朝の学び102 創世記13章
更新日:9月10日

創世記13:1-10
それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
祭壇を築いて祭事を捧げたアブラム
本文3-4節に「彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」彼がネゲブから旅を続けてベテルに至り、ベテルとアイの間に天幕を張った所に来ると、彼が初めて祭壇を築いた所なので、「その所でアブラムは、主の御名によって祈った。」とありますが、これは彼が以前に祭壇を築いたところに至り、再び神様に祭壇を築き、感謝の祈りを捧げたことを物語っています。
これまで心深く悟ることができなかった繊細で優しい神様の心を悟ったことに感謝し、自分の道を導いて試練から救ってくださり、むしろ以前よりもさらに大きな祝福を与えてくださった神様の前に感謝の祭壇を築いたのです。ただ、唇だけで「神様、ありがとうございます。こんなことに気づきました。」と告白したのではなく、このように父なる神様の前に祭壇を積み上げたことで、自分の告白と悟りを確証したのです。自分がした感謝の告白を自らも自分の心の中心に刻むと同時に、神様の前にも、自分の感謝の心を神様が喜んでもらえるような美しい香りを捧げたということです。
ところが、今日多くの人々は、神様の恵みを体験し、神様の祝福を受けながらも、神様の前に祭壇を築くのを惜しいと見ています。ただ唇だけで「感謝します」と言ったり、神様の前に適当に感謝することで終わってしまいます。しかし、真の感謝は一方的なものではなく、相互に行われなければならないという事です。私の側でだけ「この程度の感謝をすればいいだろう」ということではなく、受け取る側でもその感謝の気持ちを感じて認められるようにしなければならないということです。
ですから、私たちの方で適当に感謝を表したからといって、神様の方で無条件に受けるのではありません。本当に神様に欽香のような香り(杉粉をベースにした古典的な香り)で神様の前に捧げた時に、神様もその心の香りを受けられて、私たちの感謝を認めてくださるのです。そして、このように神様が認めてくださる時こそ、真の感謝として天にも積まれるのです。アブラムはこのような事実をよく知っていたので、創世記12:7を見ると、神様が現れ、「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」と言われた時も、そこに自分に現れた主のために真心をこめて祭壇を築きました。
創生記12:7 「そのころ、主がアブラムに現われ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。』と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。このように祭壇を築き、祭事を捧げることで、神様が自分に与えた約束の言葉を神様との間で確証したのです。
ところが、今日の本文にアブラムが初めて祭壇を築いたところに至って、もう一度祭壇を築いて祭事をささげながら、主の名を呼んだ時は、彼の心が以前に祭壇を築いた時とはかなり違いました。もちろんアブラムは以前にも神様の前に熱心に祭壇を築く人でしたが、その時はただ祖先から聞いて学んだ通りに行ったのでした。「このような時はこのように祭壇を作って、祭事をささげるべきだ」と先祖から聞いて教えられたとおりに行ったという言葉です。しかし、今は心の中心を載せて祭壇を築き、感謝で賛美し、聖なる神様の御名をお祝いしたという事です。
まさに訓練を受ける前と訓練を受けた後に、このように驚くべき変化が起こったのです。祭壇を築くその中心、心が以前と今は全く違っていました。以前は学んできたとおり行なったと思いますが、今は心の中心で感謝する気持ちで祭壇を築いたのです。このように、アブラムは一度の訓練を通して多くのことが砕かれて壊れ、神様に対する愛と信頼も、まさに神様が望んでおられる心の香りとして捧げ、神様に認められる者になったのです。そして今はすべてをただ父なる神様の御心と導かれることに任せていく人になりました。
訓練の後に成熟したアブラムの信仰
本文5節以下を見れば、アブラムの成熟した信仰の姿がよく現れる事件が出てきます。アブラムには甥ロトが一緒にいたのですが、アブラムの所有と甥ロトの所有がしだいに増えると、彼らが住んでいた土地に二人の所有の者たちが同居できない状況に至りました。6節に「その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。」と話しています。そうするうちについにアブラムの家畜の羊飼いとロトの家畜の羊飼いが互いに争う事態まで発生します。
これに対しアブラムが最初に出て、ロトに言った8-9節に「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ということでした。するとロトは目をあげて周りを見回した後、自分の目で見て良い土地を先に選んで選択しました。彼が選んだ土地はソドムの土地でした。
