「ヨブ記講解100―罪の意識と良心の麻痺」(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記34:22-23
世の人も最初罪を犯した時はこういう現象が起こります。良心は、正しい正しくないかの基準になるからです。自分が聞いた倫理とか道徳があるから基準があるからです。それぞれその基準から外れたならば、また自分の中で良心があるから、そうしてはいけないと良心が言うのです。でもその声を聞いてやめればいいのですが、最初盗んだ時感じた快感の為また盗んでしまいます。1回した時やめなければならないのに、また親に自分がした盗みのことを告白して二度としないと決心すればいいのですね。また自分に罪の意識があって、二度としないと決心すればいいのですがそうしないで、その達成感と快感のためまたしたくなってしまうと、1回が2回になり2回が3回4回になって、だんだん心は罪に染まっていって、善よりは悪の方が強くなります。
それで「針の泥棒が牛の泥棒になる。」という韓国のことわざもあるのですが、盗みを繰り返すと良心が鈍くなって、後には罪の意識も感じられなくなって、大きいものもためらわず盗んでしまいます。盗みだけではなく嘘もそうです。1回する時と2回3回10回する時の心にはとても大きい違いがあります。嘘をつくほど上手になり、その程度も酷くなります。1回嘘をついたことを隠すために、それより大きい嘘をつくようになって、そうすると取り返しのつかない状態にまでなってしまいます。それで嘘をついていけば、その嘘を隠すためにまた嘘を作り出して、後には自分もその嘘によって騙されてしまい、自分が嘘ではなく本当のことを言ったかのように思い込んでしまう場合があります。
良心が鈍くなって麻痺してしまうのです。嘘をついておいて、その自分が作り出した嘘が本当だと、自分では脳がそんなふうに認識してしまうのです。虚言症とも言いますね。脳の構造も心もそんなふうになってしまうのです。これは全ての罪に適用できるでしょう。いくら小さい罪でもそれが大きくなればサタンに心が奪われて、自分もどうすることもできない深い罪に落ちてしまい、それで良心が麻痺してしまう状態になります。皆さん、過去に罪を犯したこと、また今の自分を作ってきた時間を顧みてください。このメッセージを聞いて後で自分のことをじっくり考えてみてください。私もその時、良心が麻痺していたんだとか。例えば異性との間で肉の行いがあったなら、そこまでになるまでの過程があったでしょう。そしてある罪に対して、最初その罪を犯した時はドキドキして不安でまた苦しくなって後悔して、聖霊の声を聞いていたけれどで、それを2回3回繰り返してしまったら、罪の意識もなくなってしまい、それでこのくらいは大丈夫と思ったり、これは大きい罪ではないと思ったりする、そういうところもあったかもしれません。
でもそれが繰り返されて、そういうものがだんだん積み上がっていってしまうと、良心が麻痺してしまう状態になるのです。こういう過程が短い間でそうなってしまう場合もあります。真理から離れてしまった場合、また自分の利益のために嘘をつく場合はそうなることがあります。最初ちょっとした嘘をついた時は不安でドキドキして悩んでいたのに、何回か繰り返して人々が騙されたら、その時からはそれが楽しくなって、さらに大きい嘘をついてしまったりする姿もあります。私たちはだから些細なこと小さいことから罪を犯さないように 気をつけなければならないし、警戒しなければなりません。小さくても大きくても罪は罪で、悪は悪です。このくらいこれまでは大丈夫と思ってはいけません。
