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朝の学び113 創世記15章

9月7日
読了時間: 12分

更新日:9月10日

 


創世記15:1-11


これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。また彼に仰せられた。「わたしは、この地をあなたの所有としてあなたに与えるために、カルデヤ人のウルからあなたを連れ出した主である。」彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」彼はそれら全部を持って来て、それらを真二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。




序論

私たちがイエス様を救い主として迎え、神様の子供になれば、私たちの中には聖霊様が内住されるようになります。このような聖霊様の働きによって、様々な霊的な賜物を受けたり、体験をすることになりますが、聖霊の御声を聞いたり、異言の賜物を体験したり、幻を見る場合もあります。このような霊的な賜物と体験は、すべての人に一律に現れるのではなく、人によって少しずつの違いがあり得ますが、明らかなのは、霊に入るとますます多くの霊的な体験をすることになるという事です。霊の空間の中に入ってきたので、霊の空間の中で現れる現象を体験していくことができるのです。

このような霊的な体験の中で容易ではないのが、神様の声を直接聞きながら対話をすることです。聖書によれば神様の御声を直接聞く場合が出てきますが、それが普通に起きたことではなく、誰でも体験できるものでもなかったのです。それだけ神様の前にふさわしい人々が、神様の声を直接聞くことができ、その中でもごく少数だけが神様の形を見ました。     


今日、神様を信じる人々の中に、「神様の御声を直接聞いて対話した」と話す人々がよく出てきますが、その中には自ら神様の御声を聞いた人もいるでしょうが、神様や聖霊の御声または天使の声を父なる神様の御声と誤って考える場合も多くあります。また、サタンの働きを受ける場合もあるので、聖霊の働きの中で霊的な体験をしていくことは重要ですが、必ず霊的に先んじていて、先にその道を体験していった人が、正しい道を行けるように導いてあげることが必要です。


幻と幻想の違い

本文を見れば、アブラムは幻の中で神様と交りをすることが出てきますが、皆さんの中で、どれが幻でどれが幻想なのか、区分できる方は多くないでしょう。もちろん、今日、ほとんどの人が体験するのは、幻想の方に近いことが多いですが、ある場合はアブラムのように幻を見ても、幻想だと分かる場合もあります。では、幻想と幻の違いは何でしょうか?まず、2つの現象は、いずれも神様が肉の空間の中で霊の空間の門を開いてくださると、一瞬霊の空間に入りながら現れる現象という共通点を持っています。また、霊の目と霊の耳を開いて、見て聞くようになさる体験的な現象は、両方とも似ています。しかし、幻想と幻は、霊の空間をどれほど広く、あるいは狭く、活用して広げてくれるかという違いを持っています。     


幻は幻想に比べて、相対的に霊の空間を狭く活用して表してくださるので、幻を通して働かれる時は、多くのことを見せたり感じさせたりするよりは、声を通した対話形式で働かれます。肉の空間の中に霊の空間が広がり、光で囲まれ、その中で声が聞こえるのです。本文にアブラムが体験したのも、肉の空間の中に霊の空間の扉が開き、アブラムが瞬間、霊の空間に入るようになり、アブラムが光で囲まれた状態で、光の真ん中から聞こえてくる声を聞いたのです。その声は確かに神様の声でしたが、この時神様が自ら臨在され、アブラムが神様の形象を見たわけではなく、神様は光の中に留まっている声として、アブラムに働かれた場合です。

そして、この時、光で囲まれている姿や光の中から聞こえてくる声は、周りの他の人が見たり聞いたりできるものではなく、ただ自分だけが見たり聞いたりすることができます。それで、誰かが幻を見ている時、周りの他の人が見る時は、まるで祈っているように見えますが、感じは受けるようになります。使徒パウロも主をダマスコで迎え、声を聞く時も周辺の人々がこのように感じたことを見ることができます。    


