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朝の学び112 創世記14章

9月7日
読了時間: 10分

更新日:9月10日


創世記14:17-24 


こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」




アブラムと聖霊様との出会い


今までの説明を聞いて、聖霊様について少しお気づきになりましたでしょうか?今日の本文にメルキゼデクとアブラムとの出会いは、まさにこのような聖霊様が父なる神様の特別な指示を受け、この地に自ら降りてきて、将来、信仰の父になるアブラムに会ってくださる場面です。ところが、私たちは後日アブラハムが体験することになるもう一つの不思議な出来事を通して、今日の本文に出てくるメルキゼデクの存在についてもっとはっきりと悟ることができます。それは創世記18章に出てくるアブラハムと聖霊様との出会いです。

創世紀18:1-4「主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。」とあります。この御言葉の中では、三人とありますが、続く内容を読むとここで三人と言ったのは、人の形をした神様と、やはり人の形をした二人の御使いであることが分かります。 

22節「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」とあります。神様はアブラハムが住んでいるところに残り、彼と対話をする場面が出てきて、他のふたりすなわちふたりの御使いは、神様の指示に従って、ソドムの町を探りに行ったのです。それで続く創世記19:1には「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」と言って、人の形をし三人のうちふたりの御使いだけがソドムの町に現れているのです。 

このように、創世紀18章の内容まであらかじめ先に説明する理由は、創世紀18章に現れた神様と、今日の本文に出てくるメルキゼデクと密接な関連があるためです。先に読んだ創世記18:1-4によれば、アブラハムは三人の人物、すなわち人の形をした神と人の形をしたふたりの御使いを見るやいなや、自分を極めて低くし、あまりにも丁寧に迎えます。もちろん、いくら人の形をしていたとしても、三人の形が普通の人とは異なり、その形から発する霊的な光や気運によって、神様と交りをしていたアブラハムは、その方々が平凡な人ではないという事実をすぐさま悟って、丁寧に迎えることができたのです。このように真心で迎えることができた理由は、まさにその中の一人、すなわち人の形をされた神様を見分けることができたからです。

 

では、果たしてどこでお会いしたのでしょうか?アブラムは、すでに創世記14章に記録されたように、メルキゼデクとして現れた聖霊様にお会いしたのです。また、創世記18章で自らこの地に降りてきて、アブラハムと対面して言葉を交わされた方も聖霊様、すなわち聖霊の神様でした。私たちは主なる神様を見れば死ぬと言われますが、神様の息子として来られたイエス様、聖霊様を見ても死ぬわけではありません。それで、私たちが対面して見ることができる神様の息子たちを送って働かれたのです。ある時はイエス様を、ある時は聖霊様を送って働かれることで、その前に立つことができ、対話することができたのです。

モーセのような場合も後ろ姿を見て衣の裾を見ることはできましたが、自ら神様の顔を対面して見ることはできませんでした。アブラムはすでに人の形をした聖霊様にお会いしたことがあり、聖霊の神様が再びこの地に来られた時、その方を一瞬で見抜き、このようにその前に体を地面に曲げて、極めて手厚く出迎えたという事です。ところが、アブラムが同じ聖霊の神様にお会いしたとしても、今日の本文でメルキゼデクという姿で会ったことと、創世記18章で会ったこととは状況が違いました。

今日の本文の状況は、アブラムが敵との戦争のために共にした人々と帰る途中に起きたことです。つまり、シャレムの王メルキゼデクがアブラムの前に現れた時、アブラムの周辺には多くの人々が一緒にいたのです。しかし、この時、アブラムと甥のロト以外には、シャレムの王メルキゼデク、つまり聖霊様を見た人がいませんでした。これはイエスを信じる人々を迫害していたサウルが、ダマスコへの途上で神様に会った場面を考えると、簡単に理解することができます。ダマスコに近づいていたサウルは、忽然と空から光が照らされ、その中から聞こえる声を聞きます。そして、神様と対話をしているのに、サウルがこのような霊的な体験をしている間、一緒にいた他の人々は、今どんな状況が起きているのかわかりませんでした。

使徒の働き9:7「同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。」とあります。今日の本文の状況もこのようで、神様の助けで大きく勝利をおさめて帰ってきたアブラムは、神様に感謝して祭壇を作って、感謝の生贄、祭祀を捧げていましたが、極めて高い神様の祭司であるメルキゼデクが現れたのです。周辺にいた人々の目にはただ神様の前に生贄、祭祀を捧げているアブラムの姿だけが見えましたが、アブラムは聖霊様と深い霊的な交わりを分かち合っていたという事です。もちろんこの時、アブラムが聖霊様だけに会ったわけではありません。三位一体の神様の一人である聖霊様がいらっしゃったので、彼を護衛しながら召使になる天軍と天使は、またどれほど多く降りてきたのでしょうか。霊の目が開かれ、その場面を見ているアブラムにとっては、彼の一生忘れられないあまりにも恍惚として胸いっぱいの感動の瞬間でした。自分に直接現れた神様に会い、信仰の父として神様の前に完全に立つことができる、祝福の契機をもう一度迎えたのです。神様もアブラハムを信仰の父として立てる前に、このように出会いのみわざを通して、信仰と確信を植えつけ、信仰の父になれるように導いたことを見ることができます。


