朝の学び114 創世記15章
更新日:9月10日

創世記15:1-11
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
祝福の契約
アブラムの幻の中に現れた神様は、「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃいました。アブラムは神様の召命を受けて以来、今までひたすら信仰と従順で行ってきました。しばらく自分の考えを働かせたこともありましたが、すぐに立ち返って悔い改め、神様の前にさらに完全に従う姿になりました。神様は、まさにこのように従う人にいつも盾となり、驚くべき祝福で共にされるという事です。神様は、常に私たちに祝福を与え、守ることを願う方ですが、同時に公義の神様であるため、正確な公義の中で働かれるしかありません。ですから、ある祝福を与える時は、まず祝福される器を作らせます。アブラムは、このような祝福を受ける器を、十分に準備していったので、神様はもう一度、祝福の約束をしてくださったのです。
私たちが祝福を受ける器を作るのは、意外にとても簡単です。神様は難しくて複雑なことを求められ、それを通過できないようにする方ではなく、霊的な信仰があり、また真に従う心があれば、いくらでも行なうことができることを求められます。もちろん、信仰の分量によって次第に要求していく水準も高くなりますが、信仰の分量に合わせて高めていきます。例えば本教会の聖徒の中で、完全な主日の出席と、完全な十分の一の献金を捧げる方であれば、一年中決して災いや事故に遭いません。特にある重い肉の事を行うような罪を犯すことがなければ、事故に遭わないように守ってくださいます。もし自分のミスである事故が起きても、体は傷まないように守ってくださいます。神様の子供として最も基本である主日の出席と、十一献金だけでも神様は盾になって守って下さるのです。
しかし、信仰のある方なら、また信仰の三段階以上にある方なら、このような完全な主日の出席と、十分の一だけで、自分のやることを尽くしたとは言えないでしょう。信仰の一、二段階にいる方々は、御言葉通り生きようと努力すれば、神様は祝福も一緒にくださいますが、信仰の三段階以上なら、どれほど神様の御言葉の中に完全に生き、従順していくかによって祝福が変わります。もちろん、信仰の一、二段階でも、信仰と従順によって祝福が変わりますが、神様が望まれるのは、本当に心の中心から湧き出る愛と、それに伴う従順の行いです。ですから、皆さんが中心から神様を愛し、信じて従順していけば、神様は必ず皆さんの盾と大きな報いになってくださるという事です。アブラムは訓練の過程を経て、心の中心から神様を愛し、畏れ敬い、その言葉を信じて服従する器を作っていったので、このような祝福の言葉を受けることができたのです。
続く2-3節を見ると、「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」幻のうちに神様と交わっていたアブラムは、突然、神様に相続人に関する話を伝えます。アブラムは神様に、「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げたとありますが、アブラムがどれほど正確に神様の心を伝えられて、心につかさどられているのかがよく現れています。
これはどういう意味でしょうか?以前、神様はアブラムに、創世記13:16で「あなたの子孫を地のちりのようにならせる。」という約束の言葉をくださいました。それでは、アブラムがこの約束の言葉を忘れているか、心に完全に信じられなかったりして、今自分の家にいる僕であるダマスコのエリエゼルを、相続人と言っているのでしょうか?そうではありません。アブラムは一度神様がおっしゃった言葉を、決して疑ったり忘れたりしなかったのです。それでもアブラムが、神様にこのように尋ねているのは、何故、神様が今、自分に現れて、「わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」とおっしゃっているのか、心につかさどられたからです。アブラムは、神様が自分に現れたことが、自分の後とりについて約束してくださることだと知りました。今がその約束の時だと感じて、相続人について先に話をもちだしたのです。
例えをあげると、父が息子に新しい車を買ってあげると約束しました。そして歳月が経って、父の心に「さあ私が新しい車を買ってあげよう」と思うようになったのです。それで息子にその話を言い出そうとしたところ、このような父親の心を感じた息子の方から、先に、父が話し始める前に「私はこの車にずっと乗り続けても構いません。」と言います。息子は、新しい車を買ってあげるという父親の言葉を、信じなかったからではなく、むしろ息子がこう言ったことによって、息子は父親から「いや、その車に乗り続けるのではなく、もうすぐ私が新しい車を買ってやる。」という言葉を聞くことができるようになるという事です。息子は、父親が何を言おうとしているのか、正確に心に働きかけられていたので、父親から確かな約束の言葉を受け取ることができたのです。
アブラムも神様の言葉を信じられないからではなく、相続人についての言葉を先に言い出すことによって、父なる神様から後とりについて、確実な契約の言葉を受け取っているのが見られます。4-5節を見ると「主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」という、確かな契約の言葉を受けています。これは、アブラムが神様と心が通じ合い、神様の心を正確に心につかさどられたので可能な、二人だけの対話だったのです。このような契約の言葉を受けとったアブラムが、これから神様の前でどのように行ったのかについては、次の時間に続いて説明することにします。
結論
親と子の間でお互いに心が通じ合って感じることができれば、お互いに誤解することはありません。子供は親が望むことを自ら行い、親も子供が望むことを叶えてくれます。相手がなぜこのようなことを言うのかを感じるので、それに合った答えをしてあげることができます。まさにこのような関係が父なる神様と皆様の間にも成り立つことを願います。そのためには、ピリピ2:5に「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。」とおっしゃったように、皆さんの心の中に主の心を抱かなければなりません。御父の神と完全に一つである主の心を、皆さんの中に抱く時、御父の神の心とも一つを成すことができます。
アブラムは、このような訓練の過程を通して、自分を徹底的に捨て、ただ主の心、御父の心を抱いていったので、御父の心を明らかに悟り主管を受けることができ、御父の神との対話を通して、驚くべき祝福の言葉も受けることができました。皆さんが、迅速に霊の心を築き、霊の空間に住むことで、御父の神の心もつかさどられることができ、聖霊様とももっと明らかに交わりができるようになることを願います。それで、神様が自ら皆様の盾であり、報いになってくださり、常に凡ての事に通じる道にだけ導かれていくことを神様の名前で祈ります



