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「ヨブ記講解101―自尊心と負の感情を捨てよう」(上)

10月30日
読了時間: 15分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記34:24



愛する皆さん、前回は人の良心がどんなふうに麻痺していくかについて伝えました。良心が少しでも生きている人は、罪を犯せば罪の意識があって罪悪感を感じますが、良心が麻痺した人は無感覚なので、死に至る罪のような大きい罪もためらわず犯していきます。愛と憐れみの神様は、人が大きい罪を犯したからといってすぐ滅ぼすのではありません。自分の過ちを悟るように、色々な方法で教えてくださり立ち返る機会をくださいます。


それなのに、そのような悟らせてくださる声に耳を傾けないで、悟ったのに立ち返らなければ、その心はサタンに奪われてしまいます。罪と悪がはびこっている時代を生きている私たちは、些細な罪でも敏感に感じて、神様の御言葉で自分を守らなければなりません。ピリピ2:15に、「それはあなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、」とあります。ですから皆さんは、暗闇の世の中で真理の光を照らして、主の花嫁のように聖くなって自分を備えていきますように。


聖霊様が私たちの中におられ、真理の御言葉を聞くと聖霊は喜ばれます。また自分の心が刺されても感謝して自分を変えさせていけばいいのです。しかし私たちが聖霊に満たされて祈れなくなって、世を愛するようになって世を求めていけば、御言葉を聞くのが嫌になります。それで教会を離れたりします。教会を離れたら何か災いに遭うのではないかと不安になったり恐れもあったでしょう。しかし、世に出て行ってみたら何の問題もないのです。何か災いが臨むのでもないのです。そうしたら不安とか恐れがなくなって、その心もだんだん無感覚になって良心が麻痺してしまうのです。


闇の中を生きていると問題が起こるのではないか、と不安になるなら良心が生きているのですが、それもだんだん鈍くなってしまいます。それなら、神様がその人を懲らしめて、その恐れが現実になればその人は立ち返るのではないかと思いますか?しかし聖書では何とありますか。神様は愛する者を懲らしめてくださるのです。愛する者を責めて立ち返るようにするのです。神様は愛がないからその人を放っておくのでもありません。多くの機会をくださったのに、本人がその聖霊の声を聞かずに神様に背いてしまったのです。そして、その罪の意識まで鈍くなってしまい、良心が麻痺していくのです。すると罪と悪に染まる速度がとても速くなります。


以前、一緒に信仰生活をしていたのに教会から離れて後、その人を見てみれば服の色が変わりますね。黒い服を着ている姿を見てびっくりするようになります。聖霊の声も聞けず良心も鈍くなってしまうから、罪と悪によって心が奪われてしまいます。そのような人を見ていると、とてももどかしいのですが、私たちがもっと光となって彼らの前で光を照らして、光を見てまた戻ってくるようにしなければならないでしょう。彼らが心の中で神様のことを恐れて戻ってくるように、私たちが光となって愛を持ってそのような人々のために祈りましょう。それで良心の声を聞いて、良心の呵責を感じて、また、聖霊の声を聞いて、教会に戻ってくるように祈りましょう。私たちは先週聞いたメッセージのように、罪の意識もまた良心もだんだん鈍くなってしまうとどうなるのかを悟って、そうならないように自分を守っていきましょう。霊的な原理を悟って、戒めていきましょう。


本文、ヨブ34:24です。


神は力ある者を取り調べることなく打ち滅ぼし、これに代えて他の者を立てられる。  (ヨブ記34:24)


神様は力ある者、つまり権力があって強い人が悪を行うとき、取り調べることもなくその人を打ち滅ぼして、代わりに他の人を立てると言っています。これが正しいことでしょうか?神様は、神の働きをするとき、それをする働き人が未熟でも欠けているところが多くても、その人がそれを果たすように待ってくださいます。しかし、自分からその使命を手放してしまうと、他の人を代わりに立てるしかありません。イエス様は、イスカリオテ・ユダがお金を盗んでいることを知っていたのですが、その使命を奪ったのではありません。またイエス様を売ることも知っていたのですが、最後まで彼を愛して立ち返る機会を下さいました。しかし、イスカリオテ・ユダ本人が使命を果たさず、自分が滅びの道に行ってしまったのです。


