ヨブ記講解87 - 私の思いと神様の思いは異なる(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記30:21
愛する皆さん、前回はヨブが神様の前でつぶやきながら、全てを神様のせいにしている姿を見ました。しかし神様はヨブを愛するから、ヨブにもっと大きい祝福を与えるために彼を練っておられました。第三ヨハネ1:2に「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあるように、全ての祝福の秘訣は魂に幸いを得ることにあります。魂に幸いを得ていれば、つまりすべての悪と真理と反対のものを捨てて、心を善と真理で満たしたほど健康、物質、能力もついてくるようになります。ヨブ記には魂に幸いを得る方法について記されています。なぜ神様がヨブを練ってくださったのか、ヨブはどうやってこの試練の過程を通して二倍の祝福を受けたのかを悟れば、人生の色々な問題の解決、問題の答えが得られるでしょう。
これまで神様はヨブ記講解を通して、人がなぜ祈っても答えを受けられないのか。神様の御目に善と悪、真理と反対のものは何なのか。どうすれば神様を見つけることができるのか。真の義とは何かなど、いろんな質問について答えをくださいました。今日もヨブが言っていることを調べながら、人の方で思う義と神様の義が何かを見分けて、人の思いと神様の思いがどのように異なるのかを伝えます。メッセージを聞いて、肉の思いと自分の義を発見して完全に打ち砕いて、神様が望んでおられる義に変えられますように。
ヨブ記講解では、神様の思いと人の思いが異なることについて悟らせています。ヨブが正しいと思っていることと、神様がご覧になるときの正しいことの違いについて伝えています。ヨブは、自分が正しく神様は正しくないと言っているからです。それで繰り返して、人の義は神様の義と違うことについて説明しています。ヨブだけではありません。皆さんの姿にもそういうものがあるかもしれません。「神様、これについて私は自分が正しいと思います。あの人が間違っているのではないですか?」とばかり言っているならば、問題は解決されないのです。皆さんが正確に、何が義なのか、何が真理なのかを、基準を持って自分を照らさなければなりません。そして自分の心の中で、私は合っている、私は正しいとばかり思っていてはいけません。このメッセージを通して、問題が解決される原理や公式を悟りますように。心の中で、自分が神様との義と合わないとか異なるということを感じたならば、その原因は何なのかを正確に調べなければなりません。ただ自分が正しいと思って自分の義を主張していれば、答えを得ることができません。ヨブがそのような姿でした。
しかし私たちは、自分の義を主張しないで、神様が見られる時正しいことを行わなければなりません。全く聖なる者とされて深い次元に入るならば、神様の思い神様の義にだんだん近づいていくことであり、それで神様の御心と一致すればどれほどいいでしょうか。しかしその前は異なるということを認めなければなりません。神様にどのくらい似ていますか?だから、神様の前で自分が正しいと主張している姿は愚かな姿なのです。神様が、これが正しいと教えてくださることをいつも基準にしなければなりません。でも真理を知っていても、実生活では適用されない時もあります。しかし皆さんは、日常生活でも人間関係においても教会での働きでも、いつも神様の思い、神様の義を基準にして、ヨブ記講解で聞いたことを適用してみてください。このような霊的な原理、公式を悟ることは大きい祝福です。本文を読むと、ヨブは神様を悪い神様のように表現しています。
ヨブ記30:21です。
あなたは、私にとって、残酷な方に変わられ、御手の力で、私を攻めたてられます。(ヨブ記30:21)
ヨブは、ひどい皮膚病による体の苦しみだけではなく、心もまた精神的な面まで苦しんでいました。頭からつま先まで満身創痍であり、頼る人もいないし、心を分かち合う人もいないから、みじめで寂しくて苦しかったのです。辛かったのです。このようになった原因が神様にあると思っているから、ヨブは神様の前で不満をぶちまけてつぶやいているのです。ここで「御手の力で私を攻めたてられます。」とは、神様が、大きい力で一方的にヨブを抑えつけているとヨブは表現しています。ヨブは心がひねくれているから、神様に対して良い表現を使わないのです。私にとって残酷な方だと、御手の力で私を攻めたてておられると、このように神様が残忍な方のように表現しています。
