ヨブ記講解(101)「自尊心と負の感情を捨てよう」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記34:25-30
続いてヨブ記34:25です。
神は彼らのしたことを知っておられるので、夜、彼らをくつがえされる。こうして彼らは砕かれる。(ヨブ記34:25)
ここで彼らとは先に述べた力ある者です。つまり富と権力があるのに、困っている人貧しい人を助けないで悪を行う人を言っています。間接的にヨブを指しています。神様は、ヨブの全てのしたことを知っているからヨブを打ち砕かれるだろうと言っています。
またヨブ記34:26-27です。
神は、人々の見ているところで、彼らを、悪者として打たれる。それは、彼らが神にそむいて従わず、神のすべての道に心を留めなかったからである。(ヨブ記34:26-27)
神様は人々の見ているところで悪い人を打たれるのですが、その理由は、彼らが神様に背いて神様の道に行かないからだと言っています。神のすべての道に心を留めなかった後は、神様の真理に従わないで、自分勝手の道に行くことを言います。エリフは、ヨブをこのように悪い人だと責めています。ヨブが神様に背いて悪い道に行ったから、神様は人々の見ているところで、あなたの子供と財産を打って、あなたの体も苦しめるのだと言っているのです。こう言われているヨブはどれほど辛かったでしょうか。苦しかったでしょうか。体に力があるなら殴りたかったでしょう。でもそれもできなかったのです。誰も自分の真実を分かってくれないし、自分を慰めてくれないし、助けてくれないからどれほど辛かったでしょうか。
皆さん、ヨブのように病気で苦しんでいなくても、私たちは心の中で練られる時があります。人間関係で悩んだり、また人に無視されると思ったりする時もあります。それで負の感情が起こったり、自尊心が傷つくとどれほど辛いでしょうか。自分があまり好きではない人とは会いたくないし、またその人のことを考えると、以前自分にいろいろ悪いことをしたことを思い出してまた腹が立つのです。こうして心が辛いし苦しいのです。皆さんはこのようなことはないでしょうか?それを続けていくともっと辛くなるから、それは早くやめた方がいいです。自分の負の感情を捨てて自尊心も捨てましょう。私たちは人に認められたいと思ってはいけません。神様の御目をいつも意識して神様が報いてくださればそれでいいのです。この地上で人に褒められなくても、神様が報いてくださるから、私たちは感謝して喜ぶことができます。
そして結局、自分の真実と善は、神様が明らかにしてくださいます。人に誤解されてもそれによって腹を立てたり、自尊心が傷ついて辛くなる理由がないのです。私はこんなに苦労したのに頑張ったのに、誰もわかってくれないと思わないでください。神様は見ておられます。今ヨブはエリフによって、辛くなって苦しんでいるのですが、でも私たちは人のせいにしてはいけないのです。自分の悪が自分を苦しめるのです。だから私たちはさらに自分を低くしましょう。エリフは、自分が神様のようになっていて高ぶっていてヨブを罪に定めています。ヨブに直接に言っているのではないのですが、間接的に表現しているのです。ヨブは友達とずっと論争してきて、このように感情が激しくなっているから刺激しないためでした。
次にヨブ記34:28です。
こうして彼らは寄るべのない者の叫びを神の耳に入れるようにし、神は悩める者の叫びを聞き入れられる。(ヨブ記34:28)
これは、「ヨブあなたは貧しい人困っている人を苦しめた。それによって悩んでいる人が多いのだ。彼らが神様に叫び、神様はその祈りを聞き入れたのだ。」とこのように言っているのです。エリフはヨブにこのように厳しく攻撃しながら言っているのです。エリフは知識が優れたヨブと友達との会話に割り込んで彼らを責めています。エリフは自分なりに賢いと思っているからです。周りの人は、エリフの言っていることがもっともらしく思うかもしれません。皆さん、私たちは誰の話を聞いても、その話だけを聞いて偏ったりしてはいけません。ヨブの立場ではエリフが言っていることがとんでもないし、悔しいことでした。エリフは、このように、間違っている言葉でヨブをさばいていたのですが、私たちはヨブがどんな人かよく知っています。ヨブは行いとしては潔白で正しい人でした。
