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朝の学び101 創世記13章

9月6日
読了時間: 11分

更新日:9月10日


創世記13:1-10

それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。




はじめに


人々は時々あまりにも重要なことであるにもかかわらず、それが周りに常にあるという理由で、その大切さを普段はよく感じられないことがあります。そうしているうちに、ある日それが突然消えてしまうと、その時になってようやく、その大切さに気づき、後になって後悔したりもします。また、大切なことも知っていて、貴重なことだとあまりにもよく知っているのに、あるきっかけを通して、もう一度その大切さと貴重さを心の底から感じて悟る場合もあります。

例えば、家族はいつも一緒にいる人なので、普段は家族一人一人がどれほど大切なのかをよく感じることもできません。そうしているうちにある日、家族の中の一人が何らかの事情によって遠く離れてしまうと、普段気付かなかった大切さを感じるのです。このような場合、別れが、その時は心に寂しさや悲しみを伴うものですが、それがむしろ家族の大切さを悟らせてくれる大切な機会になり得るのです。もちろん、この時家族だからといって、必ずしも肉的な家族だけを意味するわけではありません。マタイ12:50に、イエス様は「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と、おっしゃったとおり、真の家族とは、主の中で共に神様の子供になった信仰の兄弟、姉妹たちです。将来、天国でも永遠に共に生きていく人々は、まさに信仰の中で兄弟、姉妹の聖徒たちなのです。ですから、家族だからといって必ず肉的な家族だけを考えるのではなく、主の中で兄弟、姉妹になった一人一人がどれほど貴く大切であるのかを知らなければなりません。

ところが、このように大切な存在に対して、普段は心に深く感じることができず、ある試練や訓練を通して感じられるようになったとすれば、その試練や訓練は本当に貴重なものだと言えます。試練や訓練がすぐにはちょっと大変で、心が痛むことがありますが、それをうまく通過すれば、他の何ものでも得られない、貴重な悟りと能力を得ることになるからです。アブラムも妻のサライをエジプトの王に奪われましたが、再び訪れる訓練を通して、とても重要な悟りを得るようになりました。それはまさに神に対する悟りでした。


奪われた妻を再び得たアブラムの告白


アブラムは幼い頃から祖先を通して、神について多くのことを聞いて学んできたので、自分自身は「神についてよく知っています」と考えることができました。しかし、いざ現実に試練が迫ってくると、アブラムはそのようによく知っている神様、すなわち全知全能であり、すべてを主管していく神様だけを全面的に頼れないまま、自分の知恵と考えを働かせてしまいました。そうするうちに、自分の力では解決できない大きな困難に直面することになったとき、まさに神様が彼を救ってくださったのです。これから、神様の知恵と方法で大きな困難から劇的に抜け出したアブラムが、神様にささげた告白をしばらく聞いてみましょう。神様が教えてくださったアブラムの告白です。

「人の知恵が愚鈍であり、神の知恵に従うことができないことを悟らずに、人がどうして真実に神の心を知ることができるでしょうか。今やまことに私の心に深く刻まれた、その方に対して悟ったことがあり、それ故に私の魂が満ち足りて喜びと感謝であふれるのだ。たとえ人の考えが奥深いとしても、神様のお考えと計画と比べてみると、それは鈍くて愚かなことに過ぎず、それをもっては、すべてが十分に成し遂げることができないことを私は悟った。神様のお考えと計画なさることはとても奇しく深みがあって、人間の知恵では及びもつかない。あまりにも高く偉大なるその方に私の愛と感謝の賛美をささげます。

私といつも共におられ、私を治め導いて下さるその方のその心を、今まで私は知ることができなかったが、私を愛して下さるその方の心をこのように深く悟れるようにして、人の考えがどれほど愚鈍で愚かなのかを悟らせて下さった、その方の御名を讃えます。以前から私の心の奥深くにおられ、いつも私と共にいてくださったその方に対して、今になってその深い愛と忍耐と慈しみを感じるようにされた、その方の御名を褒めたたえ、深く称賛します。

私の魂を満ちたらせ、わたしを導かれるお方、その方にわたしのすべてを頼ってお願いすると、その方は一寸の誤差もなく、すべてのことを完全になしとげられる。それ故、私の唇は私の心の中心から、私の愛するその方への告白で満ちています。わたしの魂を満ちたらせ、私の魂を幸いにされ、私の心の奥深くにその方を刻み、愛するようにされたその方の麗しい御名を賛美し、すべてのことで栄光を捧げ感謝申し上げます。」

私たちはアブラムの告白を通して、彼が訓練を通過しながら、どれほど貴重な悟りを得たかが分かります。第一に、人の知恵と考えというものがどれほど愚鈍で愚かなものなのかを悟り、第二に、父なる神様の広大さと偉大さが極めて高い方であることを心から悟るようになりました。また、三番目には、このような神様が自分を守り、保護して下さり、とても良くて、優しくて、繊細な父なる神様の心を悟りました。アブラムは、神様がいつも自分と共におられるということを知っていましたが、この訓練を通過して、初めて神様がどれほど繊細で優しく、今まで自分のすべてを導いてくださり、また今も導いて行っておられるかを心の中心で悟るようになったのです。   



喜びと感謝で訓練を受ければ祝福


このようにアブラムにとって今回の訓練は、これまで聞いて学んで知っていた神様に対して、本当に心深く悟り、心の中心に刻み、これからは神様だけに全面的により頼むことになる大切な機会となったのです。そして、自分を発見して徹底的に自分を壊す機会になりました。それだけでなく、アブラムはこの訓練を通過し、その所有物が豊かになる祝福まで受けました。この一度の訓練を通して、霊肉間に驚くべき祝福を受けるようになったのです。これがまさに訓練を許される父なる神様の深い御心です。訓練を許す理由は、私たちを大変にさせて難しくしようとするのではなく、アブラムのように私たちにも、霊肉間に祝福を与えるためだということです。ところが、アブラムのように、訓練を通して霊肉間に祝福を受けるためには、まさに訓練を喜びと感謝で通過しなければならないという事です。     