反面、幻想は幻に比べて、活用される霊の空間がより広いと言えます。肉の空間の中に霊の空間の扉を開くことは、幻として働かれる場合と同じですが、幻想の場合は、あるものを自ら見て触ったように、自らそこに行って経験したように、働いてくださいます。霊の空間を開いて、様々な形や角度から見ることができるようにするのです。黙示録を書いた使徒ヨハネの場合は、霊の目が開かれ幻想を見て、多く記録するようになります。それで幻想は、まるで映画のフィルムを見るように見えたり、自分が直接その中に入っているように見えたりします。ところが、同じ幻想でも、ある人はただ場面だけを見る場合があり、ある人は場面と共にそれに対する解釈までも、霊感で受ける人がいます。また、同じ場面の幻想でも次元が違うのです。

  

例えば、子供にある映画を見せてあげれば、子供は内容がよく分からないが、どんな場面を見たのかは説明できます。反面ある人が見たなら、場面だけを見るのではなく、内容までも把握することができるので、ある場面がどんな内容だったのかも説明できます。このように同じ幻想を見ても、霊的な水準によって差があるということです。まだ信仰が幼い子供の段階であるにもかかわらず、聖霊が充満している時は、恵みの中で霊の眼が開かれ、幻想を見る方々もいますが、ややもすると考えが働いて、神様が見せてくださったことを、誤って解釈することがあるということを知らなければなりません。     


したがって、幻想を見てもそれが完全になるためには、心を割礼して肉の考えが全くなく、ただ明らかな聖霊の声と主管によって、霊感を通して解釈を共に受ける次元に至らなければなりません。そして、幻想は広げてくれる霊の空間の幅が広いので、どの方向や角度から見せてくれるかによって、同じ場面を見ても見る人によって内容が少しずつ違うことがあります。霊の目が開かれ、同じ場面を見た人たちが、全体的な脈絡は正確に一致しながらも、細部的な面においては若干の差が出るのが、まさにこのような理由からです。一人が見たものを他の人は見なかった場合があり、他の人が見たものをまた他の人は見なかった場合があります。     


例えば、小さな画面であるものを見る時は、その内容が一目で入ってきますが、とても大きな画面であるものを見る時は、視線をどこに置くかによって同じ内容でも、人によって見た内容が少しずつ差が出ることがあるようにです。そしてこの時も、霊的な水準によって、見る内容に差が出ることがあります。霊的な水準が低い次元で見る人は、部分的なものだけを見ることができますが、霊的な水準が高い次元で見る人は、全体的なものも見ることができる能力があるからです。


このように幻と幻想が、霊的に見れば似ている面もありますが、霊の空間を活用する面において、違いがあるという事が分かりました。ところが、幻が霊の空間を狭く活用するからといって、幻を見るより幻想を見る方が、より霊的に次元が深いと言えるわけではありません。神様が幻として働かれるか、あるいは幻想として働かれるかは、それぞれその時の状況と、与えようとする内容によって違います。本文でも分かるように、神様が幻を通して働かれる場合には、もう少し個人的に親密に近づいてくるのを感じることができます。

私も主のしもべに呼ばれた後、神様の意思をもう一度確認しようとした時、神様が直接声で話してくださったことがあります。空の門が明るく開き、明るい光の中で神様の声が聞こえてきましたが、私がその時に体験した現象は幻だと言えます。その時も私が体験したことを私のそばにいた祈祷院長は、見て聞くことができませんでした。もちろん霊的な雰囲気は祈祷院長も感じましたが、その体験は私と父なる神様との間にあった個人的な親密な体験だったのです。    


このように、幻は幻想よりも個人的で親密な体験であるだけでなく、より深い霊の次元を体験する通路にもなります。それは、幻にはほとんど対話的な交りが伴いますから、幻想がある場面を見せてくれて、霊感で説明してくれるとすれば、幻はある場面を見せてくれて、霊の耳を開いて声で一緒に説明してくれる場合です。それで聖書を見ると、将来に起こることや深い霊的な秘密を教えてくださる時は、幻を通して働かれる場合が多かったです。   