しかし皆さん、神様は愛です。罪人を救うためにひとり子を十字架に渡してくださった神様です。それなのに、どうして子どもたちを残酷に攻めたてて迫害するでしょうか?ノンクリスチャンは聖書を読んで、神様は独裁者だとか、自己中心的だとか、自分だけに仕えなさいと言うと言いますが、そうではありません。第1コリト2:13に「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」とあるように、聖書は、御霊に動かされて読んでこそ霊的な意味が分かります。人が自分の知識や考えで聖書を読むなら、真理を誤解するようになります。イザヤ55:8-9に「わたしの思いはあなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。―主の御告げー天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いより高い。」とあります。
私たちが信仰生活をしていても霊的に悟らなければ、神様の心と人の思いが違う場合がたくさんあります。ヨブも肉の思いに遮られて、神様の心がわからなかったし、神様がなさることが自分の考えに合わなかったから、もどかしかったのです。真理と、真理と反対のものは互いに合わないように、神様の思いと肉の人の思いが合わないことは当然です。神様は、従順が、聞き従うことが生贄に勝ると言われました。人の考えに合わせるのではなく神様の御言葉に聞き従うことを言われました。聖書を読むと人が自分の思いではなく、神様の御言葉に聞き従って、答えを受けて栄光を捧げた場合がたくさんあります。新約聖書と旧約聖書でそれぞれ一つずつ例をあげましょう。
まず旧約聖書に出てくるアラムのナアマン将軍です。ツァラアトに侵された彼は、それを癒されるために、イスラエルにいるエリシャのところに行きました。ところがエリシャは会ってくれなかったし、ただ使いをやってこう言いました。「ヨルダン川に行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすればあなたのからだが元どおりになってきよくなります。」と。ナアマンはエリシャが言ったことが信じられなかったし、自尊心が傷つけられて自分の国に帰ろうとしました。しかし、しもべたちが、「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ彼はあなたに『身を洗ってきよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」と言ったらすぐ思い直して、神の人の言葉に聞きしたがったら実際に癒されました。このナアマン将軍の姿は、最近癒しの集会でメッセージを伝えた百人隊長の姿に似ています。
百人隊長は、自分のしもべの病気を治していただくためにイエス様のところに来ました。しもべを愛する、大事に思う姿がありました。今このナアマン将軍も、しもべの言うことを聞き入れたのですね。自分のしもべ、目下の人が助言する時それに耳を傾ける、そのような人でした。普段からナアマン将軍としもべたちの関係が良かったことがわかります。このように普段からしもべに対して権威を振るったりしなかったのです。へり下っていて、その助言を聞き入れるような広い心寛大な心を持っていました。このようにナアマン将軍には善がありました。周りの人や目上の人が何か助言をしてくれるとき忠告する時、心に悪が多い人は、それを拒否したり聞こうとしなかったりするのです。しかし反対に、ナアマン将軍は心に善があったから、このように、しもべたちの助言にも耳を傾けたのです。