エリフは神様の愛を知らないから、自分の考えで神様について決めつけて、神は力ある者を取り調べることなく滅ぼしてしまうと言っています。万民の歴史の中で元老牧師先生は、私たちを善と愛をもって導いてこられました。悪の多い人が相手を見ていると、相手に対して腹を立てることがあるのです。しかし自分の心の中に善があれば、相手が悪いことをしても理解しようとして許すのです。


元老牧師先生は、多くの主のしもべと働き人を育てる時も、間違ったところがあって、またミスがあって、欠点がある人でも、未熟な人でも、その人の使命をやめさせるのではなくて、忍耐をもってその人が変えられるまで待ちながら、励まして祈ってくださいました。悪が多い人は、そのような人を見ていると理解できず我慢できず、またその人から使命をやめさせるべきだと言っているのです。最近の教会の試練の時もそうでした。あのような人ならば、前からその人の悪が明らかになるようにすれば、周りの人が被害を受けなかったのにと思うかもしれません。


しかし、イスカリオテ・ユダを最後まで愛してくださったイエス様の愛を思ってみれば、何が善なのかを悟るでしょう。心に悪がある人が周りの人を見ながら、「あの人は何であんなに悪いのか。」とか、「あの人のしていることはひどい。」とこのように裁いたり罪に定めることもありますが、しかし心に善がある人、愛のある人はそうしません。そのような人のために祈り、また真理を持って教えながら、悪を捨てるように助けようとします。牧者はいつも講壇で真理を教えて、悪を警戒してくださいました。


しかし、人々は自分の悪によって、自分の悪に従って、自分の利益を求めて、いろいろ自分の好む人について行ったりしました。何が善なのか、何が悪なのか、何が闇で何が光なのかを正確に教えてくださったのに、自分の心にある悪によってそのようになってしまったのです。イエス様が、イスカリオテ・ユダを愛してくださったその愛をもって、私たちも人々に対してどんなふうにすべきかを顧みなければならないでしょう。


しかしエリフは、自分の知識の限界の中でヨブの前で偉そうに言っています。ここで力ある者とはヨブのことを指しているのです。ヨブは多くの物を持っていたけれど、貧しい人、また困っている人を助けなかったとエリフは責めているのです。あなたの権力と富は大したものだったけれど、悪を行いながら神様に対して罪を犯していた。だから神様はあなたを一瞬で打ち砕き、他の人を代わりに立てるだろうと言っているのです。また神様がこのようにされても、神様の絶対的な権威の前で誰も何とも言えないと言っています。


皆さん、これが、耐えがたい試練にあって苦しんでいる人に言っても良い言葉でしょうか?これを聞いているヨブの心はどうだったでしょうか?ヨブは自分には何の過ちも罪もないのに、目下の人から何の根拠もないのにこのように非難されて悪口を言われているから、どれほど辛いでしょうか。たとえ悪を行った人でも、このような絶望の中にいる人には勇気を与えて、希望を与えるのが善でしょう。しかしエリフはヨブを憎んでいて、ヨブを完全に踏みにじるような言葉を口にしていました。またヨブの友達でもなく、ヨブよりも年下だったのにそうでした。エリフの負の感情と自尊心からそのようなひどいことを言っていたのです。


エリフの負の感情は、人と比べる心、自分が高くなろうとする高ぶりから出たものでした。このような負の感情はどれほど悪いものでしょうか。エリフは、ヨブが試練にあっているのに神様につぶやきながら自分が正しいと主張しているから、それが気に入らなくて腹立たしく、神様がヨブを苦しめていることは当然だと言っているのです。これを通してエリフがどれほど真理と反対の人であり、その心が悪いのかが分かります。皆さんも自分のことを考えてみてください。


誰か、自分が憎んでいる人や、自分が気に入らないと思っている人が苦しみにあっている姿を見ながら、それを嬉しく思ったりする姿はありませんか?また人と比べて自分がもっと認められたいとか、自分がもっと高くなりたいと思って、人に対してそんなふうにしている姿はないのか顧みましょう。このような悪は早く捨てましょう。それで自分がそういう悪い心を持っている姿を認めましょう。「あの人は悪い人だ。それで神様が懲らしめておられるのだ。当然だ。」とか「いい気味だ。」とか思ってはいけません。自分が神様のようになって裁く人になっているのです。どれほど高ぶっている姿でしょうか。