アブラムが初めてカランを去ったとき、ロトは叔父に従う状況でした。自ら独立できる立場でもなく、豊かな所有を持ったわけでもありませんでした。ところが、今日の本文に見ると、ロトも多くの牛や羊と幕屋を所有し、アブラムと一緒に同居できなかったことを見ます。これはロトがアブラムと共にカランを去った後、それだけ多くの祝福を受けていったことを物語っています。アブラムの所有が豊かになったことで、一緒にしたロトも所有が増えることができたのです。つまりロトの祝福は結局アブラムと共にすることによるものだということです。ロトがアブラムと共にし、アブラムに属した者になったので、彼の所有がアブラムの所有と共に神様から守られることができたという事です。
では、このようなロトの立場で、自分の牧者と叔父アブラムの羊の牧者が互いに争う状況になったとき、どうすべきだったのでしょうか。当然、自分が先に叔父に譲って退くのが秩序の上でも道理の上でも当然なことでした。しかし、ロトはそうではありませんでした。これは肉的な面から見てもまったく秩序に従ったことではなく、目上の人に仕えることもできないことでした。霊的な面から見ると、なおさら真理に合わないことでした。霊的な秩序上においても、ロトは当然アブラムに仕えるべきだったが、そうではなかったということです。結局、ロト自ら、自分がアブラムによって受けた祝福に対して感謝を悟ることもできずにいたことを知らせているのです。
このような状況でも、アブラムは「ロト、あなたが私によって裕福になり、あなたが私によって神様から守られた」とは言わず、少しの寂しさや感情も抱いていませんでした。むしろ甥に先に選択権を与えながら「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」と言ったのです。ところでロトは一度の遠慮や譲歩もなく、すぐに自分の目に映る良い土地を選んでしまいました。これがまさに器の違いから来る様子です。アブラムの器とロトの器がはっきりと比較される事件でしょう。ロトもアブラムに劣らず、祖先から神様について聞いて学び、真理について聞いて学んだにもかかわらず、アブラムと比べるとあまりにも小さな器であることが明確にあらわれているのです。
もちろん、ロトが目に見える大きな罪を犯したわけではありませんが、彼は器が小さい人だったので、すぐに目に見えるもの、すぐに自分の利益に合うことだけを考えていたので、このように自分の欲を追った結果、結局、苦痛の道に進んでしまったのです。もしアブラムがロトと同じような立場であったなら、おじの立場を先に考えたはずで、自分の所有だけを考えるのではなく、おじの所有までも調べたはずなのに、ロトはそうしなかったのです。今度は、アブラムとロトを比較しながら、大きな器と小さな器の違いを見て、ロトの選択が後日どのような結果をもたらすかを見ていくことにしましょう。
結論
人々の中には物質を十分に持つようになったときに心に余裕を持ち、自分の所有を他人にも施すことができる人がいるかと思えば、むしろ物質に余裕ができるほど心が固くなり、ケチになる人もいます。これがまさにその器の違いです。器の小さい人は、私のもの、私の所有、私の立場、私の都合など、自分と関連したものだけに視野を限定させるので、それ以上のものを見ることができません。他の人の立場を考えることもできず、他の人の境遇や立場を振り返ってみることもできず、他の人の心を理解することもできません。自分の利益だけを考えて執着するのです。だから他の人ともぶつかるしかなく、その中に人々が宿ることができません。このような人が権勢や力を持っている時、表向きにはその前に従うように見えても、本当に心の中心から従う人を得ることは難しいのです。
反面、器が大きい人は私の立場、私の都合、私の所有、私のことだけを考えずに、私よりも先に他の人の都合と立場までも察しながら、私の所有、私のことだけを主張するのではなく、他人の所有と利益までも調べることができる広い視野を持っています。だからこのような人の中には、多くの人が宿るようになり、ともに、豊かな祝福を受けていくようになります。アブラムと一緒にいたロトが祝福を受けたように、大きな器を持った人と一緒にすれば、一緒にいる人までも祝福を受けるのです。
それでは、皆さんの人生はどうですか?多くの人が皆さんの中に宿っていますか?皆さんと一緒にいる人たちが祝福を受けていますか?続く創世記講解を通して、信仰の父アブラムがどのようにしてすべての信仰者の父として立てられたのか、また、彼と一緒にした人までも祝福を受けていくことができたことを悟って、皆さんの人生の中にも、神様に愛され、保証された証拠が 、毎日あふれることを願います。それで皆さんを通して、御父の神様が栄光を受け、皆さんにも限りない祝福が下されるように、主の御名でお祈りします。



