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ヨブ記講解99 - 神様の心を正確に知ろう(下)

10月4日
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記34:13-15



続くヨブ記34:13です。

だれが、この地を神にゆだねたのか。だれが全世界を神に任せたのか。(ヨブ記34:13)


これは、神様が地を造り全世界を治める創造主として、絶対的な主権者であることを強調することです。


続くヨブ記34:14-15です。

もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なる者は共に息絶え、人はちりに帰る。(ヨブ記34:14-15)


すべての命の根源は創造者の神様です。神様が人に神様の霊である命の息を吹き込んでくださったので、私たちは生き物になって、他のすべての被造物も神様の力によって命を維持しています。ですから、もし神様が、ご自分の利益だけを考えてその霊と息を呼び戻すならば、すべての生き物は死ぬでしょうし、人も一握りのちりに返ってしまうでしょう。しかし神様は、絶対的な主権を持っていても、それを乱用される方ではありません。もし神様が独裁者のように、権限を自分勝手に使う方ならば、どんな現象が起こるでしょうか?不義な裁判官のように、自分の欲や感情によって人を生かしたり殺すこともあるでしょう。神様が、機嫌が良い時は良い天気にしてくださり、機嫌が良くない時は嵐を起こす。そういうことではありません。自然の流れとか天気の変化は、神様が創造された時の摂理の中にプログラムされています。その中で動いています。でも今地球に起こっている自然災害はなぜでしょうか?


人々が自然を破壊したからです。それによって災害が起こり、また異常気象などが起こるのです。神様が御怒りによって、人々を苦しめているわけではありません。神様の裁きはもちろん定められた時に必ず行われます。地球にも終わりがあります。でもその時までは、この摂理の理は神様が最初定めておかれた通りに動いています。でも人々がその秩序を乱して地球を破壊しているから、このような苦しみを受けているのです。神様は蒔いた通りに刈り取るようにされる方です。しかし、もし神様が独裁者のように、権限を自分勝手に使う方ならばどうなるでしょうか?気に入る人には多く与えて、そうではない人には少なく与えるでしょうか?神様が見て、良いと思う人だけを守ってくださるでしょうか?そうではありません。神様は真理そのものであり、善と義と公義と愛を持っておられる方です。すべてができるのに、自分勝手に主権を行使しないで、決して悪を行わない方です。第一の天での公義も重要です。人間関係においてもそうです。皆さんが善を追い求めて、誠実に働いていてこそ神様は子どもたちに祝福を与えることがおできになります。



でも、自分が誠実に働かなければ、それだけ祝福を受けるのが難しいのです。自分がクリスチャンだからといって、「なぜ神様は私を祝福してくださらないのか?世の人はあんなふうに豊かになるのに」と、思ってはいけません。祝福されるためには、肉の秩序も必要で、自分の行いも重要です。祝福を受けるような器でない人を、神様がもし祝福をくださるなら、それは公義に合わないでしょう。神様が私たちをご覧になるとき、神の子供たちが世の人よりも知恵があって、悟りがあって、優れてほしいと思うのですが、本人が努力もしないで、本人が怠けていたりするならどうでしょう?世の人々は必死に努力して誠実に働いているなら、神の子供だからといって怠けている人を祝福してくださることはできないでしょう。神の子供でありながらさらに誠実でまた努力して、公義に合う行いをしてこそ祝福を受けることができます。そうではない人をご覧になる神様は、どれほどもどかしいでしょうか。


祝福を与えたいと思って、癒してあげたいと思っても、器を備えていなければ神様はどれ程もどかしいでしょうか。神様はすべての権限を自分勝手に振るう方ではなく、立てられた公義に合わせてご自分もそれを守る方です。そうでなければ、世の人々が神様を恨んだり、神様に対してあれこれ訴えたりすることがあるでしょう。人々が神様の前でもしかして侮辱したりするなら、神様がもしすぐ懲らしめてしまったり、火で裁いてしまったりするとどうなるでしょうか?しかし神様は完全でり公義でも正しい方であり忍耐深くあられ、私たちのために待っておられる方です。だから私たちはその方を絶対的に信じて信頼できるのです。


でもある人は聖書に出てくる陶器師のたとえを読んで、神様の主権を誤解することがあります。ローマ9:21に「陶器を作るものは、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」とあります。神様を陶器師にたとえています。人は器です。陶器師は、用途に合わせて土を選んで練って、たっといことに用いる器も作り、つまらないことに用いる器も作ります。また出来が悪いものは割ってしまいます。同じように神様は、神様の摂理に合わせて人を選び用いる権限があり、悪を行う人を滅ぼす権威もあります。だからといって、神様がわざと人を悪くして悪い役割をするように仕向けたり、良い人にして良い役割を果たすようにされるのではありません。これを誤解してはいけません。神様にはそういう権限があっても、その権限を自分勝手に乱用する方ではありません。


