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ヨブ記講解85 - 全ては自分のせい(上)

3 日前
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記30:5-10

皆さん、ヨブ記講解を聞く前は、ヨブ記を読む時、ヨブは神様に潔白で正しいと褒められたのになぜあんな恐ろしい試練にあったのかとか、正しく生きてきたヨブの口からどうしてあんな悪い言葉が出てくるのだろうかと、疑問を抱いたかもしれません。これまでヨブ記講解を通してその理由を説明しました。この時間もう一度考えてみますように。ヨブは、うわべでは行いだけでは潔白で正しいものだと褒められて、ヨブも自分が正しいと思っていました。しかし厳しい試練が長くなったら、自分が持っていた義の正体が表れました。ヨブは友達を無視して呪っただけではなく、神様は正しくない、自分は正しいとまで言いました。正しい自分を神様が勝手に苦しめられたと言いながら、神様の前につぶやいていました。また前回は、自分を嘲笑う若者の父の暮らしがどれほどみすぼらしかったのかを、見下げながら言いました。彼らの父は、ヨブの羊の群れを守る番犬のようだと言いながら、侮る言葉をしました。​


このような表現を聞いてみたらどうでしょう。皆さん、ヨブの口から出てくる言葉を通して、私にもそういう心があったと悟るなら、それは聖霊の働きでしょう。誰かが自分を苦しめた時、その人だけではなくその人の家族のことまで恨んだり、また他の人に悪口を言ったりする姿はなかったのか、顧みますように。このヨブの姿を通して自分を発見しなければなりません。でもただメッセージを聞きながら、これはヨブのことだと思っている人は、自分に適用できないし自分を発見できないのです。自分のことだと思わないし、あの人のことだ、この人のことだと思うから、メッセージに恵みを受けることもできないし悟ることもできないのです。ヨブ記講解を聞きながら、ヨブが言っている話を聞きながら、皆さんは自分の心を顧みられますように。私も同じような人だったと悟るならそれは幸いです。ヨブと同じ言葉を口にしたというのではなくて、そのような心を持っていたのではないか、そういう態度ではなかったのか、顧みますように。​


私もヨブ記講解のメッセージを準備しながら、自分を顧みています。もしかして自分の心の深いところに、以前そんな姿があったのではないかと思いながら、神様にさらに感謝するようになります。このメッセージを聞きながら、自分の中の悪を発見して捨てて変えられますように。ヨブの口にしている言葉は、正しい人の口からは出てくることができないような表現です。ヨブは真の義ではなくて自分の義、肉的な義でいっぱいだったのです。だから神様はヨブを練るしかなかったのです。皆さんはヨブの姿から自分を発見して、自分の義というものを完全に打ち砕いて、神様が望んでおられるまことの義人の姿に変えられますように。ヨブを練ってくださるのは、ヨブの深い心の中にある悪を悟るように、そして練られて完全な者になるように、神様が祝福を与えてくださるために練ってくださるのです。そして私たちには、このようなヨブの姿を通して自分の姿を発見して変えられるようにと、神様がこのように祝福をくださるのです。ですから速やかに自分を発見して捨てていくならば速やかに変えられるでしょう。​


そしてそのような試練の過程は、祝福とつながるのです。でも今のヨブの姿を見ていると、神様が望んでおられるように自分を発見することができません。かえって友達を恨んで、神様を恨んでいる姿です。また自分の今の姿を嘆いていて、相変わらず自分は正しいと思っている姿です。だから試練はだんだん長引くのです。ヨブが今人のせいにして、環境のせいにしている姿を見ながら、皆さんはヨブが早く悟ったらいいのにと思うのではなくて、自分の姿を顧みますように。そしてこのような厳しい試練がやってくる姿を見ながら、怖いと思うのではなくて、このような試練は祝福だということを悟りますように。それで感謝しながら、試練にあっている人もさらに喜びながら、どうすれば早く乗り越えることができるのか、その原理を悟る皆さんになりますように。それならどれほど祝福でしょうか。​


世の人々は、色々な世の理とか自然の理を悟るため、自分なりに世の原理を悟るために、努力しているのではありませんか?哲学を研究する人もいるし、山の中に入って修練する人もいるのですが、私たちはこのようにメッセージを聞くことで、多くの深い原理を悟っているからどれほど祝福でしょうか。そして神様がなぜ私たちを練ってくださるのか、そしてヨブがなぜこのような試練を受けているのかなど、その原理を悟るなら、信仰生活にもとても役に立つと思います。皆さんがこのような霊の知識を知っていることは、大きい力になります。本文を読むと、ヨブは続けて、自分を嘲笑った若者の父の暮らしがどれほどみすぼらしいか説明します。​