義の王、平和の王メルキゼデク


「メルキゼデク」という単語の、肉的な意味は「私の王はゼデク」ですが、霊的な意味は「分かれた者のひとり」です。まさに初めに一人でおられた御父の神が、人間耕作の大きな摂理と計画の中で分離して下さった、御子の神と御霊の神様のうちのお一人であられるのです。旧約時代は御父の神ご自身が、親しくつかさどって導いていかれた時代ですが、だからといって、旧約時代の間、主や御霊の神が何もしないでおられたのではありません。特に、御霊の神は、御父の神の御旨を受けて、[主]の霊として活発にその働きを助けておられました。その中の一つとして、今日本文のメルキゼデクの姿で現れ、アブラムと交わり彼を祝福してくださったのです。     


ヘブル7:2にはメルキゼデクについて、「またアブラハムは彼に、すべての戦利品の十分の一を分けました。まず彼は、その名を訳すと義の王であり、次に、サレムの王、すなわち平和の王です。」と書いてあります。その名の意味を義の王と平和の王と訳しています。それなら、御霊の神が義の王、平和の王と呼ばれる理由は何でしょうか?     


私たちがイエス様を救い主として受け入れて、真理の御霊である聖霊を賜物として受ければ、この時から心の中におられる聖霊は、罪と義とさばきについて一つ一つ悟るように導いていかれます。真理と真理でないもの、義と不義、罪と悪が何かを見分けて、義と善の中に入って来るようになさるのです。また、神の深みにまで及ばれる御霊は神の御目に正しいことが何か教えてくださいます。コリント第一2:10「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。」とあります。それで、完全な義を行うようになさるのが聖霊の働きであり、これが義の王と呼ばれる理由です。

 

それだけでなく、私たちが聖霊を賜物として受けると、明白に現れる変化が心の平和を感じることです。罪人として死んで永遠に地獄に行くしかなかった人が悔い改めて、罪の赦しを受け神の子どもとされて天国に行けるようになったしるしが、まさに聖霊を賜物として受けることです。聖霊を受ければ天国に行ける神の子どもと認められたので、自然に心に平和を感じるようになるのです。聖霊を受けた神の子供たちが、御霊に導かれ従って生きていく時に、世が与えられない平和を味わえるので、御霊の神を平和の王と呼ぶのです。     


アブラムは、このようなメルキゼデクに自分が得た物の十分の一を捧げることで、メルキゼデクを認めると同時に、自分に属するすべてのものが、ただ創造主の神から出てきたという事を認めるのです。さらに、神の御前にささげる十分の一献金がまだ律法として決まったことでもないし、誰かから学んだことでもないのに、アブラムは心に働きかけられて、神の御前に十分の一を捧げました。神はアブラムにより大きい祝福、すなわち、信仰の父として完全に立てられる祝福を与えようと、彼の心をつかさどって下さったのです。次回からは、神様がアブラムに与えた契約の種についての約束と、彼の子孫に渡すとおっしゃったカナンの土地に対する具体的な約束について見ていきましょう。

 


結論


アブラムがメルキゼデクに出会う驚くべき祝福を受けることができたのは、彼が父なる神様の前に積み上げてきた信仰の義が認められ、さらに一段階昇華される(ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること)時点を迎えたためです。ロ-マ4:2-3「もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」とあります。」とあります。このように、アブラムが、神様の前に義と見なされることができたのは、単に表に現れる行為としてではなく、彼の心の中心から出てくる信仰の行いによるものでした。律法による行為だけで救われた旧約時代に、アブラムはすでに神様が本当に望む、心に信じられる信仰を所有していたのです。 

言い換えれば、アブラムが神様の前に行った行為は、単に肉的な行為の次元で終わったことではなく、心の中心から神様を信じることによって、それを行いでも表したのです。そのため、アブラハムは旧約時代に限っての信仰の父ではありません。聖霊時代にも依然として信仰の父として、すべての信じる者にとって信仰の表象になりうるのです。もちろん、アブラムがメルキゼデクに会った時点で、アブラムの信仰の義が完全だったわけではありません。しかし、神様はアブラムの信仰の義を認め、さらに一段階昇華された義の次元に達するように、愛する子の中の一人を送ってアブラムを祝福されたという事です。

  

そして、アブラムは、このような祝福のきっかけを通して、より迅速に信仰の父として準備されていくことで、神の前に認められて出ることができました。アブラムのように皆さんの信仰が成長していき、霊に入っていくことにも段階があります。それで皆さんが一段階を突き抜ければ、次の段階に向かっていけるように神様は力と恵みを与えられます。アブラムにメルキゼデクを送ることで、彼の義が御父の神の前に告げられたことを認めてくださったように、ある祝福や恵みの体験を通して、霊で一段階入り込んでいることを感じさせてくれるということです。例えば、祈りを一段階踏み込む時も、ある瞬間、以前と変わった自分の祈りを自らが感じながら、「私がもう一段階祈りの能力を受けたのだな」と悟ることができるようになるということです。

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