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ヨブ記講解85 - 全ては自分のせい(下)

3 日前
読了時間: 17分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記30:11-15


続く本文を読むとヨブ記30:11です。


神が私の綱を解いて、私を悩まされたので、彼らも手綱を私の前に投げ捨てた。(ヨブ記30:11)


神が自分の綱を解いて自分を悩まされたとヨブは言っています。ここで綱とは祝福の源とつながるものを言っています。世の人々はこのような言葉を使います。誰々とコネがあるとか、コネで会社に入ったとか言うのですが、ここでコネとはコネクションを短くした言葉です。つまり、つながりであり後ろ盾を置いているのですね。それで、ある権力者やまた金持ちとつながっていて助けをもらっているならば、それをコネがあるとか後ろ盾がいるとかと言います。同じようにヨブが神様と綱でつながっていた時は、自分の手の中にいた人々なのに、神様がその綱を解いてしまったから、自分を悩まされて今は彼らが自分から離れてしまったと言っているのです。


彼らが手綱を自分の前に投げ捨てて離れてしまった。自分を見捨ててしまったと、そして次はあざわらっていると言っているのです。それは神様が綱を解いてしまったからだと、神様のせいだと言っているのです。前は彼らを自分が助けたから自分についてきた人々なのに、今は手綱を離された家畜のように自分に手向かっているということです。神様が御顔を背けられたら、自分は無気力な人になっていろんな人に苦しめられていると、全てを神様のせいにしています。もちろん神様が共にいてくださらなければ、そして自分が神様から遠ざかってしまうならば、祝福がなくなるということはあっているのですが、でもヨブは神様のせいにして、神様が自分とつながりになっているその綱を解いてしまったから、自分はこんな風にいろんな人に苦しめられていると言っているのです。


ヨブは、神様が自分を祝福してくださるために練っておられることを、まだわからないから悟っていないから、このように神様を恨んでいるのです。神様が祝福の綱を解いてしまったからだと。子どもたちが親に叱られるときどうでしょうか?普段あまり叱られたことがなかった子どもの場合は、ちょっとお母さんに言われたならば、お母さんのことを誤解する場合があります。こういう場合は、お母さんが真理をもって言い聞かせたとか悟らせたという場合ではないのですね。そうではなくて、日常生活で子どもが何か過ちをしてそれを叱る場合があります。そうすると、子どもはお母さんに叱られた時、お母さんは自分を愛していないとか憎んでいるとか誤解する場合があります。でも親はそうではないですね。子供を愛するから、子供が正しく育ってほしいから、立派な人になってほしいから、過ちを今直さなければならないから、そんな風に叱ったりするのですが、子供はその親の心が分からないから誤解したりするのです。​


今、ヨブが神様に対して同じように感じているのです。今のヨブの姿は、真理で照らしてみれば正しくないでしょう。でも私たちは、ヨブがなぜここまで言っているのか、なぜこんな風に苦しんでいるのか、その立場も理解しなければなりません。貧しかった人が突然金持ちになれば幸せに生きるのですが、お金持ちが突然貧しくなれば耐えられないそうです。ヨブは過去に自分が味わっていた富と名誉、平安、祝福が一瞬でなくなったから、また自分に仕えて自分を愛していた人々が、今は自分をあざけっていて自分を非難しているから、どれほど辛いでしょうか。その立場も理解しなければならないのですね。だから私たちも、周りにもしかして試練にあっている人や絶望している人がいるならば、その立場を理解して慰めて相手が心の戸を開いたら、その後、神様の愛について悟らせた方がいいでしょう。ヨブは続けて自分の受けている苦しみを訴えています。​


ヨブ記30:12-13です。


この悪童どもは、私の右手に立ち、私の足をもつれさせ、私に向かって滅びの道を築いた。彼らは私の通り道をこわし、私の滅びを押し進める。だれも彼らを押し止める者はいない。(ヨブ記30:12-13)