それで従順という行いが出てきました。このように神様の御言葉が自分の思いに合わなくても、聞き従った時、奇跡が起こりました。聞き従うことは聞き従える時、するのではありません。聞き従いにくい事、聞き従うことが難しい時に聞き従うことを、神様は喜ばれます。信仰が成長すれば聞き従えないことはありません。神様が命じられることは全部素直に聞き従うようになります。自分にはできないことだけれど嫌々ながらするのではありません。それでただ神様の御言葉に聞き従うだけではなく、神様の心を推しはかって聞き従うようになり、神様に喜ばれることをするようになります。ですから自分の利益を求めて、神様がこうしなさいと言われるのに聞き従わない人は、どれほど神様の前で心の悪い人でしょうか。ですから自分の思いを打ち砕かなければなりません。神様の御言葉にただ喜んで聞き従わなければなりません。神様を愛するなら従順という行いが伴います。
次に、ペテロがイエス様の弟子として召される前のことです。漁師だったペテロは一晩中漁をしたのですが、魚が取れませんでした。イエス様がペテロに深みに漕ぎ出して網を下ろして魚を取りなさいと言われた時、ペテロは「先生私たちは夜通し働きましたが、何一つ取れませんでした。でもお言葉通り網を下ろしてみましょう。」と聞き従いました。そしたらたくさんの魚が入って網は破れそうになりました。もしペテロが「先生、漁は私たちの得意な分野です。夜通し働いて今疲れていてもう一度漁に出ていくことは無理です。行けません。」と言って聞き従わなかったなら、神様の御業を見ることはできなかったでしょう。
このように昔の信仰の人々は、神様が言われた時自分の思いに合わせたのではなく、ただアーメンと言って聞き従いました。それ故に、しるしと不思議が現れて神様に栄光を捧げて、神様の業を行うことができました。自分の利益を求めてすぐ目の前の現実だけを見るならば、神様がなさることがじれったいと思うかもしれませんが、神様のなさることには必ず理由があることを悟らなければなりません。
例えば、神様がイスラエルの民をエジプトから連れ出してカナンの地に導かれた時、なぜ葦の海の方に行くようにされたでしょうか?前には巨大な海があって後ろからはエジプトの軍隊が追ってくる状況で、人の思いを巡らすならどれほど辛いでしょうか?もどかしかったでしょうか?もし神様が海ではなく他のところに導かれたなら、逃げていたかもしれません。でもこれは人の思いです。出エジプト14:31に、「イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。」とあります。
イスラエルの民は、葦の海を神様が分けてくださったので、乾いた地を歩いて海を渡りました。しかしイスラエルの民を追ってきたエジプトの軍隊は、どうだったでしょうか?その海の中で死んだでしょう。それを見たイスラエルの民は、神様の大いなる御力を見たのです。このようなことによって民は主を恐れ、また主とその僕モーセを信じるようになりました。イスラエルの民は、エジプトに下された十の災いをはじめ、葦の海が分かれる驚くべき御業を見て、神様がモーセと共におられること、自分たちを守ってくださることを確信できたのです。
葦の海のところに導かれたイスラエルの民が損をしたことはありませんね。前に葦の海があって、後ろからエジプトの軍隊が追ってきた時は恐れたかもしれませんが、神様が海を分けてくださり驚くべき御業を見たから、神様を信じて神様を褒めたたえました。つまり現実を見ないで神様を信じれば、神様が祝福してくださることを悟るようになりました。それならその後からは、試練にあっても理解できないことでも神様は信じるべきでしょう。ではイスラエルの民はどうしたのでしょうか。神様の力で葦の海を分けてくださった後は、すぐ聞き従って神様の御心に従いましたか?出エジプト第一世代がそうしたならば、カナンの地に入れたでしょう。でもそうしませんでした。だから神様もすぐカナンの地に導かれたのではなく、荒野で四十年という期間、訓練を受けるようにされました。なぜでしょうか?神様は人の心をとてもよく知っておられるからです。
