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ヨブ記講解86 - 祝福を与えたいと望んでおられる神様(下)

3 日前
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記30:20


試練に対しても同じです。試練の過程に遭うようにしてくださる神様の心を知ってこそ、速やかに乗り越えることができます。自分の過ちによるものならば速やかに悔い改めて、神様との間の隔ての壁を壊して、また祝福を受けるための試練ならば、喜び感謝を持って勝利すればいいのです。もし罪の壁によって試練に遭っている人が、これが終わったら祝福が来るだろうと思って、悔い改めもしないでただ時間を過ごしているならどうでしょう。試練は長引くでしょう。子供が親に叱られる時その理由がわからなければどうでしょう。宿題をしなかったからか、悪いことをしたからか、親の言うことを聞かなかったからか、その理由を知ってこそ変えられるようになります。それで、あとは叱られるのではなく褒められるような子になりますね。​


このように皆さんが試練に遭っている時、それが何か罪とか過ちによるものなのか、そうでなければ神様が祝福をくださるためのものなのか、さらに強くなるようにするためなのかを見分けなければなりません。よくわからない時は、まずは自分を低くして、自分を顧みて、悔い改めようとしなければなりません。私はいろいろ自分を顧みても、特別に何か過ちがあるのでもないのに、なぜこのような問題が起こったのか。罪を犯していないならば、自分が善を行っているのか、愛を行っているのか、犠牲になっているのか、譲っているのかなどをチェックしてみてください。悪を行っていないだけではなくて、真理・善・愛を行っているのかをチェックしてみれば分かるでしょう。そうすれば自分の欠けているところが見つかると思います。​


それで自分に欠けているところがあるならば、その原因を見つけたから、そのために悔い改めて祈ればいいでしょう。ダビデが試練にあった時、どうだったでしょうか?サウル王がダビデを殺そうと追いかけていたのですが、ダビデはその過程を通して、さらに心を広くして善と愛を満たしていきました。だから結果的には、それはダビデにとって祝福でした。これは誰もが受けるようなものではなくて、それだけ器が大きい人のことですね。皆さんも、ただ私は誰かを憎んでもないし、何か大きい罪を犯してもいないしと思ってはいけません。本当に自分は愛を行っているのか、犠牲になっているのか、そして、広い心でどんな人とも平和を追い求めているのかなどを、チェックしてみてください。そして、自分は毎日どのように祈っているのか、そして自分の熱心はどうなのかを顧みますように。誰かに誤解されたからといってすぐ落ち込んでしまい、また祈りの力も弱くなってしまい、熱心も冷めてしまう。そういう姿があるならば、それも神様との間の隔ての壁になっているかもしれません。善と愛がないからなのですね。


例えば、誰かが自分をあれこれ苦しめるからといって、その人を恨んだり憎んだりするのではありませんか?自分はただ罪を犯していないだけではなく、どのくらい真理を行っているのかをチェックしてみますように。そのようにチェックしてみれば色々引っかかるでしょう。それで真理を基準にして、いつも自分を顧みなければならないのです。それで自分を発見したならば悔い改めてから、感謝して喜ぶことが重要です。感謝して喜ぶことは信仰があるという証拠ですね。すると神様がそれを信仰と見なしてくださるし、それで結果的に祝福への道に導かれます。ヨブの場合は、何か罪があってこのように試練にあったのではありませんが、神様が彼を練るしかない理由が今明らかになっていますね。耐えられない試練、苦しみにあったら、本性の中にあった悪がこのように表に出てきたのです。本性の中の悪は自分では発見することができないから、神様がこのように試練の過程を通して明るみに出されるようにしてくださいます。​


ヨブは上辺では、その行いは神様の前で潔白で正しかったのです。でも本性の中には悪がありました。だから神様はこのような試練の過程を通して、その本性の中の悪が出てくるように、明らかになるようにして、それを捨てるようにしてくださったのです。そうしてこそ、本当の祝福の人、御霊の人になれるからです。いくら上辺が正しく見えても、心の中に悪があるなら本物ではありません。泥が混じった川の水を汲んできて容器に入れておいて、一日くらい置けばどうなるでしょうか?泥が下に沈んでいるから上のところはきれいな水のように見えますね。でもその容器をゆすってみればまた泥まみれになってしまいます。この水が本当にきれいになるためにはどうすべきでしょうか?その泥を取り除かなければならないのです。そして、目に見えないいろんな菌とかウイルスとかあるかもしれないでしょう。それまでも全部取り除かなければならないのです。 ​