ヨブは、自分をあざわらう若者たちの父を、自分の羊の群れを守る番犬のようだと言っていました。そしてここでも彼らに向かって、この悪童どもと言って悪く言っています。彼らが自分を倒して立ち向かって滅びの道に引っ張っているのに、彼らを押し止める者はいないと言っているのです。ヨブはこのように続けて人のせいにしているのです。真理の人ならばこんな風には表現しないでしょう。以前自分がある人を助けた場合、その人が今は自分を無視したり自分を嘲笑っていったりするならどうでしょう?神様の前に、もしかして私が何かあの人に対して失礼なことを言ったかもしれないと思いながら、自分を顧みて低くなって悔い改めるようになりますね。そして自分に何か悪いところがないのならば、周りの人がああだこうだと言っても、自分は神様の前で堂々としていて、そして神様が自分を見ておられるから感謝して喜ぶのです。​


でもヨブはそうできなかったのです。周りの人が自分を苦しめている。そして誰も自分を苦しめる人を留めてくれないと言っているのです。自分を滅びの道に引っ張っていこうとしているのに、神様も誰も自分を助けてくれないと、このようにつぶやいているのです。でも真理の人、神様を信じている人ならばこんなふうには思わないでしょう。いくら周りの人が自分を苦しめようとしても、神様が私を守ってくださるから私は心配ないと、このように堂々としていることができるでしょう。ヨブは今人のせいにしていますが、でも前後関係を考えてみれば、ヨブがまず彼らの感情を刺激していました。ヨブが周りの人々に対して、あれこれ嘆いたり非難したりあなたたちが悪いと言っているから、周りの人も感情的になってヨブを嘲笑ったり非難したりしたのですね。このように互いに言い争うようになって呪い合うようになったのです。


ヨブは賢い人のように見えるけれど、それは、肉的な知恵だから苦しみを自分から招いているのです。では霊的に知恵のある人ならば、ヨブのような状況に置かれてもどうするでしょうか?不当なことを言われても、言い争ったり手向かったりしないでしょう。無益な言い争いを避けるでしょう。でも自分の心の中に悪があればこうできないのです。不当なことを言われたら、悔しいから、そうではないと言いたくなりますね。反論したくなります。黙って言い争いを避けようとしないで、一言言ってやりたいのですね。そして問い詰めたくなるのです。今自分がやっていないことをやったと言われた。そうでなければ、自分はそう思っていないのに相手に誤解されたとか、何か自分の悪口を言う人がいたならばどうでしょう?私はそうではないと言いたくなるのではありませんか?でも真の人はそうではありません。自分の感情をもコントロールできるし、そしてカッとなったり、ムッとしたりすることがないのです。心の中が穏やかで安らかですぐ感情的になったりしないのです。落ち着いていて客観的に物事を見ることができます。そして真理の御言葉に照らして、今自分が何をどうすればいいのかを考えるようになるのです。そして相手がなぜそう言うのかを理解しようとするのです。


でもそうでない人は、自分が正しいのになんでここまで言われなければならないのかと思いながら、反応したくなってしまい、一言言ってやりたいと思うのですね。悔しいと思うからです。こういう姿も私たちは捨てなければなりませんね。そのために祈ってある程度変えられていると思います。でも時々そういう姿があるならば、またそのために祈りましょう。神様、私にまだこういう我慢できない姿があります。また何か言われたらすぐかっとなるこういう姿がありますと言いながら、相手のせいにしている姿があります。こういう姿を捨てるようにしてくださいと言って、また後で同じようなことをされたら私はどうすればいいでしょうと言いながら、祈ってみてください 。そうすれば聖霊が教えて知恵を下さるでしょう。そのためにはまず心にあるその悪を捨てなければなりません。相手を言いまかそうとしたり、勝とうとする心がなく、負けてあげて平和を作りたいというという善がある人は、言い争うことがないのです。ヨブはまた自分の今の境遇を説明しています。


ヨブ記30:14です。


彼らは、広い破れ口から入って来るように、あらしの中を押し寄せてくる。(ヨブ記30:14)