ヨブ記30:5-7です。


彼らは世間から追い出され、人々は盗人を追うように、彼らに大声で叫ぶ。彼らは谷の斜面や土や岩の穴に住み、やぶの中でつぶやき、いらくさの下に群がる。(ヨブ記30:5-7)


人々はみすぼらしい服装をしていて、貧しそうに見える人々を見るとどうしますか?泥棒を追い出すようにどなって追い出したりするのです。彼らは住む家もないから、あちこちに追い出されて、谷の斜面や土や岩の穴に住むようになります。そこは心安らかではないでしょう。不安でどれほどつらいでしょうか?そしてそこに集まっている人々は、みんな争ったり嘆いたりするでしょう。ヨブはこのように、自分を嘲笑う若者の父の暮らしについて言っています。どれほどみすぼらしいか、みじめな暮らしなのかを言っているのです。そんな彼らが、自分をあざけることはいけないというふうに言っています。このように相手のせいにして、相手を無視する表現をしているのです。


皆さんもこういう姿はありませんか?自分に害を与えた人がどんな資格を持っているのか、そんなに偉そうに言う資格もないのにと思ったことはありませんか?そして自分が、そんなことを言われるほどのことをしてないのに、その人々のせいにしたりする姿はありませんか?そしてふたりで争う時も、相手の家族のことまで悪口を言ったりする姿はありませんか?自分は正しい、自分は何も悪くない、あの人が私にああしたからこうしたから、あの人はまたその親はどうなっているのかとか思ったことはありませんか?今、ヨブがこの様に傷ついて苦しんでつらいから、こんなに相手に対して厳しい表現をしているのです。皆さんも心の中でそう思ったことがないのか考えてみますように。


ヨブ記30:8です。


彼らはしれ者の子たち、つまらぬ者の子たち、国からむちでたたき出された者たちだ。(ヨブ記30:8)


無知でいやしいもので、また国からも追い出されたと、このように悪口を言っています。皆さん、このようにみすぼらしい暮らしをしている人々を見て、彼らを裁判長のようにむやみに見下げていいでしょうか?彼らなりの生き方があるから尊重すべきであり、無視したり非難したりしてはいけないのです。私はこのメッセージを準備しながら、ずいぶん前にあったことを思い出しました。テレビの番組の中で、家の中がすごくちらかっていてゴミ屋敷のようになっている姿がありました。いろんなものを捨てないで、そのまま家の中に積んでおくのです。そのような人々をどのようにすれば助けることができるのか、という内容の番組だったと思いますが、私もそういう姿を見ながら、何故あんなふうに家の中を汚くしているのか、きちんと掃除すればいいのにと考えたことがあります。


私はその時のことを思い出して、その時私は相手の立場を理解できないまま、自分はそうではないのに、何故どうしてと思いながら、悪いように思っていたのではないかと顧みました。それぞれの事情があるでしょう。そして片付けたくてもできない人もいるし、いろんな事情とか立場とか環境があると思うのですが、私はその時そう考えたことを今顧みながら、そうだそんな風に思ってはいけないと思いました。困っている人々を見れば、一緒に悲しみ、光を照らすことができる愛を持って接することが必要です。皆さんの周りにいる人だけではなく、テレビの番組とかで映っている姿とかを見ながら、皆さんはどんなふうに感じて考えていますか?ひどいなとか思ったり、なんであんなふうにしているのかと思ったり、もしかしてこのように考えていた姿はないのか顧みますように。


周りの人に対しても同じです。どんなふうに考えてまた感じているのか、自分の心の中に善がどのくらいあるのか、このように顧みる必要もあると思います。彼らは、その本人たちはどれほどつらい思いをしているだろうかを理解して、助けようとしなければならないでしょう。そういう人々は、夢も希望もないし、意欲もないし、自信もないから、だんだん惨めな思いをするようになって、人々に蔑まれると反発してさらに悪くなってしまうでしょう。誰がそんな風に生きたいでしょうか?神様の御言葉には、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」とあります。私たちは、疎外されている人々をかわいそうに思って助けなければなりません。箴言19:17に「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」とあります。私たちが、困っている人貧しい人々をかわいそうに思って施しをすれば、神様が私たちに報いてくださるのです。


