ヨブ記講解84 - まことの善と愛(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記29:25、30:1-4
ヨブ記29:25です。
私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また、王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆く者を慰める者のようであった。(ヨブ記29:25)
ヨブは王様のようにあがめられる地位で、多くの人に道を提示してあげて、悲しんでいる人を慰めたと言っています。普段、善と愛をもって行うことがたくさんあったから、多くの人に尊敬され褒められて愛されていました。知恵のある言葉で人々の道を指導して、物質を持って施しをして慰めていたから、そのように尊敬される地位にいたのです。しかし、ヨブはこのように仕えられて高められていたから、高ぶってしまいました。そこから喜びを感じました。私心を持たないで、良い意図で助けたものの、それによって人々が自分を褒めてくれるから、そうだ私は褒められるようなことをした。だから尊敬されるのは当然だと思い、そこで自分の価値を感じたのです。
これが問題です。人が褒められるのが好きなら高ぶりが生じるようになります。良い意図で始まったけれども、その心に肉があるのなら、良い意図が変わってしまうのです。しかし真理の人はそうではありません。もし皆さんが誰かに施しをしたとしましょう。施しを受けた人が、皆さんを褒めて崇めているからといって、いい気になったり内心嬉しかったら、それは高ぶりが生じる象徴で、高ぶりが生じる兆しかもしれません。私は良いことをしたから、このくらい褒められるのは当然だろうと思ってはいけません。それによって試練に遭うかもしれません。そして皆さんが誰かを助けた後、褒めてくれないのかなと心の中で、もしかしてそれを求めている姿はありませんか?先週も言ったのですが、施しと善行は尊敬されて褒められるようなことではありません。神の子供として当然すべき基本的な道理です。愛されて仕えられたいという心もなく、心から相手を高めてたっとく思うならばどれほど美しいでしょうか。
マタイ6:3-4です。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」とあります。人に褒められたいから施しをするなら、しばらくは高められるかもしれませんが、天国で受ける報いはありません。聖徒の皆さんは、褒められたいから認められたいから、施しをする人はいないと思います。でも施しをしたら、褒められたり認められたりするからいい気になって、ヨブのように心の中でそれが当然だと思ったり、高ぶってしまうことがあるのです。良い意図で、神様を愛して聖徒を愛して忠実に仕えていたら、いろんな人に仕えられたり褒められたりするのならば、それを感謝するのはいいのですが、それで当然だと思ってはいけません。それで私は周りの働き人にこのように表現します。私をあまり褒めないでくださいと言っています。私をあまり高めたりそんな風に言わないでくださいと言います。
もしかして私が高ぶってしまってはいけないから。いつも高ぶりを警戒して祈ってはいるのですが、私は周りの人に、「私は堂会長としてこれをすることは当然のことだから、あまり私について褒めないでください。」と言います。そして私が家で自炊したり、また自分でできることを自分でしているのですが、何とか周りの人がそれを手伝おうとしたり仕えようとするのですが、「私はそんな風に仕えられたくないです。」という場合があります。周りの人はそれでも堂会長として私に仕えてくださろうとしたり、また何かあったら褒めてくださることもあるのですが、私がその度に「いや結構です。大丈夫です。そう言わないでください。」と、このようにお願いすることがよくあります。仕えられるということは、私にとってはちょっと負担です。あまり慣れていないし、もちろんその心は感謝ですが、私はもしかして、少しでもこれによって、自分も知らないうちに高ぶってしまってはいけないといつも警戒しているからです。
最初は本当に良い意図で施しをしたのに、人々にあれこれ褒められたらいい気になったり、内心嬉しくなったりして、後にはそんなふうに褒められることが当然だと思ったり、もし施しをしたのに、相手がありがたいという一言もなければ、その人が無礼だと思ったりする。そういう姿はないのか顧みてみますように。心にあるこの高ぶりというものを捨てなければならないでしょう。高ぶりを捨てたつもりでも、環境が変わったり、状況が変わったらまた出てくるかもしれないので、いつも警戒しなければなりません。施しをするときは心から本当にその人を愛して、愛と真実だけを持ってしなければなりません。施しをたくさんして、人々に尊敬されたり褒められたりしても、高ぶることなくさらに低くなって仕える時、神様がくださる祝福を受けることができます。
