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朝の学び118 創世記15章

9月7日
読了時間: 10分

更新日:9月10日


創世紀15:12-21


日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」




公義の中で働かれる神様

本文16節によれば、神様はアブラムの四代目の子孫たちが帰ってくる、「それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」と言いました。これはまさに父なる神様は、すべてを正確な公義の中で働かれるという事を、よく表している言葉です。イスラエルの民には四代という期間が、彼らにとってカナンの地に入るほどの信仰の成長を成し遂げる時間だったとすれば、当時カナンの地に住んでいた異邦の民族には、神の哀れみの中で悔い改め立ち返るように与えられた時間だったのです。ニネベの民に預言者ヨナを送り、悔い改める時間を与え、ソドムとゴモラにも自ら御使いを送り、彼らの罪と悪が蔓延する状況を探ることで最後の機会を与えたようにです。

このように神様は、異邦の民族といって無条件に滅ぼすのではなく、彼らにも神様の公義を適用させます。したがって、神様を信じる人々にはもちろん、神様を信じない人にも神様の公義は適用されるという事です。そのため、たとえ神様を信じない世の人でも、神様が定めた法則の中で生きていけば、その中で祝福されることもあり、大きな災いや事故に遭わないこともあります。世の中でもそれなりに善を行う人がいて、熱心に救済して良いところに物質を使う人もいて、悪に染まらないように生きていこうとする人がいますが、このような人たちは公義という法則の中で、彼らが行って蒔いた分だけ集めることになるのです。    


もし神様を信じない人々には公義が適用されなければ、彼らは常に敵である悪魔サタンの餌となって全く祝福も受けられず、常に試練患難の中で生きなければならないでしょう。もちろん、世の人々が受ける祝福はそれが完全なものではないので、敵である悪魔サタンはいつも隙をねらって、何とか自分たちの餌にしようとしていきますが、神様の公義はこのように世のすべての人に同じように適用されるため、この肉の世の中にも正義と秩序が成り立つということです。それで神様を信じない世の人々も、「善は必ず勝利する」という神様の公義を知ってはいます。ただ、自分たちの欲に導かれるため、善で勝利していく人が珍しいだけです。まさにこのような神様の公義があったので、神様はイスラエルの民にカナンの地を一気に征服させなかったのです。カナンの地に住む人々の悪が公議のさばきの限度を越えるまで、寛容を尽くして、耐え忍んで機会を与えられたのです。

もちろん当時の肉的な状況を見た時、ヤコブとその息子たちと家族70人ではカナンの地を征服することは不可能だったので、神様はヤコブの子孫たちが大きくて強い民族を形成していけるように、時間を与えられたのでした。また霊的には、神様の公義の中で、まだカナンの地に住んでいた異邦の民族を滅ぼす時に至っていないということでした。したがって、私たちは神様が常に善の中で働かれ、必ず公義の法則に従って働かれるという事を知らなければなりません。皆さんにいくら良いものを与えようとしても、また皆さんを試練患難から守ろうとしても、すべてを公義の中で働かれます。神様の子だからといって、無条件に祝福してくださり、守ってくださることができるわけではないということです。もちろん、敵である悪魔サタンが訴えることがなければ、どんな呪いや試練患難も臨みません。     


箴言26:2「逃げる雀のように、飛び去るつばめのように、いわれのないのろいはやって来ない。」とおっしゃったように、何の理由もない、呪いや試練患難は決して臨まないのです。 したがって、皆さんにある問題が訪れたなら、それには必ず理由があるのです。その理由を探して神様の前に悔い改めた時、問題が解決されることであり、以前のように回復することができます。ところが、今日の本文にエモリ人にもそうであったように、ある問題が明らかになり結果として現れるまで、神様の側から下さる猶予期間があります。もちろん問題の原因が何かによって、問題が明らかになるまでの時間の差はあるでしょうが、神様は皆さんがどんな過ちをしたとしても、一気にこらしめや試練患難を許すのではありません。自ら悟り、立ち返る機会を繰り返し与え、それでも立ち返らないなら、敵である悪魔サタンの訴えをお聞きになるのです。

しかし、敵である悪魔サタンに渡すことも結局は神の愛であることを知らなければなりません。そうしてでも悟り、立ち返ることを願うからです。まさにこのような神様の公義と愛の中で、エモリ人には悔い改めの機会が与えられます。しかし、結局彼らは悔い改めて立ち返るよりも、さらに悪に突き進んだので、結局四代の後には、さばきの限界線に至ることになり、結局神様はイスラエル民族を用いて彼らをさばかれたのです。これがイスラエル民族のカナン征服の過程です。イスラエル民族にはカナン征服は、約束された地を信仰で取る祝福の過程ですが、当時カナンの土地に住んでいた異邦の民には、罪と悪に対するさばきの過程になったのです。     