また人がどんな環境で何を見て聞くかが、人生に大きい影響を与えるということを覚えていてください。昔厳しい姑の下で苦労した嫁が、私は後で姑になったら絶対嫁を苦労させないと思いますが、いざ自分が姑になったらもっと厳しくなるという話があります。自分が姑を通して見て学んだことが、自分も知らないうちに自分の身についているからです。又、父親がお酒をたくさん飲んで酒癖が悪い家庭で成長した子どもは、自分が大人になったら絶対そんなことをしないと思っても大人になったら父親のようになる場合もあります。また青少年が、暴力的で猥褻な文化を警戒しないで無分別に受け入れてしまえば、罪に対する意識がだんだん鈍くなってしまいます。友達が異性と付き合って肉の行いをすることによって影響を受ける場合があります。学校でクラスメイトがそんなことをしておいて、男性の場合は友達の前で自慢する場合もありますね。また喧嘩したことや暴力について、自分が勝ったことを自慢する場合もあります。その影響を受けてしまう場合もあります。周りにそういう友達がいると、自分もそれについての罪の意識が薄くなってしまい、私もそうなりたいと思うようになります。子供の時は大人のように行動するのがいいと思うからですね。
しかし、マンミンの子どもの皆さんは、真理を基準にして、何が罪で悪なのか、してはいけないことなのかを正確に分別しているから感謝です。また暴力的な内容のゲームもたくさんありますね。ゲームの中のキャラクターが簡単に人を殺したりする姿があります。銃で打ったり、また刃物で刺したりする。こういうことが生々しく描かれるそういうゲームもありますね。そして引きこもりのようになっていてずっとゲームばかりしている人もいます。親がその部屋の前に食事とかを置いておけば、それを食べてずっと部屋の中にいる人もいます。そういう場合、母親がちょっと小言を言ったり厳しく言ったからといって、自分の母親を刃物で刺した場合もあります。ナイフで刺した場合もあります。ゲームの中ではそのように人を殺しても生き返るから、母親も簡単に死んでしまうことを想像できなかったのです。生き返ると思ったからです。こういうニュースもありますね。これは子どもにだけあることではなくて、大人の皆さんも自分が何を見て聞いて何から影響を受けているのか、それによって自分の中の罪と悪が大きくなることもあるということを悟って、いつも真理の方、正しい方を選びますように。
罪と悪の始まりになるものは、最初から断ち切って受け入れないで拒まなければなりません。大人の皆さんの方はすでにその悪が自分の中にあるけれど、それ以上受け入れないのが重要です。真理と反対のもの黒くなった心に真理を満たして御言葉によって洗って随分白くなったのに、再び黒いものを受け入れてしまうと、白くなったものが黒くなってしまう場合もあります。ですから皆さん私たちが受け入れて接するもの、見るもの、聞くものなどを真理で見分けて、良いものだけを選びましょう。欲がはらんで罪を生み罪が熟して死を生むように、このくらいは大丈夫と思って受け入れてしまったものが、次には死に引いていくのです。皆さんはどんな状況でも、世の風潮に染まらないで神の子供らしく真理ににあって自分を聖なるものとして聖く守りましょう。続く本文を読むと、エリフは自分なりの知識で神様の裁きと権力を説明します。
ヨブ記34:23です。
人がさばきのときに神のみもとに出るのに、神は人について、その他何も定めておられないからだ。(ヨブ記34:23)
神様は全てご存知だから人を裁く時容赦しないという意味です。これは、ヨブの罪も神様は全て知っておられるから容赦なく裁かれるだろうという意味で言っています。しかし神様はそういう方ではありません。寛容を尽くして忍耐深くおられる方です。人の罪を直ちに懲らしめるよりは、その人がよくやったところを思い出して、立ち返るように待ってくださる方です。ヒゼキヤ王が病気によって死にかけていた時、神様の前で涙で祈ったら、神様は前の彼の良い行いを思い出して命を15年も延長してくださいました。このように何としてでも人の過ちを許そうとして、その道を探して救おうとすることが神様の心です。アブラハムの時代に、ソドムとゴモラの罪があまりにもひどくて裁きを下さる時もそうでした。すでに罪と悪が満ちていたのです。裁かれるしかないところでした。それでも神様はもう一度、御使いの頭を遣わして調べるようにされたのです。神様は直ちに裁く方ではありません。そして聖書に愛の書と御霊の九つの実を記してくださり、私たちも寛容を尽くすように教えてくださいました。