イエス様は病人を癒して、多くのしるしと不思議を現わして、良い業、偉大な業をなさいましたが、仕えられたいと思ったことはありません。神様と一つである方ですが、いつも謙遜な姿で自分を犠牲にして仕えてくださいました。この地上ではいと低い場で人に仕えて、十字架に付けられ死なれましたが、永遠の天国では王の王、主の主になられました。そして私たちに仕える人になってこそ、天国で偉いものになると教えてくださいました。肉的な地位の高さと関係なく、どのくらい心が聖められて美しい心になったのか、どのくらい人に仕える人になったのかによって、天国で受ける栄光が違うのです。ですから皆さんも、相手を自分よりも優れていると思い、謙遜な心で仕えて、天国で偉い者になる祝福を受けますように。ヨブ記29章では、過去に自分がどれほど尊敬されていたのか、高い地位にいたのか、振り返っていたヨブが、30章からはまた現実に戻ってきて話をします。
ヨブ記30:1です。
しかし今は、私よりも若い者たちが、私をあざ笑う。彼らの父は、私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ。(ヨブ記30:1)
自分の羊の群れの番犬と共にいさせたものだと言っています。以前、周りの人々がみんなヨブを尊敬していたのですが、今になっては、若い者たちがヨブをあざ笑っているのです。ところで、彼らに向かってヨブはどんなふうに言っていますか?彼らの父は、自分の群れの番犬と共にいさせた者だと言って、その若者の父親まで、ものすごく侮辱している言葉を口にしています。皆さんはこのような表現が理解できますか?真理に照らしてみれば、とても悪い言葉であり、到底理解できない言葉でしょう。しかしヨブがどれほど今、心が痛んでいるのか、どれほど嘆いているのか、どれほど辛い思いをしているのか、その心を感じますように。過去はみんながヨブを尊敬して崇めていたのに、今はこのような人々が、自分よりも若い人々が、自分を嘲笑っているから本当に恥ずかしいし辛いから、そういうふうに表現しています。ヨブはなぜこのように嘲笑われるようになったのでしょうか?霊的に二つを悟ってみましょう。
聖徒の皆さん、誰かが皆さんを苦しめたり、皆さんを憎んだり、また皆さんの家族まで無視することはなかったのか考えてみますように。夫婦の間で夫婦喧嘩をするときどうでしょう?相手の家族まで悪口を言ったりする場合もあるかもしれません。今ヨブは、自分を嘲笑っている若者の父のことを無視して侮辱しています。なんでヨブはこんなに悪いことを言うのかと思うのではなくて、皆さんは自分の家族に、また人と喧嘩したりするとき、どんなふうに言っているのか顧みますように。そして誰かが自分に指摘してくるとき、「私には関わらないでください。自分の家族や自分の子供が、どうやっているのかを見てみてください。」とか言う場合があります。世の人はヨブよりもひどいことを言ったりするのですね。今このようなヨブの姿を通して私たちが何を悟るべきかを伝えます。
第一、ヨブは自分を迫害する人々を真理と反対の姿で対していました。マタイ5:44「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあり、ルカ6:27では「あなたの敵を愛しなさい。あなたの憎む者に善を行いなさい。」とイエス様は言われました。このように相手が自分を迫害して憎んだとしても、愛して善を行うことが真理です。ヨブがダビデ王のように相手に真理で行っていたなら、人に嘲笑われることはなかったでしょう。ダビデ王がアブシャロムの反逆によって逃げていた時、シムイという人が石を投げながらダビデ王を呪いました。その時家来のアビシャイがダビデに「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」と言いました。王の家来がこのように言うほど、王には王の権力があり、周りにはこのような力強い家来がたくさんいました。それならダベデ王は、「私を愛してくれる人だ。」と思ったでしょうか?そうではありません。
ダビデ王はこう言いました。「私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらなことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょう日の彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」ダビデ王は一介の民に呪われたのですが、許して神様の御手に委ねました。これが善の行いです。これは普通の人にはできないでしょう。相手が自分を呪う時、石を投げる時、こんな風に善を行うことができるでしょうか?また家来が自分のために憤り、怒ってくれている姿を見ながら、ありがたいと思うのではありませんか?でもダビデ王はそうではありませんでした。これは主が彼に命じられたのだ、放っておきなさいと言いました。そして主が今の自分の心をご覧になって報いてくださるだろうと、このように善を行いました。だから神様が働いてくださり祝福してくださったでしょう。私たちもこのような善の行いをしなければなりません。その善の行いを見て神様が祝福してくださるのです。
