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朝の学び119 創世記16章

9月7日
読了時間: 10分

更新日:9月10日


創世記16:1-5


アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。彼はハガルのところにはいった。そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。そこでサライはアブラムに言った。「私に対するこの横柄さは、あなたのせいです。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのですが、彼女は自分がみごもっているのを見て、私を見下げるようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」




序論

ローマ4:18-22を見ると、「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」アブラハムが神様の前にどんな信仰を持ったかがよく出ています。  

アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じました。それは「あなたの子孫がこのようになる。」という御言葉どおり、あらゆる国の人々の父になるためでした。彼が百歳にもなって自分の体が死んだも同然で、サラの胎の死んでいることを認めても、信仰が弱りませんでした。不信仰にならず、信仰に堅く立って神様に栄光を捧げ、約束されたことをまたよく成し遂げることを確信したから、それが彼の義とみなされたのです。このようにアブラハムは、望むことができない中で望んで信じたという事です。現実を見たのではなく、神様の御言葉に頼って結果を見ました。もし望むことができることを願ったり、現実にいくらでもできることを望むのであれば、これは信仰がなくてもいくらでもできます。しかし、アブラハムは自分の体が死んだも同然であることや、サラの胎が死んだようなものであることを知っていながら、信仰が弱らず、神様の約束を疑わなかったとあります。このように望むことができない中で願って信じること、これがまさにちょうどマルコ9:23「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とおっしゃったように不可能のない霊的な信仰なのです。     


それなら、この一つの事件だけを見ても皆さんは、自分の信仰がアブラハムと比較する時、果たしてどんなものかを見分けることができます。この教会に与えられた御言葉はもちろん、皆様一人一人に与えられた祝福と約束の言葉を、皆様は果たしてどれほど信仰の目で見つめましたか?もしかして信仰が弱くなってはいないでしょうか?もしかして疑わなかったですか?望めない中でも神様の言葉に頼って信仰の目で眺めることができる人、このような霊の人を作るために、神様は皆さん一人一人を今まで訓練し整えてこられたという事です。アブラハムも神様が彼の信仰を義とされるまで、一日で出来たのではありませんでした。彼を選んで呼び、自らすべての人生を主管し、訓練し、また訓練して、完全な信仰の分量に達するように導いてこられたのです。このようなアブラハムの訓練の過程の中に、いつも彼と一緒にいた人がいました。それは彼の妻のサライでした。エジプトの王、バロの手に妻を奪われる事件の主人公でもあり、神様が一緒にいることで祝福を受けていく過程でも、いつもそばでアブラムを見守っていた人であり、アブラムが甥のロトを救って来る時も、彼と一緒にいる神様を見たのでした。  



自ら訓練を招いたことについて    


このように、アブラムとすべての訓練の過程の中で一緒に過ごした者でしたが、だからといって彼女の信仰が、アブラムと同じだったわけではありませんでした。確かに神様のみわざを一緒に見て体験し、神様についても知っていましたが、サラはそれが心に信じられる信仰として完全に成長できなかったのです。  心の中心で神様を信じていたのではなく、これまで見て聞いて体験したことが、知識的な信仰として積もってきたのです。これは今日も同じです。同じように神様のみわざを見て聞いて体験したからといって、共にしたすべての人の信仰が同じように成長するわけではありません。もし、見て聞いて体験するだけで同じように信仰が成長できるなら、この場にいらっしゃる皆さんの信仰もすでに大部分は信仰の5段階に入っていなければなりません。

ところが、同じ時期に信仰生活を始めたとしても、ある人は霊に深く入っていて、ある人は依然として足踏みをしています。海外の聖会に一緒に行って、同じように神様のみわざを見たとしても、ある人はその聖会を通して霊的に大きく変化する場合があり、ある人はあまり変化がない場合もありますね。では、なぜこのような違いがでるのでしょうか?それは神様のみわざを見て聞いて体験することによって、どれほど自分の考えと枠組みと理論を破り、またどれほど心を割礼していくかによるのです。「ああ!神様のみわざはこんなにすごいな」と、単純にこのように知識的な次元に留まってしまえば、いくら多くの神様のみわざを見ても、いざとなると自分のものにすることができません。

サライはまさにこのように、神様のみわざを自ら見て聞いて体験しながらも、その信仰は知識的な次元にとどまっていました。

 

このようなサライの姿が今日の本文によく出ていますね。1節では、今日の事件の背景と事件発端の原因となるハガルについての説明が出ています。アブラムの妻サライは、70歳をはるかに超えていましたが、まだ子供を産んでいませんでした。ところが、このようなサラにはエジプト人の奴隷のハガルという女性がいました。サライがなぜ知識的な信仰の次元に留まっていたと言ったのか、その理由が続く2節に出ています。それは、サライは「主は私が子どもを産めないようにしておられます。」と言っているという事です。自分が子供を産めないことが、まるで神様のみこころであるかのように話しており、その責任を神様になすりつけているのです。

 

