朝の学び115 創世記15章
更新日:9月10日
創世記15:4-12
すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
序論
創世以来これまで多くの人々が神様を信じ、自分たちの見方ではそれなりに最善を尽くして神様を信じると考えてきたはずです。ところが、神様はアブラハムを信仰の父に立てたという事です。アブラハムが生まれる前にも信仰の良い人々がいたはずで、アブラハム以後にもいたはずですが、神様はアブラハムを選びました。そして、アブラハムを信仰の父にするために、神様は彼の道を自ら導いていきました。訓練を通して自分の考えを徹底的に破るので、神様の前に完全な従順に至らしめ、同時にアブラハムの子孫を通して、選民イスラエル民族を成し遂げていく計画も一つ一つ進めていきました。
アブラムの後継ぎの約束
本文の4-5節に「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」と述べています。前にも神様はアブラムに跡取りに関する契約のみことばをくださったことがありますが、その言葉をくださった後も長い時間が経ちましたが、依然としてアブラムには跡取りがいませんでした。そうするうちにもう一度、跡取りに対するより具体的な約束をしてくださっているのです。それでは、アブラムが以前にくださった約束を信じられなかったので、このようにもう一度約束の言葉をいただいているのでしょうか?違います。
アブラムは、神様が以前にくださった約束の言葉を信じられなかったり、疑ったりしたのではなく、誠実な神様の約束を固く信じていました。それでも神様はもう一度約束の言葉をくださることで、アブラムとの約束を確証してくださったのです。しかし、アブラムがこのように約束の言葉を受けた後、すぐに約束の子孫である跡取りが生まれたわけではありません。その後、サライの女奴隷ハガルからイシュマエルが生まれましたが、彼は約束された跡取りではありませんでした。この時、アブラムの年齢が86歳でした。ところが、その後も14年が過ぎて、アブラハムの年齢が百歳になって初めて、約束の子孫であるイサクが生まれたのです。初めて故郷、親戚、父の家を離れ、命をかけて約束の言葉をくださった時からは25年が過ぎた後でした。このように神様が約束の御言葉を下さっても、それが実現されるまでには長い歳月が流れなければならなかったという事です。ところが、その長い歳月の間、アブラムは変わらず父なる神様の契約を信じていました。
信仰の義
まさに本文の6節に「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。これに対してローマ書4:13には「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。」と述べています。では、信仰の義とは何でしょうか?信仰の義とは、神様の言葉に頼って現実を見ないで、信仰の目でその結果を望むことを意味します。自分の思いや力に頼らないで、ただ御言葉だけを頼りにするのです。このように神様の言葉に頼るかどうかを見るために、神様は時にテストを許可される時があります。テスト試験を受けると、これまで築いてきた信仰の義が明らかになります。
出エジプトしたイスラエルの民の中で、カナンの地を偵察して帰ってきた12人の偵察者の告白を聞いてみると、それぞれの人の信仰の義がよく表れています。12人の偵察者のうち、ヨシュアとカレブを除く10人は、民数記13:32-33に「彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」とあります。「私たちが巡り歩いて探ってきた地は、その住民を食い尽くす地であり、そこで見たすべての民は、背の高い者であり、そこでまたネフィリム人の子孫のアナク人を見たのだから、私たちは自分が見てもいなごのようだから、彼らの目にもそのように見えたはずだ」と言いました。
一方、ヨシュアとカレブは、民数記14:7-9に「「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」」と言ったのです。
神がイスラエルの民に与えると約束されたカナンの地を、同じように偵察して帰ってきたにもかかわらず、このように信仰の告白が違ったのです。これはつまり、10人の偵察者は現実を見たのですが、ヨシュアとカレブは御言葉に頼って、信仰の目で結果を眺めたという事です。そして、このように信仰の目で眺めたことが、最後まで変わらなかったのです。これがまさに、父なる神様が認めてくださる信仰の義なのです。そして、このような信仰の義は、真実という結果として出てくるのです。
一つ例を挙げてみましょう。世の中でも子供が危急の状況に置かれると、ほとんどの母親は、誰かがさせなくても子供を救うために、死を辞さずに身を投じるのを見ることができます。ところで、こうしたお母さんでも、お子さんが成長してお母さんの心に合わずに外れると、どうなりますか?お互いに争ったり、ひどい場合は仇同士にもなります。母親が望む結婚をしないからといって、母親が望む進路を選択しないからといって、母親と子供の間にひびが入ってしまいます。それならこれが真実ですか?真実は変わらないものなのに、命までかけることができた母性愛があったとしても、歳月が経って自分の意思と義に合わなければ、仇になることもあるなら、これは真実ではないですね。これがまさに人の義の限界なのです。
