朝の学び103 創世記13章
更新日:9月10日

創世記13:5-13
アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
はじめに
人の心を器に例えると大きな器と小さな器があるように、人の心も大きな心と小さな心があります。 また、器ごとに材質が違うように、それぞれの人の心を構成する要素も異なり、器の綺麗さが違うように、それぞれの心もきれいさの程度が違います。それでは、父なる神様が人を選ぶ器の最初の基準は何でしょうか。それはまさに器の聖潔さです。
テモテ第二2:20-21に、「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」とおっしゃいます。器の材質も重要で大きさも重要ですが、何よりもまず綺麗な器になってこそ、貴重な器だと言われます。ところが、聖書を見ると、神様はある大きな事のために器を選ぶ時、聖潔さと共に、器の大きさも非常に重要だと見ている事が分かります。
例えば、出エジプトした200万人に近いイスラエルの民を導く指導者として立てられたモーセは、器が非常に大きい人でした。もちろん最初から大きい人ではありませんでしたが、神様はその器を見て呼んで、訓練して大きな器にしていったのです。それで、モーセは民数記12:3に、「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」と言うほど、柔和が勝れていたことがわかります。柔和は器の大きさと直接関係する御霊の実 聖霊の実なので、徳と愛を兼ね備え、霊的な柔和が臨んだ時に、多くの人を抱くことが出来る大きな器になることができるのです。このように柔和が勝れていたモーセなので、200万に達する民を率いて、40年という荒野の生活をする間、数多くのことを経験しながらも民を抱いて忍耐し、自分の使命に耐えることが出来ました。
大きな器アブラハムと小さな器ロト
アブラムも信仰の父として立てられるためには、それほど大きな器を持たなければなりませんでした。今日の本文に出てくる事件を通しても、アブラムがどれだけ大きな器を持った人なのかを知ることができます。一方、ロトは叔父アブラムと比べると、あまりにも小さな器であることが明らかになっています。カランを離れる時から一緒にいたアブラムとロトは、所有が増え、彼らが住んでいた土地にこれ以上一緒に同居できない状況になります。多くの家畜が一緒に住むには水も不足し、牧草地も不足していたのです。そのため、アブラムとロトの羊飼いたちが互いに争う状況にまで至ります。この時、アブラムは秩序上いくらでも自分が取れる優先権を放棄し、先に甥のロトに選択権を与えます。
本文9節に「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったのです。前の時間に申し上げたように、ロトが受けた祝福はアブラムと共にすることで得たものでした。さらに、肉の秩序から見ても年少者であり、甥であるロトの立場では、もし自分の家畜の羊飼いと叔父アブラムの家畜の羊飼いが争ったことを知っていたら、当然どうすべきでしょうか。自分の家畜の羊飼いたちを厳しく取り締まり、あえて叔父の耳に良くない声が入らないように行動しなければならなかったでしょう。しかし、ロトは小さな器だったので、叔父のことを先に考え、叔父の所有まで考えるほど心を広げることができませんでした。自分の所有だけに関心があり、自分の立場を先に考えました。そのため、叔父のアブラムが先に選択権を与えると、すぐに自分の目により良い肥えた土地を選んで去るのがわかります。
本文10-11節に言った、「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。」とあります。では、皆さんがロトの立場になってみてください。「私は果たしてこのような状況で選択権が与えられたとき、ロトのような姿だったのだろうか?それとも叔父さんに譲る姿だったのだろうか?」
もちろん、ロトが譲歩をしたとしても、アブラムは再びロトに先に選ぶようにしたはずです。しかし、このようにアブラムが何度もロトに先に選ぶよう勧めたとしても、ロトはどうすべきだったのでしょうか?本当に道理を知って恩、恵みを知っているなら、自分が不毛な土地を先に選んででも、叔父のアブラムに良い土地を譲るべきだったでしょう。何度断ってもアブラムが引き続き薦めるからといって「私は十分道理を尽くした。」と言って、早く自分が見るのに良い土地を選ぶならば、これは本当に心の中心で恩、恵みを知っているとは言えず、自分の道理を尽くしたとは言えません。もちろん、最初から一度に良いものを選ぶ人よりましだと思いますが、本当に叔父のアブラムに対する恩を知り、感謝するならば、たとえ先に選ばなければならない状況になったとしても、決して自分にとって良い土地を選ぶことはできません。ところが、ロトは拒絶や譲歩も一度もなく、自分の見た目に良い土地を選んで去って行ったので、彼の誤りがどんなことなのかがよくあらわれています。