私たちが飲んでいるムアンの水はどうでしょう?いろいろ検査してみても、その中には良くないものは混ざっていません。ムアンの水は定期的に細菌の検査をしています。外部の業者に任せて二つの会社が定期的に点検をしています。細菌はゼロです。ウイルスとか悪いものが入っていません。神様の恵みと力ではありませんか。私たちはこのように神の力を体験しているから、どれほど感謝でしょうか。だからこのようにきれいな水になるためには、目に見えるところだけではなく、下に沈んでいるところまでも取り除いて、また目に見えないところも取り除かなければなりません。人の心も平安な時は穏やかですね。心の中に悪が沈んで潜んでいるから、それが表に出ていないから、ないように見えます。でも試練や苦しみにあった時、心の中にあった憎しみ、憤り、妬みなどが表に現れるのです。このようなものを発見したならば、完全に捨ててこそ、美しくて聖い霊の心になるのです。


自分の心の中に移り変わるところがあるのか、またずる賢いところはないのか顧みますように。平安な時、恵みに満たされている時は、そういうものは目に見えません。そして恵みに満たされている時は、周りの人とも仲良くできるのですよね。そしてそうすれば、心に深くあるこのような悪が出てこないのです。でも、試練にあったり苦しみにあったりすれば、中にあったものが出てくるのです。それで自分でもびっくりします。私にこういう姿があったのだろうか、こういう心があったのだと思いながら、驚く時もありましたね。皆さんそれを忘れないでください。もう今は平安だから、もう穏やかだからいいと思ってはいけません。自分の中に潜んでいる悪、自分の中に深いところにある悪を発見したならば、捨てなければなりません。そして妬み、そねみというものも、ひどい妬みとか嫉妬とかではなくて、人の着ている服を見て羨ましいなと思ったり、ある家庭を見ながらいいなとか思うことも、妬みそねみの属性なのです。だからそのような細かいところもチェックしなければなりません。神様の恵みによって満たされていた時、また、牧者の空間の中にいた時は、私たちはその恩恵を受けていましたね。でも今はどうでしょうか?自分の信仰の現住所を見ていると思います。


自分の本当の姿を見ていると思います。それでその心にある悪を完全に脱ぎ捨ててこそ、私たちは聖められることができます。雰囲気とか環境によってみんながやっているから、私も一緒に流されていた姿があったかもしれないのですが、雰囲気によってああしたりこうしたりしている姿もあるでしょう。だからそれが本物なのかをチェックするためには、試練というもの、テストというものは必要なのです。だからこういうきっかけによって、私たちは自分を発見することができるから感謝しなければなりません。ですから自分の悪を発見したならば、気を落としたりしないで、反対に喜んで感謝しながら、さらに火のように祈って聖霊に助けられて速やかに変えられましょう。


続く本文を読むとヨブ記30:20です。


私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。(ヨブ記30:20)


ヨブのこの話を聞くと本当にもどかしいですね。ヨブが叫んでも神様が答えてくださらない。ヨブが立っていても神様が目を留めてくださらない。どれほどヨブのことを思うともどかしいでしょうか。大礼拝の時伝えたように神様に叫ぶと、私がここにいると神様がすぐ答えてくださればいいのに、ヨブはそうではなかったと言っています 。聖書を読むと神様はヨブが言っているような方ではないことがわかります。マタイ7:7に「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」とあります。箴言8:17に「わたしを愛する者をわたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見つける。」とあります。またエレミヤ29:12-13に「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」とあります


このように私たちが求めれば与えてくださり、主を呼び求めて祈れば、心を尽くして神様を捜し求めるなら見つけると言われました。それなのにヨブは、神様に向かって叫んでいたのですが、神様から何の答えもありませんでした。その理由は何でしょうか?神様は真理に答えてくださる方だからです。皆さん癒しの集会の時聞いたでしょう。百人隊長がイエス様に初めて会った時、イエス様に祈りをお願いしたらイエス様はどうされましたか?「そうなのちょっと考えてみよう。あなたは異邦人だから。」と言われたのではありません。「すぐ行って直してあげよう。」とすぐ答えてくださいました。なぜそうだったのかメッセージで聞きましたね。どれほどその百人隊長の心が良いものだったのか。その心に素晴らしい善があったから、信仰があったから、神様はすぐ答えてくださいました。このように神様は善、真理、愛に答えてくださる方です。詩篇11:7「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。」とあります。マタイ5:8に「心のきよいものは幸いです。その人たちは神を見るから。」とあります。つまり神様の子供たちが、正しくて聖い心で神様を呼び求める時、神様を見つけることができるのです。また神様の摂理によって、神様が望んでおられるときは答えてくださいます。