神様はヨブ記2:3で「彼のように潔白で正しく神を恐れ悪から遠ざかっている者は一人も地上にはいない。」と言ってくださいました。ヨブは、以前地位がある人も低い人も同じように接して、困っている人を最善を尽くして助けました。学識がない人だからと言って無視しませんでした。しかしエリフは、ヨブのこのような良い行いとは正反対の言葉で、濡れ衣を着せています。第三者がエリフの言っていることだけを聞くならば、ヨブを本当に悪い人のように誤解するでしょう。世では、エリフのように間違った価値観を持って人を裁いて罪に定め誤解を生む人がいるので、私たちはいつも真理を持って正しく見分けなければなりません。ヨブのように良い心で良い行いをしてきた人が、エリフのような人によって濡れ衣を着せられるならどれほど辛いでしょうか。
ところで、他の人を苦しめる悪い人でも、最初は誰でも無邪気な子供でした。それならそのような人が悪くなった理由は何でしょうか?子供を見てみれば、赤ちゃんを見てみれば、どれほど無邪気でしょうか。素直でしょうか。お母さんが泣いたら一緒に泣く、そしてお母さんの前でちょっと叱られたら、しょんぼりして、すぐ自分の過ちを認めて、またお母さんの懐に飛びついて、お母さんの心を慰めようとしたりしますね。そのような子どもを見ていると、とても純粋でいい子だなと思います。でも大人はどうでしょうか?すでに、さまざまな子供の時の純粋さを失ってしまっている姿があります。その理由は何でしょうか?人が大人になるほどだんだん悪くなる理由は何でしょうか?これを悟ったら私たちも子供のような純粋な心を回復できるでしょう。
第一は、敵である悪魔サタンがこの世を支配しているからです。アダムが罪を犯して、神様がアダムにくださった権力が、敵である悪魔サタンに渡されてしまいました。そして私たちがサタンに闇に従ったから、闇の支配を受けるようになるのです。神の子どもではなく、闇の子供になってしまったのです。敵である悪魔サタンは人を罪に染まらせてしまいます。人が善を行うように愛を行うようにするのではなくて、敵である悪魔サタンは悪を行うように罪を犯すようにするのです。こういう悪魔サタンがこの世を支配しているのです。世の文化とか人の思いを通してサタンが働いて、だんだん罪を犯すように仕向けていくのです。この世の文化を見てください。世の歌とかまたメディアとかいろんなものを見てみると、良い情報よりはみだらで悪くて穢れたものがぎっしりではありませんか。敵である悪魔サタンが悪い人を操って、そんなふうにしているのです。だから、人はこの世で生きていくほどだんだん悪くなるのです。
第二は、成長しながら親や周りの人を通して、周りの環境を通して、悪いものを聞いて学びだんだん悪が入力されていくからです。子供の時、生まれた時の姿で止まっているのではありません。いろんな知識を学びながら罪と悪を吸収していきます。偽りを言ったり嘘をついたり、また盗みとか人の物を奪うことなど、悪い友達と付き合って、それを1回2回やってだんだんそれが楽しくなってしまい、罪を犯すことの快楽を感じてしまい、良心が鈍くなって罪と悪に染まっていくのです。このように周りの人の影響を受けながら悪に染まっていきます。
第三は、もっと愛を行えなかった私たちの全体の責任があります。もっと責任のある人は私たちクリスチャンです。私たちは神様から光を見ました。イエス・キリストと十字架の言葉を知るようになって、神様の恵みによって闇から光に出てきました。その時からは、私たちが世の灯火と光になって、闇に属している人々を光に導く責任があります。神様は私たちに先に会ってくださり、恵みと愛をくださったからです。醜くて穢れて死ぬしかなかった私たちを、永遠の道に導いてくださったからどれほど感謝でしょうか。闇の中にいる人々は自分が闇にいることは分かりません。光を知らないから、誰かが自分に悪口を言えば自分も悪口を言って、誰かが殴ったら自分も仕返しをしたり、悔しい目にあったら復讐しようとします。霊的に、闇は光そのものである神様の御言葉に背く全てのこと、全ての悪と罪、不義と不法を言います。私たちは、以前は闇にいたのですが、主の恵みで光に出てきたから、闇にいる人々を理解できます。だから彼らを悪いと裁くのではなくて、許して憐れんで愛さなければなりません。何よりも善と愛、真理の美しさ、平安、慰め、喜びを見せなければなりません。