私たちは何かを考えてそれを口にするとき、ヨブ記講解で聞いたことを通して気をつけなければなりません。過去、ヨブに富があって権力があったとき、エリフはそのようなヨブを見ながら、牽制していたのかが分かります。エリフは、それまで我慢していた自分の自尊心や怒りが爆発してしまい、偉そうにヨブをさばいて罪に定めて、ヨブをけなしているのです。皆さんにもこういう姿はありませんか?誰かが羨ましいと思っていて、ある人が人に愛されている姿を見て気に入らないと思っていたとしましょう。そして、自分より後に入った人なのにみんなに認められて、自分より地位が上だと思うとそれが気に入らないでしょう。そして自尊心が傷つくのです。


そのような場合どうでしょうか?真理の人ならば一緒に喜ぶでしょう。自分より教会に遅く来た人が、今は同じ宣教会でリーダーになってみんなに愛されているならば本当に感謝だ、神の国の働き人がこのようにうまく頑張っているから感謝だと思えばいいのに、ある人はそれが気に入らなくて自尊心が傷つくのです。 その後状況が変わったとしましょう。その人の過ちが明らかになったり、その人がまたその高いところから低いところになってしまったなら、その時どう思いますか?その人に対して持っていた不満とか、またその人に対して腹を立てていたことを他の人に伝えたり、このように攻撃したりする姿はありませんか?


それは自分の心の中に負の感情があり、自尊心があって高ぶりがあったということです。このような悪を私たちは発見しなければなりません。そのような真理と反対の属性を私たちは捨てて、善と真理を心に満たしていかなければなりません。周りの人がうまくいったら喜んで、自分もそのようになろうと思えばいいでしょう。そして周りの人がもし試練にあったり苦しんでいるなら、その人を憐れんで助けようとすればいいでしょう。どうして人のことを非難したり、またその人を攻撃したりけなしたりするのでしょうか?人が苦しんでいる姿を見てどうして心の中ですっきりしたりするのでしょうか?そういう自分の心の悪を顧みなければなりません。エリフのような姿であることを悟らなければなりません。普段からも人と比べて、自分が高くなろうとする姿があるからです。


自尊心とは自分の人格を大切にする気持ち、また自分の思想や言動などに自信を持ち、他からの干渉を排除する態度です。世では自尊心を捨てるよりは死を選ぶという人もいます。自分の思い通りならなければイライラしたりまた腹を立てたりする人もいます。自尊心が傷つくのをとても重大に感じて、そうなりたくないから、周りの人に対しても腹を立てたり平和を壊したりする人もいます。しかし真理はそんなふうに教えていません。


イエス様が十字架につけられた時、多くの人が「神の御子なら十字架から降りてみよ。そうすれば信じる。」と言いながらからかいました。もしイエス様に自尊心があったなら、少しでもそういうものがあったなら、そう言われたくないでしょう。だからすぐ十字架から降りてきて「見なさい。私はこれだけの力がある。」と言われたかもしれません。それなら最初から十字架を追うこともなかったでしょう。しかしイエス様には少しの自尊心というものもなかったから、争ったり問い詰めたり腹を立てたりすることもなく、完全に自分を無にして死んでくださったのです。


自分の心の中に悪があるから自尊心が傷つくのです。だから不満を抱いたり問い詰めたりするのです。人が自分を無視しても、それによって自尊心が傷つくことはありません。私たちはすでに謙遜で低くなっていなければなりません。真理を聞いて高ぶってはならないとは知っていても、いざとなると自尊心が傷つくのが嫌で、それで低くなりたくないのです。皆さんにはこういう姿はないのか顧みますように。


なぜ自分は恵みを受けていないのか、なぜ聖霊に満たされていないのかと顧みてください。人との関係で自分が高ぶっているからかもしれません。また、ある人が自分の悪口を言うのを知って、その人を憎んだり腹を立てたりする姿があるかもしれません。誰かが自分の悪口を言った時それが嫌で落ち込んだり、そうでなければ、その人に対して腹を立てたりする姿はありませんか?でもいつも恵みに満たされていて聖霊に満たされている人は、相手が自分に悪を行ってもそれは相手の悪だけで自分とは関係ないのです。