イスラエルの民は葦の海を渡った後、荒野で生活をする時、岩から水が出て天からマナとうずらが降ってくるのも見ました。葦の海の前で、人の思いでは神様の前につぶやきました。十の災いを見て、ゴシェンの地で守られてエジブトから安全に脱出できたのに、葦の海の前では、神様の前でモーセに神様に立ち向かったでしょう。でもモーセの信仰によって葦の海が分かれて、その海の渇いた地を歩いて渡り、後ろに追ってきたエジブトの軍隊は水の中で溺れて死にました。それを見た時は、神様の前に栄光を捧げて賛美しながら喜んで踊っていました。それならその時からは、神様を全面的に信じていけばいいでしょう。人の思いと合わなくても、神様の前に不満を抱きつぶやいてはいけないということを心に刻んでいたならば、カナンの地に入れたのに、出エジプト第一世代はそうしませんでした。水がないとつぶやいて、お肉が食べたいとつぶやいて、モーセに立ち向かっていました。その姿が皆さんの姿にあるかもしれません。
人の思いは神様の思いと異なるということは、私たちがよく知っている聖句ですが、皆さんの日常生活ではどうでしょうか?今日神様の御業を体験して感謝して喜んだのに、明日自分に試練がやってくると、また神様の前につぶやくのが人の心です。そのようなイスラエルの民の姿が、今の私たちの姿かもしれません。イスラエルの民は驚くべき御業を数え切れないほど体験したのに、心が変えられませんでした。神様の栄光を見た時は喜んで賛美したのですが、試練にあったら、すぐつぶやいて不満を抱いてモーセに立ち向かい聞き従わなかったし、偶像を作って神様が御怒りを燃やされるようにしました。
しかし神様は彼らを見捨てないで、彼らを救って変えさせて信仰を植え付けようとしました。そうでなければ、彼らはカナンの地に入った後もすぐ神様を裏切り、偶像に仕えるようになってしまうからです。これが神様のご計画による摂理でした。すぐカナンの地に入れたら、すぐ彼らが神様を裏切って偶像に仕えるようになってしまうから、神様は荒野で四十年間訓練を受けるようにして、信仰を植え付けてくださいました。変えられる機会を与えてくださったのです。だからすぐカナンの地に入れたのではなく、真心と霊的な信仰を持つように機会をくださいました。しかし彼らは変えられなかったし、出エジプト第一世代の中では、ヨシュアとカレブだけがカナンの地に入ることができました。
皆さんはこのようなことを教訓として心に刻んでおかなければなりません。自分の日常生活、信仰生活にも適用しなければなりません。新しいエルサレムに行く旅路の中で、このような分野をいつもチェックしていなければなりません。今日神様の御心に従っているのか、喜んで感謝しているのか、自分が不利な状況に置かれた時、もしかして不満を抱きつぶやいているのではないか、顧みますように。ある人は神様にこれだけ答えてくださるなら、一生懸命に忠実に奉仕もします。御言葉通りに生きますと祈って断食をするとしましょう。それで神様が答えてくださればその告白通りにするでしょうか?最初はするかもしれませんが、その心が続くでしょうか?神様は人の心が移り変わること、裏切ること、ずる賢いことをよく知っておられます。ですからすぐ答えをくださらないで、まず心が変えられるのを待ってくださる場合があります。
牧者が私たちと共におられるなら、牧者が帰って来られるなら、全ての問題が解決されて、全ての試練が終わって、新しい聖殿に入ると思ったでしょうか?神様はそうではなくて、私たちが試練の時に変えられるように、私たちの信仰を見せるように、それを望んでおられました。もしかして牧者が帰って来られたらその時から努力すればいいとか、そうすればなんとかなるだろうと思って怠けていた姿はありませんか?でも神様は、そうしてでは新しいエルサレムに行けないと悟らせてくださったのです。そして今、牧者が先に行かれて、私たちがそれによってさらに変えられるために努力して信仰を見せるように、私たちにより良い機会をくださったのです。
私たちの試練の時の心がどうだったのか、顧みますように。祝福を受けたら変えられますではなくて、まず心が変えられてこそ祝福を受けることができます。神様の前で心が変えられることは、後でとかではありません。今すぐそうでなければならないのです。ですから後で後悔しないように、今与えられている機会をこのチャンスを逃さないで、今変えられますように。神様の思いと人の思いは異なります。神様が導いてくださる道が、私たちの目では理解できない時もありますが、私たちは神様の導きを信じて、神様が私たちに良いものをくださることを信じて、神様の導きにただ聞き従っていかなければなりません。そしてその過程で自分を顧みて発見して心が変えられなければなりません。