もし皆さんがみすぼらしい暮らしをしているならどうでしょうか?今ヨブを嘲笑っている若者の父のような暮らしまではならなくても、皆さんが何かで困っていたり、また厳しい暮らしをしているとしましょう。それなら、誰かが自分を慰めて自分を助けてくれて、施しをしてくれればと思うでしょう。ですから私たちは、霊肉ともに困っている人をかわいそうに思って助けなければなりません。お金とか名誉、権力を持っていても、神様を信じなくて地獄に向かっているなら、その人は霊的に惨めでしょう。だから憐れむことが必要です。ひどく悪を行う人でも、その悪を見て悲しむべきであり、社会の落語者になって、酔っ払って街をぶらぶらしている人を見ても、憐れんであげる心が必要です。


皆さん、教会の中で一緒に信仰生活をしていたのに、ある日、教会を裏切って問題を起こして離れてしまった人がいるならどうでしょう?皆さんと仲が良かったのに、そのように裏切られたと思って傷ついていますか ?そのような人々に対してどんなふうに今感じていますか?まだ許していない人はいませんか?大きい悪を行った人であっても、その人々を恨んだり憎むのではなくて、憐れむべきではありませんか?かわいそうに思わなければならないでしょう。そして、皆さんの愛する家族が地獄に向かっているならどうでしょう?あまりにも大きい罪を犯したから仕方ないと思うでしょうか?そうではないでしょう。涙を流しながら、その人が救われるように神様に祈るでしょう。そして周りの人々に知らせたくないでしょう。知られたくないでしょう。その人のためにもどかしい思いで祈りながら、早く帰ってくるようにと祈るでしょう。それが愛ではありませんか?


自分の家族のことをそう思うように、周りの人々にも、また教会を離れた人々にも、そんなふうに憐れみを持って愛を持って、心に抱いているならいいのですが、そうではなくて、いろいろ誤解したり、あんなひどいことをするとはと思って義憤を覚えたり、ひどいなと思ったり、もしかして憎んだりしている姿はなかったでしょうか?そういう姿があるならば、それも神様の前に悔い改めなければならないところになるのです。また神様との間で、それが隔ての壁になっているかもしれないのです。ですからある人が明白に罪を犯しているとしても、あまりにもひどいことをしたとしても、私たちが人を裁いてはいけません。人を裁くということは高ぶっていることです。私たちは、人を憐れむ心を愛する心が必要です。困っている人またみじめな思いをしている人々を見れば、かわいそうに思って助けなければなりません。しかし真理に従って、神様の御心に従ってしなければなりません。


例えば、罪を犯して神様に懲らしめられている人を、助けて施しをするならどうでしょう?それは、その人が続けて神様に聞き従わないように助けることになってしまうから、皆さんも同じように苦しむかもしれません。ヨナが神様の御言葉に聞き従わないで逃げていった時、彼を助けた船乗りが、自分の持ち物も全部捨てて、命まで危なくなったことがあったでしょう。そして体の健康な人が怠けていて仕事をしないでいるのに、その人をただ助けるなら、そのままずっと怠けているしかないでしょう。だからそれも正しくないのです。貧しくても熱心に生きようと努力する人、自分の力ではどうすることもできなくて困っている人ならば、助けなければなりません。神様の御心に従って施しもしなければなりません。


皆さん、ここでもう一つチェックするところがあります。ヨブはみすぼらしい人々を見下げていて、彼らが言う言葉も完全に無視しています。あなたたちは偉そうに私のことについてあれこれ言うのか、なぜ私をあざけるのかと言っているのです。これは真理と反対の人々によくある姿です。人々は、自分より劣っているように見える人が自分に何か忠告をすれば、気に食わないのです。相手が完全でなくても、その言っていることが正しければ受け入れることが必要なのに、そうではなくて、相手が言っている正しい言葉を無視してしまうのです。人によって長所と短所があるから、否定的な面だけを見るのではなく、相手の良いところは認めなければなりません。マタイ23:3で、イエス様はパリサイ人について、「彼らがあなた方に言うことはみな行い、守りなさい。けれども、彼らの行いをまねてはいけません。」と言われました。ですから誰かが皆さんにアドバイスをするならば 、自分はまともに行っていないのに私にアドバイスをするのかと思わないで、小さい子どもでも、その言っていることが真理に合うならばアーメンと受け入れなければなりません。