神様は公義の神様であるため、自らも公義の中で働かれます。そのため、イエス様がこの地に来て救い主になってくださるためにも、その多くの訓練と苦痛を受けなければなりませんでした。イエス様をこの地に送って一気に救い主として立てたのではなく、徹底的に人間の姿で苦難に遭い、救い主としての資格を備えるようにしたのです。しかし、イエス様は、その過程を従順に通過していったので、救い主になることができ、主の主として栄光の座に就くことができたのです。    


リピ2:9-11「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあります。しかしこの栄光は、イエス様が神様の息子であるとしても、無条件に与えられたものではありません。ピリピ2:6-8「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」と言われたた通り、自分を徹底的に低くして死ぬまで服従されたので、今は公義の中で神様が思う存分、主を高めることができたという事です。


アブラムの全焼のいけにえを喜び、契約した神様

本文17節のお言葉を見れば「さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。」とあります。これは神様が、アブラムのいけにえを、どれほどかぐわしい香りとして喜んでかがれたのかを、しるしとして見せてくださったのです。このように神様は、どの人がどれほど心から信頼と真心で神様の前に捧げたかによって、御心を行ったかによって、確信を与え会ってくれます。「私はあなたの祈りを嬉しく受けた。私があなたの真心と信仰を喜んだ。」という証拠を示してくれるということですね。ですから、父なる神様とこのような関係になれば、より一層、確信の中で嬉しく幸せに信仰生活ができます。

続く18節には「その日、主はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」と言われます。この言葉もやはり前に神様がアブラムに創世記13:14-17「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」と言われた言葉をもう一度確かにする言葉です。   


アブラムという一人の人物を通して、将来彼の子孫がどれほど大いに伸びていくのかを言われたのです。 現実を見ると、まだ跡取りも生まれておらず、周辺には当時のアブラムとしては侮れない強い民族が住んでいる状況でした。このような状況で神様は、アブラムにこのように途方もない約束を与えたのであり、アブラムはその約束を信じたのです。アブラムがこのように神様のみ言葉を少しも疑わずに信仰として受けたので、ヘブル11:1「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」という言葉に従って、時がくれば時間を超えて契約のみ言葉が成就されたのです。    


19-21節のお言葉には、神様が許可された地に当時住んでいた異邦族の中の名前が列挙されています。「ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」この言葉からも分かるように、このように多くの異邦族がそれなりに力を育てて定着しているカナンの地を、人の力だけで征服していくことができるのではありません。神様が一緒でなければ、人の力だけでは不可能なことでした。だからこそ、信仰が必要だったのです。これら異邦の民族を追い出し、神様がお与えになった地を手に入れるには、人の力ではなく神様の力が必要ですが、このような神様の力を引き下ろすためには、まさに信仰が必要だったのです。     


ところが、アブラハムの子孫たちがこのような信仰を持つまでには時間が必要でした。皆さんがカナンの征服史を見れば分かると思いますが、ヨルダン川を渡ってエリコの城を崩しながら、カナンの地に住んでいた異邦の民族を一つ一つ征服していくのは、信仰によってのみ可能なことでした。ですから、神様はイスラエル民族が、肉的には強く大きな民族に成長するようになさり、霊的にはカナン征服に必要な信仰を育てようと、エジプトでの400年間を奴隷とされ、また、40年間を荒野で暮らすようにされたのです。    



結論


神様は当面の現実ではなく、今後のすべてを知って備え、神様の子供たちを導いていきます。したがって、すぐに見るには難しい道のようで苦難の道のようですが、その結果を見てみると祝福の道であり、願う道になるという事です。ところが、多くの人は自分が見て良い道、自分が見て楽な道だけを選ぼうとします。神様は私たちに良いものをくださることを望んでいるのに、すぐにはその道が大変そうに見えるからといって従順できないのです。ただ「アーメン」と「はい」と、神様の導きに従っていけば祝福ですが、直ちに現実を見るために従順が出てこないのです。そのため神様は、現実を見ずに信仰で結果を眺めることができる信仰の義を望んでいます。     


アブラムが現実を眺めず、信仰で神様がくださった約束の言葉を受けることで、結局、約束された言葉が完全に成就したように、皆さんも迅速に神様が望む信仰の義を成し遂げ、与えられた約束の御言葉が完全に成就されますように主の御名で祈ります。

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