世の人々は不利益にあったら憎んで争うのですが、真理の人は、理解して赦して譲りながらも喜びが溢れて、幸せそうに見えます。世で自分がクリスチャンだと明かした人ならばどうでしょう。周りの人がその人の知っている姿を見ながら、クリスチャンはああだこうだと思うようになるでしょう。だから、クリスチャンはさらに光を放たなければなりません。それでその光を見た人は、その光に近づくようになるのです。自分を苦しめる上司がいても、真理の人は、その人に不満を抱いた非難したりしません。誠実に働きながら人を助けたり、頼りになります。夜、お酒を飲んだり、また世を楽しむ人より、教会に通っていながらも、いつも喜んでいて楽しそうなのです。いつも健康なエネルギーが溢れていて明るいです。だから世の人々もその光を見て近づいてくるのです。
私たちは主が言われたように、世の光と塩になるために、責任感を持って積極的に善と愛の光を照らしていきましょう。今エリフがヨブについて悪いことを言っているのですが、ヨブのことを知らない人は、ヨブを悪い人と誤解するでしょう。私たちもそのように誤解されることもあります。そして、私たちが人の話だけを聞いて本質がわからないまま誤解することもあるから、そういうところを、いつも気をつけなければなりません。悪い人が悪い意図を持って、誰かをけなすために偽りを言う場合があるのですが、私たちは真理を基準にして正確に見分けなければなりません。そして周りの人が話す、人を裁くことや不満とか良くないことは聞こうとしないでください。その話に同調したり、その人について悪いことを一緒に話したりしないように気をつけましょう。
私たちは、自分が何かを聞いても正確な事実を確認する場合以外は、ただ人の話を聞いてむやみに人を決めつけたり、思い込んで憶測で話すことがあってはいけません。世の人は噂話が好きで、政治家の話とか、またいろんなニュースとか、家族のこととか近所の人のこととかいろいろおしゃべりをする場合があるのですが、私たちはそれによって、その話に同調したりまた一緒に口を合わせたりすることがないように気をつけなければなりません。エリフのようにヨブを非難する姿を見て、ヨブを誤解してしまう周りの人のようになってはいけないでしょう。そして周りにそのような人がいるなら、私たちはそうしないように警戒することも必要です。戒めることも必要です。いつも私たちがいるところでは善と愛の話がありますように。
続く本文ヨブ記34:29です。
神が黙っておられるとき、だれが神をとがめよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう。一つの国民にも、ひとりの人にも同様だ。(ヨブ記34:29)
エリフは、「神が黙っておられるとき、だれが神をとがめよう。」と言っています。これはどういう意味でしょうか?これはヨブのことを言っています。ヨブがこのように滅ぼされても、神様は黙っておられるだろう。するとそれまでヨブによって悩んでいた人、ヨブによって辛い思いをしていた人々は心の中で喜ぶだろう。そして誰も神様が黙っておられるからと言って、神様を咎めることはないだろうと言っているのです。ヨブによって苦しんでいた人、ヨブによって悩んでいた人々が、ヨブが滅ぼされてしまうならばみんなが平和になると言っているのです。それで神様は、そうしても何もしないで黙っておられると言っているのです。この中には、ヨブを罪に定めている大きい悪が、罪が入っているのです。ヨブが悪い人、罪ある者とこのように罪に定めているのです。