さらに続くサライの言葉を見れば、サライが今どれほど自分の考えの中で事を決め、それを主張していくのかがよく分かります。サライの考えでは、自分の女奴隷であるハガルを夫に与えてでも子供を得る、ということでした。ところが、サライはこのように重要なことを決定するにあたって、神様に伺って神様の御心を求めたわけでもなく、夫に一言相談をしたわけでもありませんでした。「主は私が子どもを産めないようにしておられます。」と自ら決めつけて、アブラハムに今後の計画を通知しています。すでに心に決めて話しているのです。

神様を信じるという人々の中にも、多くの人々がある試練や患難、または問題が迫った時に、その原因を神様に返します。簡単に言えば「神様がこうなさった」と言って、すべてを神様のせいにするのです。それと共に、さらに「これが神様のお考えだ。」と言ったりもします。しかし、聖書のどこにも、神様の子供たちが試練患難に遭い、問題の中で絡み合うことが神様の御心だと言うところはありません。むしろ、常に子供たちに良いものを与えることを望み、試練患難と問題の中より救い出すことを、切実に願う神様であることを聖書は述べています。それでもこのような神様を誤解して、ある問題に出会った時、自分を振り返るよりは神様のせいにしてしまうのです。     


ヨブがまさにそうでした。まるで自分は何の過ちもない義理堅い人なのに、神様が訳もなく自分に苦痛を与るようだと神様を誤解していました。しかし、神様が彼に御言葉の中で悟らせてくださると、ヨブはついに自分の誤りに気づき、神様の前に次のように告白します。ヨブ記42:3に「知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」として、続く6節「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」とあります。そして、ヨブがこのように神様の前に自分の姿を発見し、悔い改め変化した時に、神様はヨブに以前よりさらに驚くべき祝福で返してくださったのです。    


したがって、皆さんが問題の中に置かれることになれば、まず「私がなぜこのような問題に会ったのか?」その原因を神様の言葉に照らして探さなければなりません。それで、その原因を発見して悟った時に、神様は子供である皆さんを問題の中から助けることができます。ところが、ある場合は何の原因もないようですが、何らかの問題が訪れる場合もあります。それは祝福を与えるための訓練です。この時もやはり神様の言葉に従って、最後まで感謝と喜びで勝利しなければなりません。そして、このように神様の善良な御心を、信仰で喜びと感謝で訓練を通過した時、神様の備えられた祝福が与えられるということです。     


ところが、本文のサライにはこのような姿が全くありませんでした。サライが本当に夫のアブラムと共にする神様を信じていたなら、自分がこのように身ごもれずにいる状況で、先に夫に話して原因を探そうとしたはずで、神様の御心を悟ろうとしたでしょう。また、これからどうするべきかについても、夫と相談して方法を見つけたでしょう。しかし、サライはすでに「神様はこういう神様だ」と自分自身で断定した状態で、次にどうすべきかまで自分の考えの中で決め、これを夫のアブラムに通知しているという事です。これは霊的な秩序を離れ、肉的な秩序の中でも全く理にかなっていない場合です。家庭の小さなことでもなく、サラが自分の権限の中で自ら決められないことを、家庭の頭である夫に一言の相談もなく、自ら決めて後から知らせるということは、家庭の肉的な秩序上でも相応しくないということです。   

さらに霊的な秩序を考えてみれば、神様と明らかに交り、誰よりも神様の御心をよく知っている夫のアブラムに、神様の御心がどこにあるのかを当然尋ねるべきでしたが、そうではなく、肉の考えを働かせて人の方法を探したということは、霊的にもあまりにも無知な姿でした。だから、このように人の考えと方法を働かせたことが、結局は自らが負わなければならない訓練の苦しみに至ったことが分かります。このように肉の考えと人の方法を持って、神様の意に反して行った時は、訓練が伴うことを知らなければなりません。アブラムはすでに妻のサライを奪われる訓練を通して、人の考えの中で方法を働かせることがどれほど神様の前に愚かなことであり、その結果がどうなるかということを徹底的に悟りましたが、同じ事件を一緒に体験した妻のサライは、その訓練の教訓が心に霊として植えられなかったので、このように同じ失敗を繰り返しているのです。    


神様の子供として皆さんがある問題に出会ったとすれば、まずは当然、神様の前に祈って神様の御心を悟らなければなりません。この問題をどのように乗り越えていくべきか、神様の導きを受けなければならないのです。ところが、ある方々は少し祈りをしてみて、すぐに目に見える道が現れなければ、すぐに人の考えと方法を働かせます。そして、結局は訓練の道を自ら招くことになります。ですから、神様の前に任せたなら、全面的に信じて頼らなければならないという事です。少し頼ってみて早く答が来ない場合、疑って世の方法を探す人なら、このような人には神様が答えることができません。

ヤコブ書1:6-8「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」と言われた通りです。また、皆さんが神様に本当に信じて任せたとすれば、答が来なくても来るまで待たなければなりません。待っている間に神様の御心を悟ることもでき、直ちに行動で動かないことが神様の御心なので、何の答も与えない場合もあるのです。(つづく)

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