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ヨブ記講解83 - ヨブの善と義(下)

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読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記29:14-18


人が服を着るのは当然で自然なことです。ヨブは義をまとい、義が自分をおおったというくらい、日常生活で全てのことにおいて正しく行っていたと、このように言っているのです。義をまとうほどだったと言っているのです。自分は正しいことを行っていたと訴えているのです。また私の公義は、上着でありかぶり物であったとあります。ここで上着とは、人の家を訪問するときや人に会う時着る礼服を言っています。普段着とかではなくてこのように正装する時着るものでした。したがって私の公義は上着であるということは、自分が道理を尽くしたということを言っているのです。子どもが親を敬うこと、兄弟が互いに愛し合うこと、隣人を助け合うことが道理です。これをヨブは行っていたのです。また、かぶり物は冠を言います。ここでは人が追求する目標や信念を言います。​


ヨブは公義を目標として、それを信念として持って行っていたのです。ある人の目標は、お金をたくさん稼ぐことかもしれません。自分の利益を求めて、お金を稼ぐためならば何でもする人もいます。しかしヨブは、自分が神様の前で正しくいること、義を行うことを目標として、そういう信念を持って行っていたということです。不義は行っていなかったというのです。しかし今はどうでしょうか?いろんな人に非難されて呪われていて、体も病気で苦しんでいるから、どれほど今自分を見て嘆いているでしょうか。自分は義と公義を追い求めて誠実に生きていたのに、全てがなくなってしまった。何も残ったものがないと嘆いているのです。皆さん、人の義というものは、もっともらしく見えても神様と関係ないし、結局は虚しいものです。自分が見て正しいことを自分なりに積んでいても、真理から離れた義は役に立たないのです。政治家のことを見てみれば理解できると思います。政治家は、自分なりに自分がしていることが正しいと主張するのではありませんか?そして相手の党のことは非難したりするでしょう。野党と与党が互いに非難しあって、互いに自分たちが正しいと言い張るのではありませんか?そして自分と反対の党の人々の、良くないところを暴いたりそれを非難したりしながら、自分たちが正しいというのです。でも神様がそれを正しいと見てくださるでしょうか?私たちは祈る時も、善をもって祈らなければなりません。​


例えば、店をやっている人がいるとしましょう。そしてその隣に同じ店をやっている人がいる場合、「神様、隣の店は潰れて自分の店だけ成功するようにしてください。」と祈るなら、それは善ではないし正しい祈りではないと神様は言われますね。このように私たちは、善と義を求めなければなりません。世の中でこのくらいは正しい方ではないかと思ってはいけません。自分が見て正しいことではなく、神様の御言葉、神様の御目で正しいことを行わなければなりません。私たちが信仰をもって行うことは、天国で報いとなるから価値のあるものです。神様は出エジプト15:26「主が正しいと見られることを行いなさい」と言われました。そして詩編1:1-6には、正しい人と悪者の違いがはっきり書いてあります。世で義だと思うこと、世で正しいと思うこともありますが、私たちは、神様が義だと認めてくださることを行わなければなりません。そして世ではそれが愚かなように見えるかもしれませんが、私たちは真理を追い求めなければなりません。今は低くなっているかもしれないでしょうが、今は損するように見えるかもしれないのですが、私たちは真理に従っていかなければなりません。神様が正しいと見られることを選んでそれを行わなければならないのです。


詩篇1:1―3です。正しい人についてこうあります。正しい人は悪を離れ真理に留まっているから幸いだとあります。「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座につかなかった、その人。まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」とあります。反対に悪者はどうでしょう。詩篇1:4-6です。「悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。まことに、主は、正しいものの道を知っておられる。しかし、悪者の道は滅びうせる。」とあります。悪から離れ、善と真理に留まっていてこそ真に正しい人であり、真理そのものである神様の御言葉を基準にして、神様が正しいと見られることを行わなければなりません。皆さんは神様の御言葉を喜びとしてそれを昼も夜も口ずさみ、自分が見ての義ではなく、神様がご覧になっての義を所有しますように。ヨブは続けて自分がどれほど正しかったのかを説明しています。​


ヨブ記29:15-16です。


私は目の見えない者の目となり、足のなえた者の足となった。私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。(ヨブ記29:15-16)


目が見えない人は、どれほど生活で困っているでしょうか。ヨブがこのような人々の目となったということは、彼らが苦労しないように助けたという意味です。また足がなえて引きずって歩いている人は、どれほど日常生活に支障があるでしょうか。それによって人々に嘲られるなら、どれほど傷つくでしょうか。しかしヨブはこのような人も助けて慰めました。それだけではなく、貧しい人々にとっては、父のように子供のように面倒を見てあげました。そして見知らぬ者の訴訟を調べてやったとあります。自分と何の関係もない人でも、彼らに何か問題があるなら、自分のことのように思っていろいろ助けたのです。ヨブがどれほど正しいことをしたのか、良いことをたくさんしたのかが分かりますね。自分とよく気が合う人だけではなく、全然関係のない人でも助けていました。どれほど素晴らしい行いだったでしょうか。こんな風に行う人がどのくらいいるでしょうか。皆さんこのメッセージを聞きながらヨブと自分を比べてみてください。皆さんの善と義はどのくらいなのか考えてみますように。


