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朝の学び111 創世記14章

9月7日
読了時間: 9分

更新日:9月10日


創世記14:17-24


こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破って帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。ソドムの王はアブラムに言った。「人々は私に返し、財産はあなたが取ってください。」しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。ただ若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ。アネルとエシュコルとマムレには、彼らの分け前を取らせるように。」




序論

聖書において、イスラエル民族の中に、公式に祭司という職分が登場するようになるのは、出エジプト記の事件以後です。出エジプト記28:1によれば、神様がモーセに告げたのは「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」と話しています。レビ族として生まれたアロンとその息子たちであるナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルが、祭司として立てられた最初の人々だったのです。しかし、このように聖所が建てられる前だからといって、聖所の職務を担う人がいなかったわけではありません。神様の前に生贄を捧げる祭祀は、アダムが罪を犯してこの地に追い出されて以来、ずっと行われてきました。

 創世記4章を見ると、アダムの息子たちが供え物を取って神様の前に生贄を捧げる場面が出てきます。彼らは両親のアダムとエバからすでに神様の前に生贄を捧げることについて学び、生贄に込められた意味についても知っていました。その後もノアとアブラム、そしてアブラハムの子孫であるイサクやヤコブも、やはり神様の前に生贄を捧げる場面が、聖書のあちこちに記録されています。そのため、祭司の職分が正式に生まれる前にも、神様の前に生贄を捧げる祭祀は続けられ、ノアやアブラムのように祭司長と呼ばれることはなくても、祭司長の職分を果たす人々がいたのです。     


前回から説明するメルキゼデクには、正式に祭司長の職分が生まれる以前に、「極めて高い神の祭司」という表現が使われたという事です。もちろん当時、他の異邦民族の中には、彼らが仕える異邦の神のための宮がありましたが、神様の前に生贄を捧げるための宮の職分は、モーセの兄アロンが初めてだったにもかかわらず、メルキゼデクは祭司長という職分として記録されています。     


そしてメルキゼデクについて記録したヘブル書の著者は、へブル人への手紙7:3「父もなく、母もなく、系図もなく、その生涯の初めもなく、いのちの終わりもなく、神の子に似た者とされ、いつまでも祭司としてとどまっているのです。」とし、へブル人への手紙6:20には「イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠にメルキゼデクの位に等しい大祭司となられました。」とし、イエスをメルキゼデクの位に等しい神の大祭司と表現しています。つまり、イエス様とメルキゼデクを同等のレベルに置いて、イエス様について説明していますが、このような条件にふさわしい方は果たして誰でしょうか?ただ一人、三位一体の神様の中の一人である聖霊様という事が分かりますが、この時間に聖霊様について明らかに悟ってください。


メルキゼデクとして来られた御霊の神

ガラテヤ4:6によれば「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」として、聖霊を「その息子の霊」すなわち「御子の御霊」と言っています。「その息子の霊」というから「ひょっとして主の霊ではないですか?」と尋ねる方がいらっしゃるかもしれませんが、私たちの心の中に送られた霊は、皆さんもよくご存知のようにまさに聖霊様です。コリント第一3:16に「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」とおっしゃったように、神の御霊はまさに私たちの心の中に住んでいるのです。父なる神様は救われた神様の子供たちに聖霊を贈り物として下さいますが、聖霊を受けた人は神様を父と呼ぶことができるのです。ここで私たちは、聖霊様を「御子の御霊」と表現したことに注目しなければなりません。よく人々はイエス·キリストだけを神の子だと思っています。しかし、聖書には必ずしも主だけが神の子だと表現しているわけではありません。 

へブル人への手紙1:6には「さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」」として主を長男(firstborn)と表現しています。また、ヨブ記38:7には「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。」とあり、神様が天地万物を創造される時に、神の子たちはみな喜んで声をあげたと言いました。神様の子たちと複数として出てくるということです。しかしもしかして、神の子たちを御使いと思ってはいけません。へブル人への手紙1:5「神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」」とあります。神がかつて、御使いの中の誰かに、「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」また「わたしは彼の父となり、彼は私わたしの子になる。」と言われたでしょうかとして、神が御使いを子と呼ばないことをはっきりと言っています。