彼らが広い破れ口から入ってくるということは、ヨブが今まで築いておいた人格や信念、自分の地位、居場所などを、彼らによって倒された、崩されたと言っているのです。人々が自分を続けて攻撃してきて自分を苦しめているから、ヨブはこんな風に表現しているのです。相手のせいで、プライドも自分の自負心も全部砕かれてしまったのです。だからヨブはあまりにも辛いのです。実はこれは霊的にはいいのですが、肉の人はこういう状況が耐えられないのです。 ヨブは、神様が自分との綱をとっておいてしまったから、こうなってしまったと恨んでいるのですが、 実は、自分が相手に負けないで言い争って相手の感情を刺激した結果でしょう。


人々は子供の時は大きい夢を持ちます。でも年がとっていろんな社会でいろんなことを経験した後は、だんだん夢が小さくなります。学識がある人でもない人でも、経済的に豊かな人でもそうでない人でも、それぞれ悩みがあり失敗も経験します。ところである人は逆境に会うたびに、それを乗り越えて成長するだけではなく、さらに強くなり夢に向かって価値ある生き方をしていきます。反対に逆境にあった時絶望してしまい、なんで私は生まれてこんな苦労をするのかと言いながら、ため息をする人もいます。ヨブも後者のように全ての夢が砕かれた状況で、自暴自棄してこのように嘆いているのです。しかしイエス・キリストを信じる人々はどうでしょう?たとえ悲しいことがあっても、本当に主を信じる人には、悲しい日よりは喜ぶ日嬉しい日の方が多いでしょう。でも神の国のために魂の救いのために、もちろん悲しむことはあるでしょうが。たとえ悲しいことがたくさんあっても、嬉しい日より悲しい日が多くても、その状況で感謝できるのです。


牧者は主を受け入れる前、七年間病気で苦しんでいた時、多くの借金もあったし、周りから蔑まれ、あざけられ、見下げられました。何の夢も希望もなくやる気もなく絶望していた時、生きておられる神様が牧者のところに来てくださり、病気を癒してくださいました。それで救われて天国を得て、主のしもべとして召されて、多くの人を救いの道に導き神の国を広げました。このように神様を見つけて最も幸いな道を歩んだ牧者は、過去の日々を顧みれば、病気で苦しんでいた時の時間がとても感謝だと告白しました。そういう苦しみがあったから神様を見つけることができたし、信仰で栄光を捧げることができたからだと言われました。それで神様が練ってくださって試練にあったとしても、牧者はいつも感謝していました。すべてのことが、神様のご計画の中にあって神様の導きだったし、祝福につながる過程だから感謝だと、いつも告白していました。大きい試みもあり大きい試練もあったのですが、いつも牧者は神様の御心を見つけようとしました 。すぐ神様の御心が悟れない時も黙々と祈りながら感謝していました。すると神様が働いてくださりその試練が祝福に変わりました。


皆さんの中にも牧者のように絶望していた時、心が貧しくなって神様を見つけた方もいるでしょう。過去のその苦しみが、神様を見つけるきっかけになったから感謝ではありませんか。そして全知全能なる神様を信じて頼る人にとって、試練は希望を生み出す過程であり、その後には祝福と栄光が待っているのです。ローマ8:18に「今の時のいろいろな苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」とあります。試練の過程では辛い思いをするかもしれませんが、感謝して祈りながら神様の御心を見つけようとしなければなりません。そしてその御心を見つけたならば、それに聞き従っていかなければなりません。そうやって感謝して試練を乗り越えた後は、さらに信仰が大きくなり魂に幸いを得ていて神様と近づくようになります。祝福の道なのです。神様を信じている人には、与えられた全ての環境が強くされて夢に向かっていく過程だから喜び感謝できます。ですから、自分に与えられている環境や試練を不幸だと思わないで、さらに大きい幸せと成熟のための踏み台だと思う皆さんになりますように。