しかし、このような状況でも、アブラムの心はどうでしたか?ロトがこのように自分の見た目にもっと良さそうな土地を選んで去ったからといって、その心が悲しんだり感情を抱いたのではなく、ロトに対して何も引っ掛かるものもなかったのです。それは彼の心に平安がいっぱいなので、与えてもまた与えることができる心だったからです。心の中心で相手に仕えるので、自分が受ける権威を与えることが出来、むしろもっとくださいと言っても喜んで与えられる寛大さがあったのです。
これがまさに柔和と共に、器の大きさを決定するのに直接関わる、寛容の心に該当するものです。寛容は、心が真理に変化するだけに臨む、豊かで余裕のある心から出てくるもので、真理が心に豊かに臨みながら、同時に真理の自由さがあるため、自分が持っているものをすべて、出してあげられる心のことを言います。このような寛容の心が臨めば、すべての人とともに和平を成し遂げ、徳を立てようと努力するので、結局多くの人を抱く大きな器になるのです。
器の大きさを決める柔和と寛容の心
それでは、皆さんの心はアブラムと比べて、果たして寛容の心がどれだけ臨んでいるのでしょうか?例えば、皆さんが10を持っているとしたら、それを求める人には、果たしていくつまで渡すことができますか?たった1つか2つだけ与える方もいるでしょうし、5つくらいまではあげる方もいるでしょうし、本当に心を広げて9つまであげることができる方もいるでしょう。しかし、アブラムは心の中心で相手が10をくれと言えば10を全部与えられる心でした。
各組織のリーダーが新しく選出され、教区や宣教会を担当する主のしもべも新たに任命されたり、席を変える場合がありました。そのため以前にリーダーだった方々の中に、来年はしばらく使命を離れるようになった方もいて、数年間担当した所を他の方に渡さなければならない場合もありました。そのような時、皆さんの心を一度チェックしてみてください。だからといって、必ずしもそのような方だけを点検してみるのではなく、皆さんが「私が果たしてその立場だったら、私はどうしたのだろうか」と自分の心を点検してみてください。
私は以前、使命を10個持っていましたが、その中の1つを渡すようになった時、または2つを渡すことになったとき、皆さんの心はどうでしょうか?または、5つを渡すことになったら、もし10個をすべて渡すことになったら、皆さんの心はどうでしょうか?このようなそれぞれの状況で皆さんの心がどうなのかを点検してみると、「私の心の器はどの程度なのか」ということを自らが悟ることができるでしょう。また、ある人が受けもっていた使命や立場を他の人が代わりにすることになった時に、その人の次の行動がどうなのかを見ても、その人の誤りが分別されます。
例えば、使命が他の人に移った時に、「あの仕事はこれ以上私の仕事ではないから、私は何の関係もない」として、以後全く関心さえ持たない人と、「私がたとえその使命を手離したとしても、新しく引き受けた方が使命をうまく担えるように、私が助けられることは最善を尽くさなければならない」という人とは、その器が天と地の違いです。ところが、もし他の人に使命を渡した時、もしも「まあ、どれほど上手なのか見てみよう」というこのような心を持った人がいるならば、彼は自分自身の心がどれほど非真理なのかを悟って、今からでも真に神様の前に悔い改めなければなりません。
では、新たに使命を任された方の立場としては、どのような心を持つべきでしょうか?新たに使命を任され引き受けた方でも、自分の心に誤りを点検することができます。例えば、新しい使命を引き受けた時、「今は私がリーダーになったから」という気持ちで、もし以前のリーダーの方に仕えることが出来なければ、これもまた自分の誤りを自ら表すのです。また、使命に対して選択権が与えられた時、目に見える良いものだけを選んで持とうとすれば、これを通してもまたその心を点検することができます。
大きな器を持った人なら、なんとか力を合わせてもっとうまくやっていけるように、前にリーダーだった方に対してももっと仕える心で行っていきます。そして、目に見える使命だけを引き受けようとするのではなく、むしろ他人が引き受けようとしない使命があれば、それに仕える心で先に選択できなければなりません。このような状況を迎えた時、皆さんの心がどうなのかを点検してみることで、皆さん自らが「私の心には寛容がどれだけ臨んでいるのか?」「私はどれくらいの大きさの器を持っているのか?」を発見することができます。
皆さんはたくさんの言葉を聞いたので、どうしなければならないのかを頭では理解できます。しかし、いざ現実に直面すると、各人のあやまちが如実に明らかになります。アブラムのように行う人もいれば、ロトのように行う人も多いのです。本当にアブラムのように行える人なら、彼は神様から愛されるしかなく、祝福されるしかないのです。自分のもの、自分の所有だけを考える小さな器の心なら、このような人は神様の前でもケチにならざるを得ず、結局神様から祝福を受けることも難しいということを知らなければなりません。このように祝福も結局は器の大きさに合わせて与えられるのです。



