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朝の学び105 創世記13章

9月6日
読了時間: 9分

更新日:9月10日


創世記13:10-18

ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来て住んだ。そして、そこに主のための祭壇を築いた。




はじめに


創世記講解を通して、信仰の父アブラハムは、果たしてどんな心を持っていたので、神に愛され、保証された偉大な人物として出てきたのかを見ています。過去の時間には、アブラムとロトの姿を通して大きな器と小さな器の違いについて調べてみましたが、アブラムは穏やかさと一緒に寛容と柔和の心によってすべてを抱くことができる大きな器だったと伝えました。私の所有、私の立場だけを考えるのではなく、私の周りのすべての人と私によって、周囲に及ぼされる影響までも考える広くて大きな器を持つアブラムだったので、彼は自分の既得権をあきらめてまで甥ロトに先に良いものを選ぶ機会を与えます。

甥のロトに「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。」という感動的な善の告白が出たのです。皆さんもこのような状況で、アブラムのような告白が心の中心から出ることができるでしょうか?マタイ5:39-41に、「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」とおっしゃったように、皆さんも心の中心で喜び、このように行なうでしょうか?     


皆さんの人生の中で「私は果たしてどんな姿なのか?」振り返ってみると、この質問に対する答えが出てきます。皆さんがとても欲しいものがあるのに、皆さんは我慢してそれを手放そうとした時に他の人が来てそれを手にしたとしましょう。この時、皆さんの気持ちはどうですか?私がいくらでも先に取れるものを他の人が取ったとしても、まったく寂しがったり、感情を抱かずに一緒に喜んで与えたりすることはできますか?また、こうすれば私が損をすることは明らかなのですが、相手は私にそれを要求します。相手が自分のほうに有利な方に引っ張ろうとするのです。この時、皆さんは明らかに損をすることだと知りながら、相手の利益を先に与えてあげられますか?二つのうち一つを先に選ぶ機会が来たとき、皆さんは躊躇せずに良いものを先に選びますか。それとも他の人の立場までも考えてみますか?皆さんの人生の中で、このような状況と選択の瞬間は頻繁に訪れるでしょう。それなら、この時皆さんは「私はアブラムのようにすることができます。」と大胆に告白することができますか?

心では成し遂げず、頭に知識だけで知っているからといって、真理として行えるわけではありません。実際に自分の利益がかかった現実に接すると、心の中にあるものが出てくるので、本当に心が霊になったときだけが、心の中心から湧き出る心で真理を行うことができるのです。たとえ心からではないが行いだけでするとしても、心の中心を見てくださる神様が、それを受けることもないのです。ですから、「こうしなければならないのだなぁ」と頭で知ることで自分を評価するのではなく、皆さんの人生の中で実際にどんな選択をしているのか、自分の姿を謙虚に点検してみてください。それで、足りない部分を発見し変化することで、皆がアブラハムのような大きな器に出てこられますように主の御名で祈ります。


肉に従いアブラムのところを去ったロトの結末  


私たちが本文を通してもう一つ悟らなければならない点は、何を選択しても肉でしてはいけないということです。ロトは自分に先に選択権が与えられると、肉に従っていったのを見ることができます。この時ロトがもし神様の前に祈って導きを受けたとすれば、たとえその心に神様がご覧になるのにふさわしくない部分に対しては、訓練を受けるだろうが、災いだけは避けることができたでしょう。しかし、ロトは自分の欲通りに肉に従っていったので、神様から守られることができませんでした。箴言5:3-7を見ると、自分の見た目に良いとおりに肉に従っていった人の結果について出ています。「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。その足は死に下り、その歩みはよみに通じている。その女はいのちの道に心を配らず、その道筋は確かでないが、彼女はそれを知らない。子どもらよ。今、私に聞け。私の言うことばから離れるな。」

まさにロトもすぐに自分の見た目に良い方を選んだのが、まるで蜜のように甘く、油よりもなめらかな、みだらな他国の女の唇を追いかけたこととなり、後で途方もない災いにまでつながってしまったのです。したがって、私たちはある選択をするときに、常に霊として考えなければならないことであり、祈って聖霊の導きを受けなければなりません。教会の中で何かを成し遂げる時もそうですし、世で事業や仕事を成し遂げる時も同様です。そうでなくて肉を選んで決めていった時は、訓練が従うようになり、苦痛を受けることになるという事です。

ところが、本文10節で非常に興味深い事を見つけることができます。「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。」ロトが選択しようとしたヨルダンの方を、主の園のように、またエジプトの地のようだったと言いました。では、ロトが選んだ豊かで見栄の良い土地を、なぜエジプトの土地と比較したのでしょうか?