私たちには、このような心の中の悪があって、人を裁く姿はないのか、顧みますように。それで自分の考えや口の言葉に、いつも気をつけなければなりません。ヨブは良い行いをしていたのに、エリフはヨブに、「あなたはこれほど悪い人だ。あなたがいなくなってしまえば、神様も黙っておられるだろうし、他の人も平和が望むだろう。」と言っています。ヨブはこれを聞いてどれほど辛いでしょうか。どれほど心が苦しかったでしょうか。教会の中でも、また皆さんは周りの人々の中でも、こんなことがないのか顧みますように。前は善を行ってきた人なのに、その人が後で悪を行ったからといって、その人の前の行いも悪い方に定めてしまう場合があります。またある人が気に入らなくて、その人について非難するためには、以前のその人の行いも全部変えてしまうのです。前は施しもして善を行っていたのに、それをけなしてしまうし悪く言ってしまうのです。でも私たちはそんなことがあってはいけないでしょう。
いつも私たちは、自分の負の感情とか、自分の自尊心や自分の高ぶりによって人をさばいてはいけません。もしかしてそういう姿はなかったのか、祈りながら自分を顧みて発見しますように。自分が神様のようになって人をさばいたり、また誤解して事実ではないことを人に伝えたことはなかったのか、顧みてみますように。エリフは、「神は御顔を隠される時、誰が神を認めよう。」と言っています。これは、「ヨブ、あなたが悪いから、いくら神様の前で叫んでも、神様は御顔を隠されてあなたを助けてくださらない。」と言っているのです。エリフはこのように、神様とヨブの関係を知っているかのように説明しているのですが、どれほど間違っているのでしょうか。神様はヨブから御顔を隠されることもないし、ヨブを見捨てたのでもありません。ヨブを祝福するために、ヨブの器をさらに広くするために練っておられるのです。だからエリフの言っている言葉はどれほど間違っているでしょうか。
皆さんは神様をどのくらい近く感じていますか?神様は私たちの心の中におられます。しかし信仰の大きさによって神様を近く感じる人もいるし、遠く感じる人もいます。信仰の優れた人は、いつも答えを受け祝福を受けているし、神様を近くに感じているのですが、信仰の弱い人は、まだ体験がないから神様を遠くに感じます。神様を見つける体験は難しいことではありません。神様は善と光、義の中におられるから、私たちの心を光、善、義に変えていけば神様を見つけることができます。またエノクのように、神様の心にそっくりになるなら神様が共に歩んでくださるし、祝福してくださるでしょう。エリフは、悪を行う人を神様が直ちに打ってしまう。その中にヨブも含まれていると言いました。ところで29節では、「一つの国民にもひとりの人にも同様だ」と表現して、もっと広範囲で言っているのです。神様が権威を行使するのは、民族にも個人にも同じだ。すべての人に当てはまると言っているのです、そのようにする理由が何なのかは続く本文に出てきます。
ヨブ記34:30です。
神を敬わない人間が治めないために、民を罠にかける者がいなくなるために。 (ヨブ記34:30)
ここで罠にかけるとは、人が災いに遭うようにしたり、中傷して害を与えることです。エリフは、神を敬わない人間が権力を握って民を苦しめないように、神様が打ってくださると言っているのです。ヨブもそのような一人だから、神様が懲らしめるしかないと言っているのです。エリフは自分の知っている知識の限界の中で、神様の御名を借りて、まるで自分が神様のようになってこのように偉そうに言っているのですが、これは大きな高ぶりです。また神様の御名をみだりに唱える罪になります。
もしエリフが言っていたように、神様が悪い人を直ちに打ってしまうなら、この世には悪い人はいなくなり、良い人だけが残るでしょう。しかしこのようにそうして残る人が一人でもいるでしょうか?それなら人間耕作はできないでしょう。しかしこの世には良い人と悪い人が共存しています。神様は、光も支配しておられるのですが、闇も支配しておられるからです。人間耕作が終わるまで、光は光で闇は闇で、神様の定められた枠の中で神様の支配下において全てが進められます。しかし悪い人々は、神様を誤解して神様を恨んだりします。神様は悪を憎む方です。光を愛して祝福してくださる方です。だからといって、悪い人を直ちに懲らしめたり、直ちに打ったりする方ではありません。それなら人間耕作にならないからです。人間耕作というものは、人が自分の自由意志を持って神様を選ぶように神様は望んでおられるのです。そのように神様を選ぶ人は神様が祝福してくださるのです。