そのため、神様は自分の利益に合わなければ変質し、結局裏切ってしまう人の義ではなく、永遠に変わらない信仰の義を望むのです。神様は現実ではなく、結果を眺めることができる信仰を要求されるのであり、このような信仰を示す時、神様との関係でも信頼性が与えられるという事です。アブラムはまさにこのような信頼関係に至ったので、本文15:6「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と神様はアブラムの信仰の義を認めてくださっているのです。しかし、このような信仰の結果が実として現れたのが、その時、すぐではないと言いました。皆さんもこのような法則に気づいてください。父なる神様が下さった言葉が成就して実として出てくるまで「誰が変わらない信仰の目で眺めるのか?」父なる神様はこれをご覧になります。
神様が何かを言われた時、すぐに目に見える実を見せてくださるなら、誰が神様を信じないでしようか?しかし、すぐに現れるものもありますが、そうでないものもあるので、神の側ではこのような状況で、各人の信仰の義を測られるのです。そして、その信仰の義が、希望する分量に満たされた時、すぐに答という実が与えられるのです。したがって、私たち働き人は、神様の仕事をする時、このような事をよく悟って肝に銘じなければなりません。"行って見える実を取って来い"と言えば、それは誰でも簡単にできますよね。しかし、"見えない実を取って来い"と言われた時、信仰の目で結果を眺めることで、御言葉に頼って行って、実を取ってくることができる人、父なる神様はまさにこのような働き人を探します。この御言葉がいつも聞いて知っていた御言葉であっても、もう一度皆さんが心で悟る時間になってください。
神様のしるしを求めるアブラム
続く7節に「また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」」と言われると、8節にアブラムが「彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」」と答えます。この言葉も皆さんが誤解してはいけません。アブラムが神様の言葉を信じられず「それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」として、しるしを求めるのではありません。アブラムがこのようにしるしを求めた理由は、神の言葉を信じられなかったからではなく、神との間の約束をはっきりと結ぶためのものでした。
例えば、愛し合っている二人が互いに、愛のしるしを取り交わすことがありますね。この時、そのしるしそのものが愛なのではありませんが、このしるしを見ながら、お互いの愛を確認しながら、感じることができるからです。お互いを愛することは心から出るものですが、確認させてくれる証拠として、しるしを交わすことになるのです。これと同じように、アブラムもやはり心から父なる神様の言葉を信じましたが、これをしるしでもう一度確かにすることで、神との約束は誰も奪うことができず、決して消えることもできないという事実を、確実にしようとしたのです。神様の言葉を信じられず、試してみるのとは全く違うという事です。
ところが、今日ある人々は、神様の言葉を信じられず、試しながらも自らは気づかない場合があります。例えば「神様、これだけ答えてくだされば、私が今後これをします。」とか、あることを決めるにあたって「事がこのようになれば、神様の御意思だと思ってやります。」ということです。例えば、店を売るべきかどうか決定を下さなければならない人が、「神様、私が一週間祈るので、その中に買う人が出てきたら、売るのが神様の意思で、その中に買う人が出てこなければ、売らないのが神様の意思だと理解します。」もしこのように祈ると考えてみてください。もちろん、神様をたった今信じるようになった初信者や、真理をよく知らない場合には、このようなこともあります。また、ギデオンが、神様の意思を確証してもらうために、2回神様にしるしを求めたように、神様の意思を知るために、確実な証拠を求める場合もあるのです。
しかし、今申し上げようとするのは、神様を信じて求めるのではなく、自分の考えの中に答えを決めておいて、むしろ神様を試す場合があるということです。その一方で、自らは気付いていないのです。マルコの福音書11:24によれば「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」と明確におっしゃいましたが、この言葉のように、神様の答を信じて、信仰で一週間決心して祈りながら、神様の証拠を求めることと、自分の考えの中で神様を試すこととは、全く違うという事を知らなければなりません。