ある人は、悪い性質を持って生まれた人もいるし、また自分で悪を行って罪を犯す人もいるのですが、世の人がそれについて神様がそうされたと誤解するかもしれません。でもそうではないのです。人は親の気を受け継いで、その心の地の基礎が作られて、育った環境や自分が選んだことで自分を作ったものであり、神様が任意でその心の地を良いもの悪いものにしたのではありません。神様が私たちの親を選んだのではなく、親が互いに愛し合って子供が生まれるのではありませんか?神様がすべてを決めるのではないのです。自然の理があるし、また親が親同士愛して子供を産むし、また親の気を受け継いで生まれるのです。良いところだけ受け継いで生まれる子供がいるでしょうか?そうではないでしょう。神様がどうしていちいち人を良い人、悪い人に分けて生まれるようにされるでしょうか?人は親の気を受け継いで、自分の基本的な心の土質を作るのですが、それよりも重要なことがあります。育ちながら自分が受け入れたこと、自分で選んだことによって、自分というものを作っていくのです。大人だけではなく子どももそうです。


この前私は、院長先生と一緒に映画を見たことがあります。アニメでした。「インサイドアウト」という映画でした。子供向けの映画だと思いますが、大人もそれを見て感銘を受けるそうで、見たことがあります。成長期の子供が、自分の感情の変化をアニメで表現したものだそうです。私はそれを見ながら霊・肉・魂の御言葉 、メッセージが思い浮かびました。そして人が、自分の自我というものをどんなふうに作っていくのかを考えながら見たら、霊的な原理と多くのところが合っていると思いました。そして一緒にいたイ・ミョン先生とその話をしました。そうですねと言いながら、人が成長しながら、こういうところによっていろんな影響を受けて、また自分が選んで、自分というものを形成するという話もしました。また子どもの時の教育も本当に大事ですねと言いながら、このように真理の御言葉に照らして話し合いながら、色々なことを悟りました。皆さんももしその映画を見たならば、もう一度真理と霊・肉・魂というメッセージに照らして考えてみたらと思います。そういうことがありました。


皆さん、私たちはいつも何を選ぶのかによって、それは自分に影響を与えるようになります。例えば子供の時、お母さんに叱られたとしましょう。その時 お母さんが私を憎んでいると悪い感じで傷ついてしまい、それがずっと残っているならばお母さんについて誤解してしまったり、叱られるのを恐れるようになります。でもある子供は お母さんに叱られたとしても、お母さんが私のためにそう言ってくれたという愛として受け入れるようになって、またそれを悪い感じで入力しないで、また叱られることは嫌だと思わないで、すんなり受け入れるようになります。すると、その叱られることによって自分がさらに正しくなる、また発展できる、そういうふうに肯定的に受け止めるようになるのです。そうするともう一度過ちをして叱られることもないでしょう。でもそうではなくて、ただ叱られるのが嫌で、またお母さんが嫌で、又お母さんが自分を愛してくれない、憎んでいるというふうに思ってしまうと、それが後で問題になったりするのです。


それですべてのことにおいて、否定的に受け入れてしまうのです。すると自分が人に対する時も同じようになるのです。ですから皆さんも、自分の感情とか自分の感じ、心の中の変化などに敏感に考えてみますように。過去、子供の時どんなふうに自分が育ったのか、どんな影響を受けたのか、じっくり考えてみると、自分というものがどんなふうに形成されたのかわかるでしょう。するとどういうところをどう直すべきか、どういうところが欠けているのか分かるようになると思います。例えば、人に叱られると本当に傷ついてしまい、また悲しんでしまい落ち込んでしまって、それで、それは否定的なこととしてずっと残っている人もいるし、同じように叱られたとしても、自分の過ちを認めてそしてそれによって自分はさらにそのところを直してさらに良い正しい人になれるというふうに思って、相手が指摘してくれたことについてありがたいと思うようになると肯定的な人になりますね。だから今の自分は成長しながら、自分がその時その時選んだことによって作られた結果になるのです。神様がわざと皆さんが成長するとき、悪い方に選択するように誘導されたわけではないのです。