闇にいる人も光に来るように神様は望んでおられるからです。でも私たちは自分の中に悪があれば、悪い人がしていることが嫌で腹を立てたり、また「どうして神様は、あんな人を放っておくのか。」と、神様の前で不満を抱いたりします。でもそれは自分の中に悪があるからでしょう。また、悪い人がうまくいく姿を見ているとそれが気に入らないし、不満を抱くようになります。それに対して腹を立てたりします。それは神様のせいでしょうか?悪が増大しているのが神様のせいでしょうか?そうではありません。確かに終わりの日には裁きがあります。そして闇を支配しているのは敵である悪魔サタンであり、神様はその勢力にも権限を下さり、その権限を侵害することはありません。人間耕作を公平にされるからです。こういう原理をよく知っていなければなりません。
しかし神様を誤解してしまう人がいます。悪い人が、成功したりうまくいくのが気に入らないから腹を立てて、神様はどうしてあのような人を裁かないのか、懲らしめないのかと不満を抱く人もいます。でもそれは真理を知らない子供のような信仰の人が考えることです。人間耕作のためには光も闇も必要です。神様を愛して光を選ぶ人は、神様が祝福して守ってくださいます。でも自由意志によって闇を選んでしまった人は、敵である悪魔サタンに属するようになり、神様が助けることができなくなってしまいます。私たちはどうすべきでしょうか?闇にいる人々のために憐れみを持って祈りながら、私たちが光になって、彼らが光を見てここに来るようにしなければなりません。しかしそうしないで、その人々と争ったり言い争ったりしてはいけないのです。私たちは光と闇の内いつも光を選び、光の中を歩んでいなければなりません。
皆さん、社会生活をする時も、家庭でも、信仰生活をする時も、もしかしてエリフのような考え方を持っているのではありませんか?白黒をつけて、悪い人は直ちに懲らしめられるのが当然だと思ったり、どうして神様は悪い人を懲らしめてくださらないのかと思ったりすることはありませんか?また罪を犯している人はすぐ試練に会うべきだとか、このように思ってはいけないでしょう。どんな人でも悔い改めて、神様のもとに主のところに帰ってくるように、愛して祈らなければなりません。
結論です。
皆さん、エリフは自分が神様をよく知っているかのように言いながら、ヨブを自分が勝手にさばいていました。けなしていました。箴言26:26に「憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる。」とあります。長い間エリフは、ヨブのことを心の中で牽制しながら、ヨブのことを気に入らなかったのですが、今、このように自尊心と負の感情が表面化して現れました。エリフはヨブを今攻撃していて、それが嬉しいかもしれないのですが、それは神様の前で高い罪の壁を積んでいて、悔い改めるべきことを作っているのです。エリフは自分が正しいことを言っているかのように、またヨブを責めて攻撃していることについて、ちょっと快感を感じているのですが、でもどれほどその姿が悪い姿でしょうか。ヨブを憐れんでその事情を理解して愛すべきなのに、神様の前で自分が罪を犯していることもエリフは気づいていないのです。こういう姿が私たちにもあるのではないか、顧みますように。
私たちは自尊心とか負の感情によって、どれほど自分の心を苦しめて、自分と人との間でも争いを起こすのかを知らなければなりません。自尊心は高ぶりともつながっています。高ぶりがあるから、自尊心を立てて相手を無視したり教えようとしたり、裁いて罪に定めるのです。このような自尊心と負の感情を捨てて、打ち砕いて、高ぶりを捨てていけば、心の中に天国が臨み、平和と喜びが臨むでしょう。皆さんの心にはただ謙遜と善、愛があって、いつも平和と喜びが溢れて、心そのものが天国となりますように祈ります。聞いたメッセージを思い出して一緒に祈りましょう。