では皆さんはどんなふうに行っているのでしょうか?神様が感動して祝福をくださるくらいの善ではないのではありませんか?誰かが自分を呪ったり、自分を憎んで嫌がらせをしたりするとき、どんなふうに反応しているでしょう?言い返したり、言ってその人を問い詰めたりすることはなくても、心の中でその人を憎んだり悔しいと思ったり嫌だと思ったりひどいなと思いながら、その人への憎しみがあるかもしれません。でも私たちは真理を学んで知っています。だからそういう場合、イエス様が「あなたの敵を愛し迫害する者のために祈りなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」と言われた御言葉を思い出して、そのように善を行わなければなりません。私は、でも自分なりによくしてあげているのに、その人を許しているつもりなのにと言い訳をするのではなくて、神様がご覧になるとき、真理を基準にしたとき、本当に自分が善を行っているのか顧みますように。ダビデの行いと自分を比べてみますように。このように真理を行っていけば、善を行っていけば、悪魔サタンは退くのです。しかしヨブはそうではなくて、悪をもって対応したから言い争うようになって、結局人にあざわられるようになったのです。言い争いがあるところにサタンが働くようになります。
第二、ヨブは人々を差別する心がありました。今ヨブは、自分をあざわらう人々を見下げています。これは今、突然思うようになったのではなく、普段からヨブが、自分が助けていた人々に対して持っていた思いでした。うわべには表さなくても心の中では、相手を無視して差別するところがありました。だから今は彼らの父親を犬にまで例えて、このように侮辱しているのです。人は誰でも良い環境で良い教育を受けて育ちたいでしょう。しかし人によって家庭環境も違うし、社会文化的な背景も違うから、知識の水準も教養も価値観もそれぞれ違います。だから相手との違いを理解して、多様性を尊重して広い心で受け入れなければなりません。自分の基準で人を差別したり、人に点数をつけたり無視することがあってはいけません。教会の中でも世の人に対する時もそうです。自分が見てこの人は自分より上か下か、このようにすぐそんな風に評価する姿はありませんか?これは高ぶりです。これを捨てなければなりません。時には学識とかがない人もいるし、また環境が良くなかったから、自分とは違う生き方をする人もいます。それを理解しなければなりません。なんであの人はそんなことをするのかと、このようにもしかして心の中で無視するならば、平和を作ることができないのです。
教会は多様な人が集まっているところです。その多様性を尊重しなければなりません。時には罪と悪を捨てるのが遅い人もいるし、信仰がまだ弱いからいろんな問題が起こる場合もあるのですが、それもその人の信仰の量りに合わせて理解して、そしてその人のために祈り、尊重しなければなりません。ある人は熱心に忠実に仕えていて奉仕をしています。しかし周りの人の中で、あまり熱心でない人を見ると理解できないし、その人より自分はマシだと思うのです。それは高ぶりではありませんか?自分は献金もこんな風にしているし奉仕もしていると思って、あの人と比べて私はよくやっていると思うなら、これはその人を無視するような心が、高ぶりが心の中にあるということです。私たちはそうしてはいけません。全ての人を尊重し仕えてまた受け入れなければなりません。
イエス様はこのように人を差別することはありませんでした。お金持ちでも貧しい人でも学識がある人でもない人でも、差別しないで同じように兄弟のように愛してくださいました。そしてみなしごややもめ、疎外された人々にはさらに関心を持って温かい愛をくださいました。傷んだ葦も折らないでくすぶる燈心も消さない心で、私たちを愛してくださいました。しかしヨブは、自分を嘲笑う若者の父親まで侮辱しているから、神様の善とあまりにもかけ離れている姿です。神様は子供たちが主の心に似て、愛して許して受け入れる善の心を持つように望んでおられます。だからヨブもそのような善と愛を持つように、このように練っておられるのです。ヨブは続けて自分をあざわらう若者たちの父について言っています。
ヨブ記30:2です。
彼らの手の力も私に何の役に立とうか。彼らから気力が消え失せた。(ヨブ記30:2)
つまり彼らの父は、何の力もないし無能だ。使い道がない。自分に何の利益も与えることができないと言っています。自分と彼らは違うと言っているのです。彼らが自分の前に立つこともできないくらい、自分は豊かで尊敬されていた人だったのにと思って、相手を無視するのです。それなら彼らの暮らしはどうだったでしょうか?続く本文を見ればわかります。
ヨブ記30:3-4です。
彼らは欠乏とききんでやつれ、荒れ果てた廃墟の暗やみで砂漠をかじる。彼らはやぶの中のおかひじきを摘み、えにしだの根を彼らの食物とする。(ヨブ記30:3-4)
欠乏と飢饉でやつれといったことは、貧しくて食べ物がなくて飢えている姿です。また、暗闇で砂漠をかじるとあります。これは、する仕事がなくて絶望的な状態を言っています。食べるものがなくて土を口にするほどみすぼらしい姿です。このように貧しくて困っている人々をヨブは助けたのに施しをしたのに、恵みに報いるどころか、彼らの子供たちがヨブを嘲笑っているから、ヨブは裏切られたと思い、辛い思いをしながら、彼らが以前どれほどみすぼらしかったのかを説明しているのです。藪の中のオカヒジキを摘みエニシダの根を彼らの食物とすると表現しています。彼らが貧しくて厳しい暮らしをしていたことです。オカヒジキは、海辺や内陸の原生の砂地に自生する野草を言っています。エニシダは豆科の落葉小低木です。彼らは貧しくて食べるものがなくて、このような野草を食べていたのです。