聖書でも、十の災いの時、登場するパロ王はどうだったでしょうか?その人の心、そのものが悪くて頑なな人だったから、神様に逆らう方を選んだのです。神様がそんなふうに仕向けたのではないのです。でも神様はすべてをご存知だから、それぞれの人の心と器を見て選び、神様の摂理を成し遂げていかれるのです。だから神様を誤解してはいけません。神様は万物を作り人の生死禍福も司る方ですが、神様がわざと私たちを悪いふうに仕向けると思ってはいけません。何もかも神様のせいにしてはいけないのです。私たちは、善であり公義正しい神様を、決して誤解することがあってはいけません。本文でエリフが、「もし神がご自分だけに心を留めその霊と息をご自分に集められたら、すべての肉なる者が共に息絶え、人はちりに帰る」と言っています。これは自分の心にあることを表していることです。もし、エリフが神様と同じような権威を持っている主権者なら、絶対ヨブを許さないでしょう。そういう自分の主張、自分の考えでこんなふうに言っているのです。被造物のくせに創造主である自分より正しいと言うのかと言いながら、すぐ死の刑罰を下したでしょう。もしエリフが神様のような主権があるならヨブを許さないでしょう。


このように自分に悪があるから、ヨブが悪いから神様がヨブを打ったと思って決めつけて、神様の主権をむやみに自分で論じているのです。自分の心が悪いから、憐れみがないから、 神様もそうだろうと思い込んでいるのです。こういうことはよくあります。自分が見て相手は悪いのに、もし目上の人がその人を赦して機会をくださるなら、それが面白くないし嫌でしょう。だから、私が目上の人ならそんなふうにしないのにと思うのです。あの人は悪いのにひどい人なのに、なんであの人を赦してまた機会を与えるのか。厳しく責めてまた叱って、他の人々も気を引き締めるようにしなければと思う人もいるでしょう。でもそれは、自分の中に愛がないことを表しています。そういう時は黙々と自分を顧みて、自分が変えられるために努力しなければなりません。そうしないで、こんなふうにしなければ、あの人をそのまま放っておいてはいけないのにと、このように不満を抱いていくならば、悪だけを積んでいくだけです。


神様の心も悟れないのです。神様は忍耐深くあられ、限りない憐みと赦しの方です。絶対的な主権を持っているものの、ただ真理と善と義と光によって行われる方なので、私が完全であるからあなた方も完全になりなさいと言われるのです。もし神様が、ヨブのような試練をエリフが受けるようにされたなら、エリフはとっくに神様から離れてしまったでしょう。このように悪の多い人だから、ヨブに対しても無闇に決めつけて裁いて罪に定めているのです。私たちが正確に知っておくべきことは、自分の心に悪がなければ人を無闇に裁くこともないということです。自分が人を騙す人だから相手も騙すだろうと思うし、自分が嘘をついているから相手も嘘をつくだろうと思います。自分に盗む心があるから相手も盗むことがあると思い、自分が姦淫しているから相手も姦淫しているだろうと思い込むのです。しかし神様だけが人の心を正確に探り、その心を完全に知っておられます。ですからどんな状況でも、裁くものになって相手を無闇に裁いたり罪に定めることがあってはいけません。そして皆さんが誰かの相談にのったり訪問する時も、エリフのようにならないように気をつけてください。


神様が祝福を与えるために練っておられる人のところに行って、神様は過ちがない人には絶対に試練患難を与えないから、あなたにも何か大きい過ち悪があるでしょう。こんなふうに言ってはいけないでしょう。どうして問題が解決されるでしょうか。すると相手は気を落としてしまうでしょう。ですから御言葉を自分の考えで解釈したり、相手の現実に当てはめようとしてはいけないし、ただ聖霊に正確に働きかけられて行いましょう。主のしもべの皆さん、働き人の皆さん、聖徒の皆さんになにか問題がある時は、その問題を解決することができるように、アドバイスをしたりメッセージを伝えなければなりません。聖徒の欠けているところや過ちを責める立場ではなくて、その心に寄り添って、神様の憐れみと愛を持って、その人がどうすれば問題が解決されるのか、どうすればその人を助けることができるのかを、まずそれに焦点を合わせて助けましょう。霊的にその人が悟って立ち返るように説明は必要です。そして、その人のために祈ることが優先でしょう。


神様、誰々さんが今いろんな苦しみがあっています。病気があります。自分なりに備えたのですが、今回の夏のキャンプで癒されませんでした。何が問題でしょう?とこのように代わりにその人のために愛を持って、まず祈らなければなりません。そうしないで、その人のところに行って、「何を悔改めなかったのですか?」とか言ってはいけないのです。エリフのような人になってしまいます。かえってつらい思いをさせてしまいます。そうしてはいけないでしょう。その人のために愛をもって代わりに祈っていけば、聖霊様が教えてくださいます。その人にどんな霊的な問題があるのか、それを悟ったならば、それもストレートに言うのではなくて、気をつけて、「もしかしてこういうことがあるのではないか、顧みたらどうでしょうか?」とこのように、その人が自分で悟るように、知恵を持って説明することも必要でしょう。このような霊的な公式を持って正確に相談に乗ってアドバイスをしなければなりません。