ピリピ2:3に「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」とあります。人を自分よりも優れたものと思い、小さい子供でもその言っていることが正しければ、無視しないで受け入れなければなりません。相手にある良い点は学ぼうとしなければなりません。真理は低くなりなさい、人に仕えなさいとあるのに、相手を無視するならばそれは今のヨブのような姿と変わらないのではありませんか?ヨブは自分が見て、自分の羊の群れを守る番犬のような人々の子どもたちにあざけられているから、あまりにもつらいし嘆いています。


ヨブ記30:9-10です。


それなのに、今や、私は彼らのあざけりの歌となり、その笑いぐさとなっている。彼らは私を忌みきらって、私から遠ざかり、私の顔に情け容赦もなくつばきを吐きかける。(ヨブ記30:9-10)


私は彼らのあざけりの歌となりとあります。これは子どもたちが誰かをからかう時、歌を歌いながらからかいますね。そんなふうにヨブが今、からかわれているような立場だということです。そして、彼らは自分を忌み嫌って遠ざかって、つばきを自分の顔に吐きかけているから、どれほど自分の今の境遇がみじめでしょうか。恩にあだで返すという言葉がありますが、前にヨブが助けていた人々が、今は恩返しをするどころか、自分を非難してあざけっているからあまりにも辛いのです。でもヨブが完全な真理の人だったならば、そのすべてのことをも愛をもって受け止めることができたでしょう。


聖書を読むと、モーセ、エリア、ダニエルとその三人の同僚、ステパノ、使徒パウロはどうでしたか?どんな試練や苦しみにあっても神様を愛する心が変わりませんでした。そして自分を迫害する人々を許して、彼らのために祈り、全ての苦しみに信仰を持って打ち勝って、神様に栄光を捧げました。このように真理の人になれば、どんなことをされても善を持って悪に打ち勝つことができます。私たちの主も、ただ愛をもって全ての迫害とあざけりに耐え抜いて、ついには十字架につけられて救いの摂理を完成しました。ヘブル12:1-2に、「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちもいっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。


神様の右に着座されるその喜びのゆえに、恥ずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのです。神の御子イエス様を、被造物である人の子らが、あざけって蔑んで卑しめていました。でもイエス様は、悪い者たちだと思ったり、ひどい仕打ちだと思って、彼らを憎んだり嘆いたりしたのではありませんでした。恥ずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのです。それは信仰によるもので愛によるものでした。それで神の右に着座されたのです。私たちも主を見習って、ただ天国への希望を持って、悪はどんな悪でも避けて、試練の時も信仰によって忍耐を持って走り続けなければなりません。そうしないで人の過ちを許さないで、仕返しをしたり恨んだり嘆いたりするなら世の人と同じでしょう。皆さんが試練にあっている時どうでしょう?


今の自分が置かれている状況が恥ずかしいと思ったり、また人の目を意識したりする姿はありませんでしたか?イエス様はご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥かしめをものともしませんでした。そのようなイエス様の姿を見習わなければならないでしょう。信仰を持って耐え抜きましょう。クリスチャンらしく自分を憎む人も許して愛すること、これが答えと祝福を受ける近道であり、天国の栄光と報いを受ける道なのです。皆さん、私たちはこのようなメッセージを今までたくさん聞いてきました。そして実際にそのような善を行う牧者の姿も見ました。しかしいざとなると、自分がそんな風にされたらどうでしたか?許せましたか?愛せましたか?このような霊的な御言葉を聞いていたのに、ただ頭だけに入力していたのではありませんか?自分の心に刻み実行して自分のものになっているならば、自分がそのような境遇になっても行うことができるでしょう。また聖霊様が答えをくださり真理を行うようにしてくださるでしょう。


でも宝のようなこのような御言葉、善の御言葉を聞いたのに、自分のものになっていないから、現実では適用できない姿があったのではありませんか。だからこのような御言葉を聞き流さないようにお願いします。頭に入れておいて知識として覚えるだけではなく、自分のものにしなければなりません。礼拝をしていてメッセージも聞いているけれど、本当にその御言葉が自分のものになっているのか、本当に心に刻んでいるのか、そしてその御言葉を握って祈りながら日常生活でも適用しているのか、いつもそれをチェックしなければならないのです。一瞬一瞬自分の姿を顧みながら御言葉に照らして、それが正しいか正しくないかどうなのか、善か愛かを見分けなければなりません。それで祈りながら過去にあった自分の姿を思い出したならば、それを悔い改めていきましょう。そうすれば聞いた御言葉が力になるのです。このようなメッセージを聞いてそれが命となりますように。

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