したがって、天地万物を創造される時、神が神の子たちと表現したのは、私たちの主の他にもう一人の子がいることを明確に言っているのです。そして御使いではないこともはっきり言っているのです。それでは天軍ですか?もちろん天軍はさらに違いますね。したがって、ヨブ記に記録された神の子たちは、長男の神様ともう一人の方である聖霊様を指すのです。聖霊様も主と同じように神様の息子の地位を持っていらっしゃるのです。 

 

 

ひとり子 


イエス様と神様の子である聖霊様、それなら聖書にはなぜイエス様に対して「ひとリ子」または「ひとり」という表現を使ったのでしょうか?まるで息子が一人であるかのようにです。しかし、皆さんが聖書において、イエス様に対してこのように「ひとり」という表現を使った御言葉を調べれば、まさにイエス様がこの地に救い主の資格で来られたことについて話す時に、使われたことが分かります。すなわち人間耕作の摂理の中で、私たちの罪の身代わりとなって下さるために、人の体を着て救い主としてこの地に生まれたイエス様を修飾する表現として、「ひとり子」という単語が使われたということです。例えば、ヨハネ3:16の御言葉一つだけ見てみると、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と言いました。この御言葉は使徒の働き4:12「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」という御言葉と対になって、私たちが信じて救われることができる唯一の名前は、ただ「イエス様」一人だけであることを言っています。 

したがって、このヨハネ3:16の御言葉では、この地に救い主の資格として来られた神様の息子が、ただ一人だけだという意味で、ひとり子という表現を使っているという事です。もし聖書に救い主として来られたイエス様に対して、このようにひとり子という表現を使わなかったとすれば、イエス様以後にも多くの人が現れ、「私が救い主だ」と話すこともできたでしょうが、聖書はすでに救い主はただ一人イエス様だけであることを明確に記録しています。だからイエス様以外には誰も、自らを救い主と言えないことであり、信じる人々は決してそのような迷いに陥らないことができるのです。したがって、私たちはイエス様をひとり子と表現したことが、天でも息子がただイエス様一人だけいるという意味ではないことを知らなければなりません。    


聖霊様もまた、主と同じように父の神様から分離して出てきた方で、主のように父の神様の息子の位置にいらっしゃる方だという事です。それで聖書は聖霊様に対して表現する時、「神の聖霊」という表現を使います。聖霊様はまさに父なる神様から来た方であることを明確にしているのです。このように聖霊様は主と同じように父なる神の子であり、独立した個体として実体を持っていらっしゃいますが、今日、信じている人たちが大部分この事実を知らずにいます。神様はある形の実体があると思いながらも、聖霊様は実体があると考えられないのです。しかし、聖霊様もやはり一つの個体として、聖霊の本体を持っていらっしゃるという事です。ただ、その姿がいくらでも変形することがあります。  


今後、皆さんが父なる神様の根本の次元である四次元について学ぶことになれば、三位一体の神様は、心に抱く通りにその姿が変わることができるという事を、知ることになるでしょうが、聖霊様は働きの特性上、人々の中で色々な姿で働かれます。主はほとんどの場合、人の子の姿で見られるので、霊の眼が開かれた人々が主にお会いする時には、人と同じ形で見ることになります。反面、聖霊様は、本体の形状だけを着て現れるのではなく、時には鳩の形で、時には火や風の形でも働かれます。

本文のメルキデゼクのように、聖霊様が人の形で働かれた場合もありますが、聖霊様の働きはあまりにも多様で幅広いため、大部分が霊の分離を通して別れた色々な姿で働かれるのです。 このように聖霊様が分離して働かれる時は、それぞれの働きに合わせて形を変えたり、時には特定の形がなく働かれたりします。そのため、聖霊様が多くの働きをされたにもかかわらず、人の形、すなわち私たちのような人の形で感じる人はほとんどいません。たとえ聖霊様が人の形で現れても、当然神様や預言者として考えてしまうのです。だから今まで聖霊様の存在に対して多くの部分が隠されているしかなかったのです。

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