから、その心が温柔であり、すべてにおいて和平に従おうとするアブラムは、当時の状況で妻のサライの言葉に従うしかなかったという事です。もちろん、そのようにすることが神様の御心ではなく、神様が許すことでなかったら、アブラムは当然、サライの言葉を聞き入れなかったでしょう。しかし、アブラムがこのように、ハガルという女性を通して息子のイシュマエルを得ることも、結局は人間耕作の大きな計画の中に入っていることだったので、神様はアブラムがハガルを妻とすることをお止めにならなかったのです。 

続いて続く3節「アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。」とあります。このお言葉は、当時の状況をより具体的に感じられるように説明してくださるお言葉です。アブラムがハガルを妻に迎えた時が、アブラムがカナンの地に住んでから10年後だと言ったのは、その当時すべてが安定し、豊かで平和な状況だったことを意味します。人が不慣れなところに行って定着する時、最初は色々な困難にも出会うことになりますが、それを一つ一つ克服していくと、次第に安定した状況に入ることがあります。これと同様に、アブラムもカナンに定着して十年ほど経ち、今では戦争の記憶も消えつつあり、力強い基盤の中で安定した生活を送っていたということです。     


このような時に、本文のできごとが発生したのです。試練にあって練られていた時は心に余裕がなく、サラも自分が子どもを産むことができずにいるという事に、それ程気をつかわなかったのですが、今はすべてが安定して基盤が整うようになると、いつも心に持っていた不妊に対する問題が表面に現れてきているのです。しかも、自分の年齢も75歳を超えたということです。このような状況で、サライは自分の考えと方法に合わせて、自分の奴隷を夫のアブラムに妻として与えたのです。しかし、先にも申し上げたように、自分の考えと人の方法を働かせた結果は、まもなく訓練として返ってくることになります。


女主人サラを見下げるハガル         


4-5節に「彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』」とあります。サラはハガルが自分に属する奴隷だったので、たとえハガルがみごもっても、まさかその影響が自分にまで及ぶとは思いませんでした。自分に属する奴隷なので、サラはハガルを自分の思いのままにすることができると考えたのです。子供さえ産めば、子供は自分のものであり、アブラムの子になるから、自分勝手にできると思ったのです。しかし、ハガルが実際に妊娠すると、その影響はすぐにサライにまで及ぶようになります。ハガルは自分が妊娠したことに気づくと、主人であるサライを見下げたのです。

エジプトの女性であるハガルは主人のアブラムを通して、神について知ってはいたが、神を心から信じる人でもなく、真理に変えられた人でもなかったのです。そのため、自分が身ごもったことを知った時に、その心の中にあった悪が主人を見下げる姿で出てきます。自分が高くなろうとする心であり、恵みに感謝することもしない心です。とにかく奴隷の身分だったハガルが、主人であるアブラムの子供をみごもるようになったのは、女主人であるサライの恵みがあったからです。もちろん、サライが良い心で、ハガルを夫のアブラムに与えたわけではありませんでしたが、ハガルの立場では確かに恵みを受けたのでした。さらに、自分がアブラムの子供をみごもったからといって、まだ自分の身分に何らかの変化があったわけではありません。それでもハガルは女主人のサライを見下げることをしたので、これはハガルの心をよく表しています。 


しかし、今日もこのような姿を見ることができます。例えば、ある人が認められる立場になった時に、今日の自分になるまで自分に恵みを与えてくれた人に対して感謝できず、受けた恵みを忘れてしまうのです。サウル王の場合がそうでした。自分を訪ねてきて、王として油を注いでくれたサムエル預言者に対して、最初は極めて謙遜な姿でしたが、後には、サムエル預言者がサウル王の前に出ることを嫌うほど、無礼な姿になってしまいました。それでは皆さんはどうですか?「私はサウル王のようではない」と言うのではなく、私を伝道してくれた人、私が初信者の時に恵みを与えて導いてくれた人、私が訓練の中にいる時に力を与えてくれた人、このような方々に対して変わらない心で感謝しているのか、皆さん自身の姿を点検してみて下さい。

今は、私がそのような人たちよりもっと高い職分にいるからといって、または、私が今は教える立場にいるからといって、その人たちに初めの時に対していた心が変わって、高ぶった心を持っているのではないでしょうか?恩を受けて助けられた方々に対して、「もうこれくらい感謝して、恩を返せばよいだろう。」という気持ちではないでしょうか?自分が目上の人に認められ愛されるからといって、それをもって、他の人の上に君臨しようとして、秩序を無視したまま高くなってはいないでしょうか?     


今日の本文のハガルの姿を通して、このような自分の姿を一度点検してみることで、ロ-マ12:16「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」という言葉のように、常に心を低いところに置いて、兼備した姿ですべての人に仕えることができる皆さんであることを願います。ところが、5節の御言葉を見れば、「そこでサライはアブラムに言った。『私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。』」とあります。ハガルだけではなく、サライからもその悪があらわれています。自分の方からは善を施したと思っていましたが、それが予期せぬ結果になると、すぐに悪が出てくるのを見ることができます。自ら招いた訓練を通して明らかになるサライの心を、次の時間に続けて見ていくことにしましょう。    



結論


ある方々は、自分が知っている神様の御心が全てであるかのように話す人がいます。しかし、神様の御心は単純にAかBかというふうに分けられない場合も多いという事です。各人の信仰の分量と状況、そしてこれまで神様の前に積み上げてきた善と信仰の行いによって、同じ状況でも神様の御心は異なって適用できることを知らなければなりません。これを考えずに、無条件に自分が知っていることだけをもって神様の御心だと主張するならば、これによって周りの他の人々が大変になることがあります。     


だから私は今までいくらよさそうなことだとしても、私の見方で一方的に決めて指示して命令したことがありません。また、もっと良い道があるからといって、その道を行くように相手に強要したこともありません。神様の御心が何なのかを教え、受ける側で、本人の信仰で決めて選択していけるようにしてあげました。それでは皆さんはどうしますか?私がリーダーだと言って、自分の考えだけが正しいと主張されるのですか?それとも、自分の考えが正しいと思ったら、たとえ自分が目下の者であっても、秩序を無視したまま、無条件に推し進めますか?   

今日の本文のアブラムはそうではありませんでした。自分の信仰に合わせるよりは、自分の見方に正しいものを追うよりは、相手に合わせてあげる平和の気持ちでした。それが非真理や罪だったら、断固として拒否し、決して妥協しなかったでしょうが、そうでなければ、アブラムは自分の妻の言葉にも耳を傾け、その考えに従ってあげたのです。皆さんもすぐに夫婦の間や親子間で、このように平和を求める家庭になってください。教会の働きの分野の中でも、皆がこのようにお互いに相手の心に合わせて、相手のための平和の心を成すならば、そのようなところはリバイバルしかないという事です。

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