ダビデの場合を調べてみれば、神様の思いと人の思いが違うことがわかります。少年ダビデは、全イスラエルの兵士が恐れていたペリシテ人のゴリアテを投げ石で倒し、打ち殺しました。彼は羊飼いだったのですが、万軍の主の御名に頼る信仰があったので大胆に立ち向かいました。このような信仰の素晴らしいダビデだったので、神様は彼を王に立てることにして、サムエルを遣わし油を注ぐようにしました。サムエルがタビデの家に行った時どうだったでしょうか?タビデには兄が何人もいて、皆見た目も良く素晴らしい人でした。人の目ではそうでした。でも神様の御目には違ったのです。それで神様は他の兄弟ではなく、末っ子のダビデを王として選び油を注ぐようにされました。
ところが、ダビデは王位につくまで十年以上の歳月、サウル王に追いかけられて、命が危なくなるいろんな苦しみに遭いました。荒れ果てた荒野で生活をしたり、食べるものがなくて飢えたり、敵国に行って気が狂ったふりをしたり、いろいろ苦しみがありました。人の思いでは、神様がダビデに油を注いでくださったからすぐ王に立ててくださればよいのに、なぜこのように苦労させるのかと思うかもしれませんが、それはダビデのためでした。ダビデにとってはその試練の時間が祝福だったのです。ダビデはその時間の間、神様に頼り感謝し、賛美し、相手を許し愛する方法を学びました。タビデにとってその苦しみは、さらに大きい器、完全な人に変えられる、立派な王の資質を備える祝福の踏台でした。
このように人の思いと神様の思いは違います。人が見て、私ならこうしただろうと思うかもしれませんが、真理を悟ったら神様について正しくわかるようになります。ヨブが神様を誤解したように、神様は力で攻めたて迫害する方ではありません。愛の神様であり公義の神様であり祝福を与えたいと望んでおられる神様です。ですから私たちは真理だけがまことであることを悟って、神様の御心を知って真理を悟るように努力して、信じて聞き従わなければなりません。またどんな試練にあっても不平不満を言って思いを巡らして、神様との間に隔ての壁を作ってはいけません。へり下って自分を顧みて善と真理を基準にして自分を発見すれば、神様のご計画を悟るようになります。
試練の時は目の前が真っ暗に見えるかもしれません。しかし信仰で見れば神様がその道を開いてくださり、進むべき道が見えるようになります。信仰の人はどこに行けばいいのかわからなくても、真理がある場合その真理だけを行います。真理は変わらないものだからです。一瞬一瞬真理を選んでいけば、それが道になるのです。そうしていけば、神様がどのように自分を導いてくださるのかが、だんだんはっきり見えるようになります。私もそうでした。今までの過程を振り返ってみれば、現実だけを見れば、どうしてこのような試練にあっているのかと思う時もありますが、真理を選び神様の御言葉から答えを得ていくようになります。そうすればどんなことがあっても心には平安があるし、時間が経って振り返ってみれば、そのような過程を通して信仰が成長したのです。
その時は知らなかったのですが、後で悟るようになることもよくあります。だから神様の御心を知らない時も、理解できない時も、ただ真理を選び行くのです。私たちには聖書があります。聖書にある御言葉通りに従えばいいのです。何々をしなさいというはっきりしたこのようなガイドラインがあるから、それに合わせていけばいいのです。他の人に対しても同じです。人の目には御言葉通りに生きない人もいて、変えられるのが遅い人もいますが、神様はその人が変えられるように最後まで恵みをくださる方です。ですから誰も裁いたり罪に定めたりもしてはいけません。神様が見る時の人と、自分が見る時のその人の評価とか価値は違います。神様が正しいと言われるのに自分は違うと言ってはいけないのです。続く本文を見れば、ヨブは神様が自分をどれほど無慈悲に扱ったのかを例えを上げて説明します。