第Ⅱペテロ3:8に、「しかし愛する人たちあなた方はこの一時を見ようとしてはいけません。すなわち主の前では一日は千年のようであり千年は一日のようです。」とあるように神様の寛容がどのくらいなのか、愛がどのくらいなのか教えてくださいます。神様はカナンの地の住民にも忍耐深くおられました。その期間はイスラエルの民がエジプトで奴隷生活をしていた約400年でした。このように長い間待ってくださったのにも関わらず、彼らは悪から立ち返らずついには罪と悪が満ちてしまい、それ以上立ち返る可能性がなかったから滅ぼすしかなかったのです。神様は、エジプトから出たイスラエルの民も長い間待って忍耐深くおられました。イスラエルの民は、神の栄光を見た時は喜んで賛美していたのですが、苦しみにあったらすぐ不平と不満を神様の前にぶつけて聞き従わなかったのです。彼らの信仰がまだ完全でないことを理解してくださった神様は、そういう彼らのためにもどうしてくださったでしょうか?我慢して忍耐深く彼らの願いを聞いてくださり、悟らせてくださいました。
昼は雲の柱で夜は火の柱で守ってくださったし、天の扉を開いてマナを雨のように降らして40年間も食べさせました。又うずらの群れを送って食べさせてくださるなど、神様は多くのしるしと不思議を現わしてくださいました。彼らを何としてでも見捨てないで、変えられるように救うためにそうされたのです。私たちへの神様の愛も同じです。周りの人が見るときは、真理に留まっていないし、変えられるのが遅いし、理解できないようなことをする人でも、神様はその人が変えられるように最後まで恵みをくださいます。しかしエリフはこのような神様の愛をあまりにも知らなかったのです。これは続く彼の言葉の中でも感じられますが、それについては次の時間に調べてみましょう。
皆さん、寛容を尽くして忍耐深くあられる神様の愛と恵みによって、私たちが今この世にいられるのではありませんか?それならその愛の目で他の人も見なければなりません。神様からはそのような大きい恵みをいただいたのに、他の人に対しては冷たいとか厳しくしてはいけないでしょう。神様から赦していただいたのに、人を赦す時神様も私たち赦してくださいます。毎日、使徒信条を唱えているのに、神様からは憐れみ受けたのに、周りの人には憐れまないで許さないのでしょうか?エジプトから出たイスラエルの民を四十年間も神様は 彼らを食べさせ、着させ、教えてくださり、心に抱いてくださり、悟らせてくださいました。しかし第一世代はモーセに立ち向かい、モーセを殺そうとまでしました 。それなら神様は四十年間、損をされたのでしょうか?そうではありません。その愛によって最後まで待ちながら機会を下さったので、ヨシュアのような人、カレブのような人、第二世代のような人が変えられたのです。私たちもそうしなければなりません。
神様がもしイスラエルの民が罪を犯すことを、聞き従わないことを知って、初めから彼らを見捨ててしまったならどうして変えられたでしょうか?私たちへの神様の心も同じです。変えられるような人だけに恵みをくださる方ではありません。神様は全てご存知だから、結論を出しておいて機会をくださらないなら、どれほど神様に公義がないでしょうか。しかしそうではありません。神様は公義と愛があるから全ての人に同じように恵みをくださって、立ち返る機会をくださっています。神様の限りない愛を同じように注いでくださいました。それでも裏切る人もいて、それでも神様から離れる人もいますが、だからといって損したでしょうか。そうではありません。
牧者も同じ心で全ての人に接してくださいました。あの人は私を裏切る人だからと最初から切ってしまったならば、どうして神様の御言葉、神様の愛を受けた人と言えるでしょうか?私たちは神様から大きな愛を受けました。そのいただいた愛をもって他の人をも愛さなければなりません。あの人はダメだ、あの人はもういけないと自分で決めつけないでください。どんな人でも神様の目線で神様の愛を持って心に抱いて、包んでその人のために祈りながら、忍耐深く待ちましょう。そうすると神様が喜ばれ褒めてくださり天国で高くしてくださるでしょう。このような愛を悟りますように。皆さん自分自身も変えられるために頑張りながら、周りの人にも愛を持って仕えましょう。