ただし、ダニエル7:1-2を見ると、「バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、」と言ったのです。これは将来最後の時になることについてダニエルが幻の中に啓示を受ける場面です。ところが、続く内容だけを見ると、まるでダニエルが幻想を見ているように見えるかもしれませんが、このような体験を幻だとおっしゃるのは、アブラハムのように幻で見られる対話形式の交わりが行われているからです。ダニエル7:15-16によれば、「私、ダニエルの心は、私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は、私を脅かした。私は、かたわらに立つ者のひとりに近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は、私に答え、そのことの解き明かしを知らせてくれた。」と言いました。

これは神様がダニエルに今後のことについての内容を見せてくださる次元ではなく、天使を通して解釈まで教えてくださっているのです。この時、神様から送られた天使がまさに天使長ガブリエルでした。ダニエル9:21によれば「すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、」として、先に神様が前のことについて啓示してくださる時、幻の中で見たのがガブリエルだったことを語っています。   

このように、幻の中に啓示を受けて記録したダニエル書と共に、やはり未来に対する予言書であるエゼキエル書を見ても、エゼキエル1:1に「第三十年の第四の月の五日、私がケバル川のほとりで、捕囚の民とともにいたとき、天が開け、私は神々しい幻を見た。」として、エゼキエル書の内容もやはり幻を通して受け取ったことが分かるようにしてくれます。霊の眼を開いて霊の深い秘密と未来について明らかにしてくださっただけでなく、エゼキエル1:28後半節に「私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」として、以後に続く内容はエゼキエルが声を通して啓示されることを話しています。     


このように幻には幻想とは区別される要素があり、その内容が幻想を通して体験できるものだとしても、その中に幻だけで体験できる要素があるとすれば、神様の側ではそれを幻と表現されるのです。したがって、幻と幻想が持つ共通点と相違点については分別をするものの、神様が最も適した方法を通して働いてくださるという事を悟らなければなりません。    

本教会は開拓以来、これまで幻想と幻、啓示と代言、予言など、様々な霊的な賜物と体験を通して私と聖徒たちにいつも働いてくださいました。私に直接働いてくださったのは今まで一度も間違ったことがありませんが、私たちの聖徒たちに働かれる場合を見れば、まだ霊的に完全ではないだけに、時には自分の考えや感じが入る場合もありました。そのため、常に相互点検して補完できるように、神様は同じ内容について多くの人に同時に働いて、私の方でその方々を分別できるように働いてきました。いくら明らかに働かれるという人だとしても、心に割礼がされていなければ、それは完全なものではありません。

それで、私の方では聖徒たちが霊として分別できるように、いつも講壇から御言葉を通して悟るように導いてきましたが、それに気づかない場合もあって、色々な副作用を起こしたりもしました。このようなことが怖くて、霊の世界を休止させることができるわけではないので、私は聖徒たちが霊の世界を体験して進むことができるように、霊の世界の扉を開けておきました。その結果、今は数多くの検証過程を通して認められる方々が明らかになり、あちこちで使われるようになりました。ここで必ず肝に銘じなければならないことは、何よりも心の割礼が一緒に伴わなければならないという点です。そんな時、傲慢やこの世の誇りもないし、肉の考えや感じが入ることもないし、神様がくださった賜物がただ神様の栄光と神の国のためだけに美しく使われることができるのです。そうしてこそ、主が来られるまで使われ続け、大きな賞になるという事です。     


また、神様が貴重な賜物を与えた時は、自ら「神様が私にこのような賜物を下さった。」と言ってできるのではなく、神様は霊的な秩序の中で、必ず牧者にも共に働いて下さるという事です。皆さんの中でいくら霊的な体験が多くて深いとしても、それが牧者を通して連結される時だけが、霊的な秩序に従うことであり、秩序の中で働かれる神様の意思になることです。本教会は霊の世界が無限に開かれている祭壇であるだけに、皆さんがこのような事をよく肝に銘じ、霊的な秩序の混乱がないように、常に秩序に従って出てくることをお願いします。

イエス・キリスト日本連合聖潔会
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