しかし今は、神様がヨブに答えてくださるような時ではありません。なぜならヨブの悪がこれからも表れるようにするためです。普通の人なら、ヨブのような厳しい試練に遭うならば耐えられず、神様を離れてしまうでしょう。だからそういう人に対しては、神様もヨブのように厳しい試練を続けて遭うようにされるのではなくて、ちょっとだけ試練に遭うようにして、またちょっと休ませてから、またちょっとだけ試練を与えたりするのです。ヨブのような心ではないからですね。それでちょっと試練に遭ってそれで自分を悟って変えられたら、その後また次の段階へと、このように少しずつ少しずつ導いてくださるのです。人は普通メッセージを聞いて、御言葉を聞いて熱心になって熱くなったとしても、ある程度時間が経ったらまた冷めてしまう。このような性質があります。そういう時、神様は試練に遭うようにされて、その人がそこからさらに成長するようにしてくださるのです。


でもヨブほどの厳しい試練に遭うようなケースはあまりありません。でもヨブは本当にまっすぐな良い心だったので、神様はヨブが耐えられることを知っておられたから、心の本性の中の悪を全部明らかにされるようにして、それで神様が悟らせてくださると、ヨブはすぐ悔い改めることを知っておられたからこのようにされました。だから皆さん、ひょっとして私にもヨブのような厳しい試練が来たらどうしようと心配しなくてもいいです。そのように心配する人には、耐えられない試練に遭うようにはされないからです。でもどんな試練にあっても、喜び感謝し神様を褒めたたえて祈る人ならば、神様がどうなさるでしょうか。神様がそれに合わせて練ってくださって、速やかに悪を発見して捨てるようにして祝福してくださるでしょう。


ヨブは今、「自分は叫んでいるのに神様は答えてくださらない。自分に目を留めてくださらない。」と言っています。これは、それでも神様を認めている表現です。ヨブは神様を恨んでいるように嘆いていても、実は神様から離れていないのです。なんとしてでも神様にすがりついているのです。神様を体験したり深く交わったことはないのですが、正しい良心のため神様への信仰は変わらなかったのですね。試練の時も、神様を離れることはありませんでした。もし皆さんがヨブのような試練に遭うなら、本当に神様を否定しないで最後まで耐えられるでしょうか考えてみましょう。


例えば皆さんが神の国のために一生懸命忠実に仕えて奉仕もして、十分の一献金も感謝献金もたくさん捧げたとしましょう。そして教会で認められる立場になって、多くの聖徒に愛されて祝福の証もあふれて、神様に栄光を捧げていました。しかしある日突然、皆さんが大きい病気にかかりました。愛する子どもたちが亡くなりました。事業もつぶれてしまい全財産がなくなりました。そして、周りの人々が皆さんを見る目も前と違います。あちこちで皆さんの悪口を言って非難しています。ある人は慰めるために来ては、皆さんにきついことを言いながら攻撃します。あなたが大きい罪を犯したからこんな災いにあったでしょう。早く悔い改めなさいと言います。また皆さんが普段施しをして助けていた人々は、今は皆さんの恵みを忘れてしまって、皆さんに対して立ち向かって冷たく接しているとしましょう。それなら皆さんはどう考えるでしょうか?


「神様、私はこれまでこんなに忠実に仕えていて施しもたくさんしたのに、なぜこんなに厳しい目に遭うようにされるのですか?」と思いますか?あるいは、「神様はもうおられない」と思って遠ざかってしまうでしょうか?ヨブのように嘆きながら周りの人と言い争うでしょうか?そうでなければ、そんな状況でも心から「神様、感謝します。」と告白しながら祈るでしょうか?皆さん、皆さんが教会の試練がある前、このようなメッセージを聞いたならば、皆さんは、「はい。私はいくら私が低くなっても感謝します。喜ぶでしょう。」と堂々と言った人がいるかもしれません。でも教会の試練の時を通して、今の自分を顧みたらどうでしょう?祈りを休んでしまい、熱心が冷めてしまい、いろんな人との関係で悩んだり、また人を憎んだり、恨んだりしていた姿があるのではありませんか?ヨブのような厳しい試練でもないし、比べてみれば私たちは本当に軽い試練にあったのですが、でもあれこれそのような自分の悪が現れたのではありませんか?