皆さんの周りにもしかして皆様を苦しめる人がいるでしょうか?会社で自分に意地悪をしたり嫌がらせをする上司がいますか?その人との関係を解くことが、私たちには霊的な課題になるのです。ただあの人のせいでこんなに私は辛い思いをしなければならないのかと思いながら、憎らしいと思うのではなくて、これによってこれをきっかけに、さらに私は心を広くすることができる、変えられると思いながら 、それを祝福のチャンスにしましょう。相手のせいにばかりしているのではなくて真理の御言葉によって適応しながら、さらにその人との関係が良くなるように愛と憐れみを持って接してみてください。実は世の人の中には本当に理解できないようなことをする人もいるかもしれません。みんなが同じようにあの人は本当にひどいなと思うような人がいるかもしれません。皆さんにはそういう対象の人がいませんか?私も以前こういう経験があったのですが、私が言うことをいつも誤解していたり、また間違って伝えたりする人がいました。


その人は私だけではなくて、周りの人に対しても同じようにしていました。それで、みんなでその人についてちょっと良くないイメージを持っている場合がありました。でもだからといって、あの人はどうしてとかあまりひどいなと思うのではなくて、その人がどんな環境で育ったのか、どんなふうに自分を作ってきたのか、どんなふうに人の話を聞き入れているのかなどを理解しようと、いろいろ祈りながらまた話も聞いて調べてみたら、その人のことを理解するようになって憐れむようになるのです。それでどうしてもその人と平和を作りたくてあれこれ努力したら、その人との関係が良くなったのです。その人は私とは本当に仲が良くなったのですね。でも周りの他の人とはそうならないのです。私は真理によって、そのようにその人に仕えるために祈りながら、またその立場になって哀れみの心、愛の心もって接したら、その人も私の心を感じるから、このように心を開いて互いにいい関係になったのです。皆さんもそのように、どんな人でも受け入れることができる広い器になりますように、


続く本文ヨブ記30:15です。


恐怖が私にふりかかり、私の威厳を、あの風のように追い立てる。私の繁栄は雨雲のように過ぎ去った。(ヨブ記30:15)


ヨブは文章力も優れていたから、詩人が詩を書くように短い言葉の中に深い内容を含めています。ではこの文章に含まれている意味は何でしょうか?風はとどまらないし過ぎ去ります。雲は風に流されていってしまいます。また雲は私たちの心の状態によって見る時の感じが違います。心が穏やかな時は、雲を見ていると美しく感じられます。反対に心が悲しい時は、雲を見ながら虚しさを感じるようになります。曇っていたり雨が降ったりしていると、それを見ながら虚しく思ったり寂しくなったりする人はいませんか?今回、祈りの家に男性の役員の皆さんを招待したのですが、その日雨が降ったのですね。でも雨が降っても、その風景を見ながらとても美しいなと思いました。雨が降ってこのように土地が潤っていて、また涼しくなっていて爽やかだなと思いながら、とてもいい雰囲気だなと思いました。そして皆さんの中でよく空を見る方々がいますね。それでよく虹を取る方がいるのですが、私たちは自然を見ながら神様の愛を感じるようになるのですね。今回も主のしもべの皆さんの行事の時に取ったハートの形の雲なのですが、とても素晴らしい風景でした。とても素晴らしい絵のような作品が取れたのです。


心が幸せな人、心に神様への愛がある人は、何を見てもそれを神様の愛として受け止めるようになります。しかし今ヨブはあまりにも苦しいし辛いし悲しいから、風を見ても雲を見ても虚しさだけを感じるようになるのです。自分の心みたいだと思うのですね。ヨブは過去を顧みてみたら、自分が栄光を受けていた時間は本当に虚しかったな、束の間だったなと思っているのです。皆さん、大人の皆さんは、自分の人生を顧みるときどう感じますか?詩篇90:10に「私たちの弱いは七十年、健やかであっても八〇年。しかも、その誇りとするところは老苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。」とあります。人が一生幸せを求めて生きても苦しみ労苦があります。辛い思いをする時もあります。それで後で振り返ってみれば、本当に儚い歳月だったとかいう人もいるでしょう。そしてヨブのように人生は虚しいな、過ぎ去る雲のようだと嘆く人もいるでしょう。