アブラムは妻のサライを奪われる試みの中でも、神様の前に喜んで感謝しました。もちろん、自分の知恵と考えを働かせ、結局妻を奪われるようになったことについては煩悶して苦しみましたが、「なぜ私にこういう訓練がやって来るのですか?神はなぜ私を守ってくださらなかったのですか?」このように神様の前に寂しがるとか不平をいうことは、決してなかったのです。アブラムはこのように喜びと感謝で、神様が許された訓練を受けたので、訓練を通して大きな霊的な祝福を受けることができたという事です。 


そして、このように霊的な祝福を受けることになると、魂が幸いとなるように、すべての点で幸いとなる法則によって、肉的な祝福も自然に一緒についてきたのです。アブラムがエジプトに入る時よりはるかに多くの所有物を得て、それを持ってエジプトから出ることができたのです。これも神の計画された摂理でした。アブラムが神の御言葉に従い、生まれ故郷の父の家を離れる時、彼がカランから集めたすべての財産を持って出たとはいえ、当時彼の財産は多くのものではありませんでした。そのため、神様はアブラムが訓練を通過し、魂が幸いとなると同時に、肉的な祝福もあふれるようにするために、エジプトの最高の権力者であったバロを訓練の道具として使ったのです。 


それほどまでの権力者を通して訓練を受けられるようにしたのですから、祝福もまた大きいものではないでしょうか?ダニエルや三人の友人も、王を通して訓練を受けているので、素晴らしい祝福を受けました。創世記12:16「パロは彼女のために、アブラムによくしてやり、それでアブラムは羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男女の奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。」を見ると、エジプトの最高権力者であったバロは、サライを取りながら、その代価としてアブラムに多くの羊と牛とろばと男女の奴隷、雌ろば、らくだを与えたが、妻を再び取り戻すことになったアブラムは、この時得た所有までも一緒に持ってエジプトから出ることができたのです。 

それで、今日の本文2節を見ると、「アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。」と語っています。このように、神様は神様の知恵の中で、人が想像できない方法で、アブラムに霊肉間に祝福の道を開いてくださいました。人が神様の前に何か過ちがあったり、悪を行なって災いが来たときは、神様の前に悔い改め立ち返ったとしても、以前の状態に回復するだけがぎりぎりです。しかし、ある悪を行ったり過ちがあったからではなく、霊的な祝福を与えるために許された訓練は、その訓練を通過した後に必ず、以前より加えられた祝福が与えられるようになります。     


アブラムの場合は、神様の前にある悪を行ったわけでもなく、大きな過ちがあって訓練を受けたのではなかったので、彼が訓練を通して自分の弱さを悟り、神様の前にすべてを頼った時、神様はアブラムに以前より大きい祝福で返してくださったのです。ところが、アブラムがこのように訓練を通過し、霊肉間で祝福をともに受けることができた理由は、訓練を受けるアブラムの心の態度でした。先ほどお話しした通り、アブラムは訓練の中で文句を言ったり、恨んだりせず、喜びと感謝で訓練を受け入れました。そしてこのように感謝で訓練を受けていくアブラムに、神様は訓練の中でも不足することなく、常に溢れる祝福を与えて下さったのです。 


誰もが完全になるまで訓練は受けるのですが、その訓練をどのような姿、どのような態度で受けるかによって、祝福の中で訓練を受けることもあり、あるいは困難の中で訓練を受けることもあるのです。また、アブラムはその後も信仰の父として立てられるまで、自分に与えられた訓練を喜んで感謝して受けています。アブラムはその心の中心がまっすぐで誠実で正直な人として、常に喜びと感謝で訓練を通過していったので、彼は訓練の中にも神様の愛を受け、すべてにおいて善を成しとげ、物質の祝福も溢れるように受けることができたのです。 

それでは、みなさんは自分自身を振り返るときに訓練の中でどんな思いをされたでしょうか?「私はアブラムのような心の中心ではないから…」と言いますか?    私は今までどんな訓練が来た時でも、一度も恨んだり文句を言ったり、「つらい」と言いませんでした。真実な神様を信じて、ただ喜びと感謝で勝利していきました。人としては耐え難い訓練の時間もありましたが、神様はそれが「祝福の訓練だ」とおっしゃったので、一度もその言葉を疑ったことはありませんでした。私の力では私の能力ではできませんが、「私に能力をくださる御方の中では、私はすべてのことができる」と告白し、すべての訓練を通過してきたのです。それで、たとえ訓練を受けている中だとしても、私はいつも不足することなく祝福を受けて行き、権能も日に日に増していきました。ですから、皆さんも「私もできます。」と告白し、どんな訓練でも喜びと感謝で受けて、神様に栄光を返してくださることを願います。

同じ訓練が与えられたとき、それを感謝で受ける人と労苦して受ける人とは、訓練を通過した後、祝福の程度も違うだけでなく、神様を愛する心もまったく異なるという事を悟らなければなりません。本当に真っ直ぐな中心を持つ人なら、本当に父なる神様を愛する人なら、アブラムのように、他に聖書上の多くの人物のように、訓練を感謝することで受け取るでしょうし、このような人には、神様も必ず訓練の中でも、常に愛の証拠を示してくださいます。訓練の中でも感謝と喜びで蒔いたので、神様もこのような人には感謝の条件をあふれるように、蒔いた通りに収めるようにするのです。

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