自分はいつも喜び感謝が溢れていて、自分には過ちがないし、神様の子供だし、天国の民だからいつも喜んでいることができます。人が自分に対して悪いことをしてもそれはその人のことだけです。でもそれについて自分が影響を受けて腹を立てたり自尊心が傷つくとかそういうことがあるなら、それは自分の心の悪のためです。だからこういう悪を私たちは捨てなければなりません。それでいつも心に平安だけがあればどれほどいいでしょうか?これが自分を捨てること自分を無にすることでしょう。


使徒パウロは福音を伝えていて、いろんな苦しみにあって濡れ衣を着せられたのですが、自分にローマの市民権があることを言わなかったのです。その当時、ローマはヨーロッパとアジアの一部、アフリカまで治める大きい国だったので、ローマの市民権を持っている人を逮捕することはできませんでした。使徒パウロに自尊心があったなら、ローマの市民権を行使して監獄に入れられなかったかもしれません。このように、自分が逮捕されて牢に入れられたら神様の栄光を遮るからと思って、これを言い訳にして肉の思いを巡らして、ローマの市民権を行使したかもしれません。


しかし、使徒パウロはそうしませんでした。ローマに行くことが、神様の望んでおられることだと知っていたから、その苦しみの道を黙々と歩みました。使徒パウロは自尊心を捨てたから、このように誰かに叩かれても、対応されても、苦しめられても、ただ神様の御手に委ねました。皆さん、自尊心は百害あって一利なしです。自尊心があれば人に仕えることができません。理解できないし、許せないし、人を指摘するのです。エリフの負の感情も自尊心があったから出てきました。相手と自分を比べる関係で自尊心が傷ついたりします。自分と無関係な人ならその人がうまくいってもあまり関係ないでしょう。


例えをあげましょう。妬む心がある人は、自分と身近な同僚が褒められたら自尊心が傷つきます。自分もうまくいきたいし、褒められたいのに、そうできないから相手と比べて自分の自尊心が傷つくのです。それで負の感情が現れて、相手を憎むようになり平和を壊して誤解します。それ以上の悪のある人は、相手の欠点を人々に言ったり、偽りを作り出したり、相手をけなしたりして、悪を積んでいきます。後には、相手を褒めた人まで嫌になります。嫌いになります。私たちは自尊心によっていろいろな負の感情が起こるようになって、それがどれほど悪いことで自分を苦しめるのかを悟らなければなりません。


ある人が褒められて認められている姿を見て、それが気に入らなくてその人について良くない話をしたとしましょう。するとどうなるでしょうか?自分が言っていなかったことまで、悪い言葉がさらに大きくなってしまうこともあります。それで自分がもっと悪い人のように思われる時もあります。こういう場合、原因は自分でしょう。それが人に伝えられて自分が後で人々に誤解されることもありますが、それは相手のせいではないでしょう。


そもそも自分が、相手についてよくない話を他の人に伝えたからではありませんか?その原因は自分の心の中にある悪のためでしょう。人と比べて、人が褒められるのが嫌でまた気に入らなくて面白くないから、それについてちょっと文句を言ったと思うかもしれませんが、結局は、それは自分の心の中に悪があって憎しみがあるからです。このような自分の中にある悪を見つけ出さなければなりません。それで自分というもの、また自分の口から出した悪い言葉によるものだと、自分の悪を認めなければなりません。そのように低くなれば周りの人と平和を作ることができます。


しかし自分の自尊心や負の感情があるから、相手に対して相手がうまくいくのが気に入らなくてそれでそれによって良くない結果になってしまうことがあります。他の人、周りの人も困らせることもあります。誰かを褒めている人まで嫌いになるのです。そして不満を抱いて、その人ともぎくしゃくしたりするのです。このように自尊心というものによって、自分だけではなく周りの人も、また周りの人との平和も壊したりいろいろ良くないことが起こります。


又、サタンが働くようになります。些細なことで、自尊心のため仲が良かった人の間でひびが入ってしまったり、家族の間でギクシャクしたり、教会の中でもつまずいたり恵みを受けなくなってしまったり、教会を離れてしまうこともあります。このように、自尊心というものは、自分の存在感を高めるものではなく霊的に害を与えるのです。反対に自尊心と負の感情を捨ててしまえば、相手がうまくいくのを見ると一緒に喜び平和を作れるから神様に愛されます。ですから負の感情と自尊心がどれほど無益なものなのかを悟って完全に打ち砕いて、真理と愛だけを行う皆さんになりますように。

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