しかし主を信じている私たちはそう言わないでしょう。束の間の人生が終わったら永遠の天国が待っているからです。これを信じる人は、この地上で自分に与えられている短い時間の間、天国で生きる永遠の人生の備えをするのです。情欲を抱かないし朽ちる肉のために生きないし放蕩しないです。時間を無駄使いしないのです。第一歴代誌29:15に「私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留しているものです。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。」とあります。この世は天国の影であり、この地上での人生は旅路のようなものです。この地上は、私たちが人間耕作を受けるためにしばらく留まるところであり、天国は永遠に生きるところです。


だから私たちはこの地上で人間耕作を受けて、神様の真の子供になって天国に入らなければなりません。短い人生の中で、どうすればもっと聖められようか、もっと主に似ていこうか、どうすれば一人でも多く天国に導こうか、どうすれば神の国のために忠実に仕えようかと思わなければなりません。天国は、虚しいこの地上とは違って永遠の国であり、苦しみも悲しみ涙もない幸せな国です。イエス・キリストを救い主として受け入れて神様を愛する生き方をすれば、天国に入って永遠に祝福を受けるようになります。ですからこの望みを抱いて、全ての試練の過程に打ち勝って耐え抜いて、神様が望んでおられる真の子供になり、天国で最も美しい輝く新しいエルサレムに入りますように。


私はこのメッセージを準備している時、院長先生と話をしたことを思い出しました。院長先生は、私は幸せ者だと告白しています。先週だったと思いますが、私のところに来て、院長先生がこう言われました。「私はこの地上で一番幸いな者ですね。」と。それで私は、「はいそうです。院長先生は幸いな者です。」と言いました。院長先生は「一番幸いな者です。」と言ったのですが、私は、「私の方が幸いだと思うけど」と心の中では思っていたのですが、「はいそうです。院長先生は幸いな者です。」と言いました。もちろんこれは、相手より自分がもっと偉いという意味ではなくて、「ふたりとも本当に幸せ者で幸いな者だ。」と、このように幸せな会話をしていました。なぜでしょうか?この地上で与えられた時間をどんなふうに生きるのか、一番価値ある者で幸いな者かを知っているからですね。それで、私たちには天国で私たちが入る美しいところがあることを信じているから。そうです。だからどれほど幸せ者で幸いな生き方でしょうか。私は院長先生の話を聞きながら、私がもっと幸せなのにと思ったのですが、私たちはみんな同じように幸いな者で幸せ者です。だからこの地上で人間耕作をよく受けて美しい天国にみんな一緒に入りましょう。


結論です。


皆さん、ヨブは過去に自分が助けていた人々が、今は自分を非難してあざけているからあまりにも苦しくて、彼らのみすぼらしい暮らしを暴いていました。自分には過ちがないのにと人のせいにして神様を恨んでいました。このように試練にあったら人のせい環境のせいにする人がいます。相手が私を怒らせたから私が一言言ってやったとか、相手が私を騙したから損をしたと悔しく思います。また自分に明白なあやまちがあるのに認めないで、人のせいにしたり自分を正当化する人もいます。また自分のあやまちを認めているように見えても、言い訳ばかり言う人がいます。申し訳ありません。でも仕方ありませんでしたというのです。


これはあやまっているようでも相変わらず環境のせいにするのです。このように、自分のあやまちを認めないで環境のせいにしたり人のせいにする人は、信仰の成長も遅くなるしかありません。問題を自分のせいにして、へりくだって神様に祈るとき、聖霊が助けてくださり、自分の欠けているところを発見して霊的に成長できるのです。皆さんはもしかして、自分には人のせいにしようとする心がないのかかえりみて、真理の御言葉によって自分を照らしますように。それで、皆さんに与えられているすべての環境を変化と成長の機会にして、さらに速やかに霊的に成長しますよう、主の御名によって祈ります。

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