韓国には1950年代にまで春の端境期がありました。その前の年の秋に収穫したものは全部なくなって、大麦もまだ実る前だから食べるものがなくて、草の根とか木の皮を食物としている時期がありました。ご年配の方々はそのような春の端境期の貧しさを経験したことがあるから、今ヨブが言っていることがよくわかると思います。食べるものがなくて、このような野草を摘んだりして、そしてやっと食べていったのです。韓国でも春の端境期の時は食べるものがなくて、このように草の根を摘んで、それでスープを作って食べたり飲んだりしていました。ヨブは自分をあざわらう若者の父親を、このようにみすぼらしいし貧しいと言いながら無視しています。彼らに自分が今あざけられているから、どれほどそれが悔しいかを言おうとするのです。
これまでにヨブを攻撃する人々は、ただ三人の友達だけがいたのではなくて、ずっと多くの人がいたことがわかります。彼らが一言言うと、ヨブは二言二言を言いながら、言い返して言い負かそうとしました。それで彼らの悪を刺激して、だんだん言い争うようになって敵を作っていきました。どうして今、若者がヨブを嘲笑っているのかを説明しました。ここまでヨブと三人の友達が言い争っている話を聞いていて、三人しかいなかったのかと思うかもしれませんが、ここにきてみたら、もっと多くの人々がヨブをこのように嘲笑っていて、ヨブを攻撃していたことが分かります。そのように指摘されたり、相手によってあれこれ言われた時、ヨブが黙って聞き入れていたらよかったのに。そうではなくて、彼らを無視して差別する心があるから、言い返して言い負かそうとして、彼らの悪を刺激して言い争っていたのです。どれほど愚かな姿でしょうか。互いに自分が正しいと言い争っていました。
しかしダビデの姿を見てみてください。相手が自分を呪っても黙々と神様の御心を求めていました。低くなって神様に頼ったら、神様が働いてくださったのではありませんか?皆さんは、試練にあった時や自分がいろいろ苦しみにあっている時、人によって低くなった時どうだったでしょうか?前は私が助けていた人なのに、今になっては私を無視してこんなにひどいことを言うのかと思ったことはありませんか?それならヨブと同じような姿ではありませんか?自分の心の中に人を無視して差別する心があるから、このように言い争うようになるのです。これを通してヨブが肉の人だったことがわかります。ヨブの言っていることを見れば、自分を嘲笑う若者たちの父親まで侮辱している姿を見てみればわかるでしょう。ヨブは、あなたたちは私にそんなふうに言う立場ではないと言っています。彼らが過去に自分なりに積んだ善も義も肉的なものだったことがわかります。
イエス様の姿はどうでしたか?ただ良い業をなさり人を助けたのですが、不当に苦しみを受け裁判まで受けられたのですが、反論したり訴えたりすることはありませんでした。また彼らがどれほど悪いのかみすぼらしいのかと言ったこともありません。ピラトがイエス様に反論する機会を与え、それでは「あなたは王なのですか」と言った時、イエス様はあれこれ言い訳をしませんでした。ヨハネ18:37で、「わたしが王であることは、あなたが言う通りです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」と真理だけで答えられました。十字架の苦しみを受ける時も、嘆いたり誰かのせいにしたりすることはありませんでした。イザヤ53:7に「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」とあるように、黙々と苦しみの道を歩まれました。
自分の犠牲を誰も分かってくれなくても、それによって悔しいと思いませんでした。自分を嘲笑って十字架につける人々のために、神様に許しを求めて祈りました。これがまことの愛であり義であり善です。皆さんは、主が示してくださったまことの愛と善を心に刻み、主の行かれた道に従い、主がおられる新しいエルサレムまで行きますように。愛する皆さん、ヨブは肉的には素晴らしい善を行った人だったのですが、それは霊的な善ではなかったので、試練にあって練られる過程で悪が表れています。まだ自分が正しいと主張しながら自分を高めていますが、ヨブの口の言葉は悪い悪の言葉が出ています。まことの義ではないことを自分で証明しています。ヨブが持っている義は肉的な義でした。ですから神様は、ヨブのその義が打ち砕かれて、まことの義を持つように練っておられるのです。
私たちもまことの善と義を所有するためには、真理をもって善と悪をよく見分けなければなりません。人の方で善と義だと思うことが、神様がご覧になるときは悪かもしれません。特に真理によって覆われた自分の義は、神様の義とは見分けがつかないときがあります。ですから神様が自分を発見して、義を打ち砕くように練ってくださる場合があります。自分の義を打ち砕いてこそ、神様の御心に従うことができるし、それによって祝福が望むからです。ですから、皆さんは火のように祈って自分の義を発見して、完全に打ち砕いて、神様が見られる時正しいことと善を所有しますよう、主の御名によって祈ります。