そうしないで、相手の心も知らないまま自分が思い込みで言ってしまうと、相手が傷つくようになることもあります。またエリフは自分の心に悪が多いから、神様がヨブを懲らしめて打ったことは当然だと思って、ヨブを罪人扱いしたのですが、皆様は周りの人に対してどんなふうに考えているのか、見ているのか考えますように。あの人はひどい、あの人は悪が多い、あの人はたちが悪いとか、あの人は高ぶっているとか、このように自分が決めつけている姿はありませんか?そうではなくて、この人にはこんな良い面がある。この人はこれはよくやっている。この人はこの面では熱心だとか、このように良いところを見ればいいのに、どうして悪いところ、欠けているところだけ目に入るのでしょうか?それなら、エリフのように自分の心の中に悪が多いからでしょう。だからむやみに人を裁いているのです。そして明白な過ちだとしても、神様がその人を憐れんで、その人に機会を与えているのに自分にはそれだけの憐れみも愛もないから、あのような人は救われない、あのような人はひどい、懲らしめなければならないとか思ってはいけません。どれほど怖いことでしょう。恐ろしいことでしょうか。口に出さなかったとしても、ひょっとして心の中でそんなことを思ったことはないのか顧みますように。


結論です。愛する皆さん、エリフは自分で賢いと思って分別があると思い、神様の心をよく知っていると自負していました。しかし彼が言っている言葉を聞いてみれば、どれ程神様の心がわからない人なのかがわかります。神様の広い大きい愛も知らないし、何よりも神様が人をさばいてはならないと言われたのに、その真理も犯している人でした。どれほど愚かな姿でしょうか。私たちはエリフの姿を通して、自分が知っているという思い込みを打ち砕かなければなりません。天よりも高く海よりも深い、全宇宙を抱いておられる神様の心、御心をどうして人が理解できるでしょうか?そうしながら相手を教えようとしている姿がどれほどあったでしょうか?この人はこれが問題だ、あの人はあれを直さなければと、裁いていた姿はなかったでしょうか?


自分なりに、自分は悪をある程度捨てたから、相手を教えることができると思いますか?そうではありません。神様が望んでおられる善と愛の水準まで、次元まで、どのくらい達しているのか顧みますように。自分によくしてくれて、自分に賛成してくれる人にはよくしてあげて、自分のことに反対して、自分に良くしてくれない人にはそうしないなら、世の人と変わりないでしょう。そうしておいて、自分が真理をたくさん知っていると思ってはいけないのです。私たちは、愛する牧者について話をするときも気をつけなければなりません。また牧者が言われたことを伝えるときも、気をつけなければなりません。牧者の深いその愛と心を知らないままそれを引用して、間違って伝えることがないようにしなければなりません。私も今になってその時の牧者の言葉と行いを、その時はそんな意味だったんだと、このように深く悟るようになりました。


私は1998年の試みのあった時と最近の教会の試練の時、神様の愛と心、牧者の善と愛も前よりは、最近の試練の時、さらに深く感じて悟るようになりました。1998年の時教会の試みがあった時もちろん神様の御心について、私が自分の考えで疑問を持ったり おかしいと思ったことはなかったのですが、神様の深い御心 また牧者の限りない善と愛について、私が深く悟ることはできなかったのです。全部が理解できなかったのです。もちろん私がむやみに、あれこれと思ったことはないのですが、でも最近それを少しずつ悟り理解していくようになりました。皆さん、私たちはこのようにこれからもさらに深い神様の善と愛を悟って、深い神様の御心を正確に悟っていかなければなりません。神様の善にさらに似ていかなければなりません。だから私たちは神様の御心を正確に理解しようと努力しなければなりません。主の心に似ていこうとしなければなりません。ビリビ2:5に「あなた方の間ではそのような心がまえでいなさい。それはキリストイエスのうちにも見られるものです。」とあるように、低くなって仕えて聞き従って自分を捨てていく時、主に似ていくでしょう。すると神様の心も正確に知るようになるでしょう。神様はそのように主に似て父の心を知って、善と愛をもって全ての人に仕える人を望んでおられます。私たちはヨブ記講解を通して悟り変えられて神様に喜ばれる子供になりますよう、主の御名によって祈ります。

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