今ヨブのことだけを思うのではなくて、自分はどうだったのかを顧みますように。教会の試練の時、自分が直接何か言われたことがなくても祈りをやめてしまったり、熱心が冷めてしまったり、落ち込んでしまったり、周りの人に対して色々噂話をしたりしたことはないのか、顧みますように。本当に徹底的に低くなって、自分の信仰をチェックしてみますように。私たちはどんな境遇に置かれても、神様を否認したり恨んではいけません。喜んで感謝して祈らなければなりません。このような心なら、神様が試練に会うように練る必要もないでしょう。もしこのような心なのに試練に会っているならば、それは祝福を受けるためのものでしょう。


しかも今は旧約時代とは違います。聖霊が共におられる恵みの時代です。ヨブは神様を直接見つけたことも体験したこともないし、その時代には聖書があったのでもありません。でも私たちは聖霊を受けました。また命の御言葉があふれる環境で、生きておられる神様の力をたくさん見て聞いて体験しているのではありませんか。神様を見つけたことも体験したこともないヨブとは違います。ですから私たちはどんな状況に置かれても良いものを与えてくださる神様、全能なる神様、私を愛してくださる神様を信じて喜んで感謝しなければならないでしょう。


結論です。愛する皆さん、神様は私たちを祝福してあげたいと望んでおられます。神様が私たちにくださる大きい祝福は、魂に幸いを得る祝福です。魂に幸いを得ているように、この地上でも天国でも全てのことで幸いを得、天国でも神様の御座の近くにいて、永遠に幸せを味わうからです。


ですから、悪はどんな悪でも避けて、魂に幸いを得るように、時には愛の鞭で練って鍛えてくださるのです。皆さんが試練にあっていても、神様の愛を信じながら神様がくださる祝福を信じているなら、信じているためには火のような祈りと御言葉がなければなりません。その祈りと御言葉の力によって、全ての試練に勝ち抜くことができます、なぜ自分が試練にあっているのか、その原因を霊的に悟って全ての状況で感謝して喜ぶならば、それは光だから闇が妨げることはできないのです。試練にあって自分の悪を発見してそれを完全に脱ぎ捨てて真理で満たすなら、新しいエルサレムに入り、父なる神様と花婿なる主と永遠に一緒に生きるようになるから、どれほど大きい祝福でしょうか。神様を愛する人はどんな試練にあっても、まず自分を顧みて喜びと感謝を持って耐え抜くことができます


「波風立ち休む間なくその風によりて早く進む」という韓日賛頌歌503番の歌詞のように、大きい嵐がやってきても喜びと感謝を持って耐え抜くなら、これは新しいルサレムまで早く行ける近道になります。私たちは牧者がおられないから寂しい、つらいとか、新しいエルサレムにどう行けばいいのか、新しいエルサレムが遠いと思う方は、今はいないと思います。牧者の犠牲と献身と愛を忘れないで心に刻み、今は何をしても牧者の教えを思い出して、皆さんの生き方が変えられて、また牧者に会うためには、必ず新しいエルサレムに行かなくてはと決心するようになり、さらに聖められようとしていると思います。試練はこのように祝福です。でもそうでない方がいるならば、祈りながら聖霊によって悟りますように。自分の肉の思いではなくて、聖霊に満たされて神様の御心を悟るために祈ってください。牧者と共に新しいエルサレムに行くと言われたのに、なぜこうなってしまったのですかと考えるのではなくて、牧者の犠牲と愛が私にどれほど大きい祝福になるのかを信じて、それを握らなければなりません。牧者の愛と犠牲を忘れてはいけません。



皆さん、イエス様の救いの犠牲によって皆さんは救われました。十字架の犠牲によって救われました。でもそれを一瞬一瞬、毎日思い出して感謝する人と、忘れている人とでは大きい違いがありますね。私たちは牧者の愛も犠牲も忘れてはいけません。牧者の叫び、切なる心で私たちに「世を愛さないで天国、新しいエルサレムに行きましょう。」と言ってくださった言葉を忘れないでください。そしてその恵みによって、皆さんが一瞬一瞬それに頼って毎日を過ごすなら、霊的に祝福されるでしょう。私はそうです。牧者がおられた時と今おられない時、この時でこそ、もっと熱心になってもっと熱くなる原動力になっています。皆さんも私たちが経験した試練また悲しみが、かえって大きい祝福になることを信じて神様の愛を感じますように。もしそうでない方がいるならば、速やかに聖霊の声を聞きますように。それでこの波に乗って早く進む皆さんになりますように。民数記6:24-26に「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」とあります。ですからどんな状況に置かれても、祝福を与えたいと望んでおられる神様の愛を忘れないで、必ず信仰で勝利してさらに変えられて、速やかに御霊の歩みに入り、全く聖なるものとされ祝福されますように。

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