今日のエジプトを考えると、たいしたことはないように見える土地ですが、アブラハムの当時、エジプトの土地がどれほど豊かな土地だったのかがわかります。前に創世記の講解で申し上げたように、アダムが罪を犯す以前にエデンの園に住んでいた時も、アダムは私たちが住んでいるこの土地を頻繁に訪れていましたが、その時一番好んで訪れていたところがエジプトの地だったと言いました。エジプトの地は、エデンの園に住んでいたアダムが見るときにも、異国的な趣とともに美しい環境によって彼の心を引くほど魅力的な土地でした。     


それでロトが選ぼうとしていた土地が、当時としては水が豊かで、肥えていて肥沃な土地だったので、今そこをエジプトの地にたとえているのです。これは、エジプトの地が今日のように砂漠化する前にはどれほど美しい場所であり、さらに遠い昔はどれほど水が豊かで肥えた土地であったかをよく教えてくれています。エジプトの地はアダムから最も愛されるほど美しく豊かな土地だったという神様のみことばが、今日の本文のみ言葉を通してもう一度確証されています。このように豊かで見事なヨルダンを選んでアブラムを離れたロトは、ついにソドムの地までたどりつきます。肉の考えを働かせて自分の見た目に良いものを選んでいったロトは、将来やってくる災いに気づかないまま、ますます深い苦しみのどん底に落ちてしまいました。   


本文13節を見ると、「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。」と言うほど、ソドムの土地は罪で染まった所であったにもかかわらず、神様の導きを受けられないロトは、そのような所に向かってさらに深く入っていたのです。創世記18章19章を見ると、ソドムが神の前にどれほど悪を行っていたかがよく出ていますが、ユダの手紙1:7には「また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。」と話しています。当時、ソドムは霊的な姦淫と偶像崇拝に浸っており、その影響により、享楽的で退廃的な雰囲気の中で神様の目に大きな悪を行っていました。バベルの塔の事件以後、民族と言語が分かれてバラバラになった人々はそれなりに集団を形成して生活していくようになりました。その中には、神様の選びの中で系図を継承しながら、神様を畏敬する正統性を維持するところもありましたが、逆に神様の存在さえ忘れて情欲を追い、偶像崇拝と享楽に陥って暮らすところもありました。代表的なところがまさにソドムだったのです。そしてロトは肉を追っているうちに、このようなソドムにまで至ったのです。

一方、アブラムはどうでしたか?甥のロトに対して最後まで善を行ったアブラムは、ロトが彼を去った後、むしろより大きな祝福の中に出ていくのを見ることができます。ロトがアブラムを離れると、ロトはますます困難の中に陥りましたが、アブラムはますます大きな祝福を受けていきました。 これは逆に考えてみると、アブラムはこれまでロトと一緒にいることによって、より大きな祝福を受けることもできずにいたということになります。これはどういう意味でしょうか?例えば、ある家庭の中に神様の目には愛らしい人がいるにもかかわらず、その家庭全体で見れば祝福を受ける器にならないので、より大きな祝福を受けられない場合があります。もちろん愛される人に対しては個人的に祝福をくださるが、家庭全体に祝福を与えることは出来ないということです。このような場合、むしろ個人が独立をすることになれば、その後に神様が個人的にもっと思う存分、祝福を与えることができるのです。 


これは他のすべての分野でも同様です。神様の前に合わない人とあることを共にする場合、それによって私が受ける祝福も阻まれる場合があるのです。ですから、コリント第二6:14「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。」と言われるのです。アブラムの場合は、一緒にいるロトが神様を知っているとは言え、ロトには神様の前に合わなかった分野があったので、神様はこのようなロトがアブラムを離れた後に初めて、アブラムにもより大きな祝福として働らかれたという事です。ところでロトが普通の人よりも劣る人ではありませんでした。それでも叔父アブラムのそばで見て学んだロトだったので、ペテロ第二2:8を見れば、「というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」と言われた通り、それなりに神の義の中に住みたいと思った人です。それでもアブラムと比べるとあまりにも不足し、結局、肉を追いかけて去ってしまったのです。

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