結論です。皆さん、人がどんなふうに罪に染まっていくのかを知っているならば、逆に反対に罪を捨てる作業もできます。人が最初罪を犯した時は、不安で恐れて苦しむのですが、その回数が増えるほど、だんだん罪の意識を感じなくなってしまいます。ところがこのような人もイエス・キリストを受け入れれば、真理を聞いて神様の目を意識するから罪に対する恐れが生じます。恐れによって罪を捨てなければと決心するようになって、祈りながら聖霊に助けられれば罪を犯すことが、10回から9回、9回から8回、このようにだんだん減っていきます。そうすると、ついには罪を犯さない状態に戻るようになります。それで良い心を取り戻すのですが、それで終わりではありません。
つまりどういう意味でしょうか?私たちは生まれて成長する間で多くの罪と悪を積んできました。生まれたばかりの赤ちゃんは、原罪を持って生まれたのですが、自分で犯した罪はないでしょう。ひどい罪を犯していないのです。その状態に戻るということです。主を受け入れて罪を捨てていって、罪を犯す回数がだんだん減っていって、罪を犯さない状態になるのは、その良い心を取り戻すことです。しかし、それで終わりではないのです。その時がスタートです。ヨブの場合は簡単に言えばこの状態にいたのです。試練に遭う前は、私たちが罪を犯したのにそれを悟って悔い改めて、その罪を捨てていって元の状態に戻った。その状態にヨブは最初いたのです。ヨブが罪をたくさん犯したから試練に遭ったのではありません。ヨブは肉の行いもなかったし、心の中で犯す肉的なことを考えたりすることもあまりなかったのです。でも本性に中のある悪は自分では発見できないから、試練を通してそれが現れるようにして悟らせてくださったのです。
ヨブが試練に遭う前はそのような状態でした。私たちが罪を犯した後、肉の行いを捨てて、また心にある罪を捨てて、肉的なことも考えなくなって、だんだん元の状態に戻った時点、信仰の3段階の岩の上を過ぎた状態ですね。ヨブがそうだったのです。だからそれで終わりではないのです。そこからスタートなのです。本性に根ざす悪まで引き抜いていかなければなりません。また真理を満たして、義を行っていてこそ、完全に聖められるということです。私たちはそれを目標として目指していくのです。まずは行いで犯す罪を捨てて、次に心と思いで犯す罪を捨てて、本性に根ざす悪まで全部引き抜いてこそ、完全に聖められたと言えるのです。このような原理を悟って、皆さんはみな正しい良心を取り戻し、速やかに美しい主の御心に似ていきますよう主の御名によって祈ります。
今、現在の私たちはどうでしょう?子供が生まれた時から罪を受け入れないで、純粋にその心を守るならばいいのですが、それは不可能ではありませんか?今の世で生まれた人は、みんな罪を小さい時から受け入れるようになります。それで自分で罪を犯してだんだん悪くなるのですが、真理を聞いてからその罪を悔い改めて、そして罪を捨てていく過程を経るようになるのです。だから罪に対して敏感に感じて、御言葉を聞きながら、自分の罪を発見して祈りながら、聖霊に助けられて、それを一つ一つ捨てていけばいいのです。また、罪を捨てたいという心が、さらに切実でなければなりません。
同じように憎しみを持っている人が2人いるとしましょう。本人にも憎しみがあるのに、私たちは他の人にある憎しみに敏感です。そして、他の人が人を憎んでいる姿を見ながら、指摘したくなります。自分の中にある憎しみに対してはあまり敏感に感じないのです。でもそうしてはいけないのです。私たちは自分の罪に対して、それを意識することにさらに敏感にならなければなりません。また御言葉と祈りによってその罪を捨てて、自分の心を聖めていかなければなりません。何かイライラした時、自分にはそれなりの理由があって、それで相手が悪いからそうするしかなかったと言い訳をします。でも相手がイライラしていると、相手は真理に逆らっていて罪を犯しているというふうに、相手をさばいて罪を定めてしまう傾向があるのです。これからはそうしないで、自分を顧みて自分の罪を捨てていきますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。