ヨブは最善を尽くして施しをしていました。皆さんはどうでしょう。申命記15:10に「必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。」とあります。ルカ福音書12:33には、「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。」とあります。このように聖書では、神様が施しを喜ばれることが書いてあります。それが祝福の道だとありますが、皆さんはどのくらい施しをしているでしょうか?この他にも、施しについての聖書の御言葉はたくさんあります。施しをすれば神様に貸すことだという表現もあります。神様は天地万物の主人ですが、私たちが貧しい人を助けること、施しをすることは神様に貸すことだと言っています。それなら神様が祝福として返してくださるでしょう。神様の御心だから施しをするのです。


牧者はそうでした。最善を尽くして、聖徒のために教会のために全てを捧げました。余裕がある時もない時も、最善を尽くして聖徒のために尽くしてくださいました。そのようなものは天に積み上げられます。だから盗まれることもないし消えることもないのです。この地上では財産をたくさん積んでおいても一瞬でなくなる場合もありますが、天国に積んでおいたものはなくなることはありません。祝福として神様が必要な時にくださるでしょう。私たちが施しをしてまた祈りをしてそれを積んでおけば、神様がその都度その都度必要な時に報いてくださるのです。施しを精一杯している方々がいます。そのような人々を神様はさらに祝福してくださり、さらに施しをするようにしてくださいます。しかし施しもしないで自分のためにだけに使っていた人ならば、祝福されることも難しいのです。皆さん施しをしているでしょうか?ヨブは、自分なりに最善を尽くして施しをしていました。そして色々な人々に褒められていました。その行いだけはどれほど素晴らしいでしょうか。皆さんと比べますように。そしてヨブは、自分と何の関係もない人も助けました。皆さんは家族や身近な人、周りの人をどのくらい顧みているでしょうか?同僚はもちろん、隣人のために犠牲になって、また道を歩いている人でも何か助けが必要ではないのか、心を配ったことがありますか?


そして例を挙げてみましょうか。皆さんと関係のない人ですが、皆さんが善を行っているかどうかを顧みるようなことがあります。例えば外に食事に行った場合、皆さんは、その店で働く従業員や店員の方々と接するときに、失礼なことがないようにしているのでしょうか?ぞんざいに扱ったり、命令するように指示する態度の人はいませんか?自分がその店でお金を払ってサービスを受けている側だから、このくらいは要求してもいいのではないかと思うかもしれませんが、しかし私たちは善の御言葉を聞いています。本当に人を尊敬して尊重して仕える心ならば、どんな人に対しても同じように丁寧にまた大事に思って、また礼儀に反することがないように接するのではありませんか?ヨブのように、全然自分の関係のない見知らぬ人を助けることはなくても、このような日常生活で些細なことでも、私たちは人に仕える心でいましょう。


牧者はいつもそうでした。私たちはそれに関するいろんなエピソードを聞いているでしょう。それなら皆さんは、日常生活でどんな風にしているのか顧みますように。本当に人に仕えていて、そして気を配っている人ならば、家族はもちろん、周りの人はもちろん、このように日常生活で会う人々に対しても失礼なことはしないでしょう。そして自分の家族なら親戚ならなおさらではありませんか。さらに心を配ってその人々がどうしているのか顧みて助けなければならないでしょう。しかし、人々は今自分の暮らしにだけ汲々としていて、また自分の子どもたちだけを養うのに精一杯だから、周りの人を顧みる余裕はないと思うかもしれませんが、お金があるかないかの問題ではなくて心です。どのくらいそのような人々に関心を持っているのか、心を配っているかです。自分の家族にはよくしてあげているのに、自分と関係ない人や教会の人にはそうしない人もいるのです。又、反対の人もいるのです。自分を顧みますように。


ヨブは聖霊を受ける前の人だったのに、このように正しい善の行いをしていました。それならイエス・キリストの十字架の愛と救いの恵みを受けていて、聖霊を受けている私たちはどうすべきでしょうか?たっとい真理の御言葉をいつも聞いて知っている私たちは、ヨブの義よりも優れていなければならないでしょう。しかしこのように正しいこと、良いことをたくさんしていたヨブだったのに、彼がこのように滅びてしまったら、周りの人々が変わってしまい、ヨブを非難して呪ったり、あざけたりしました。自分の利益によって、このように移り変わってしまう人の心がどれほど悪いでしょうか。どれほどずる賢いでしょうか。私たちはそのような心を持っていてはいけないでしょう。偽りも移り変わりもない真っ直ぐで真実な心を持ちましょう。


イエス様を心から愛していた人々は、イエス様が苦しみを受けられる時もそのそばを離れませんでした。自分に害が与えられるような状況でも恐れないで、最後まで涙でイエス様の後についていきました。初代教会の聖徒ステパノ、使徒パウロなど多くの信仰の人々も同じです。鞭で打たれて牢に入れられても、十字架に逆さにつけられても、獅子の餌食になったり、剣で首がはねられても、主を否定しないで福音を伝えるのをやめませんでした。ところが今日はどうでしょう。神様の力で重い病気が癒されたのに、恵みを捨ててしまう人がいます。癒されれば忠実に仕えますと言っておいたのに、時間が経ったら移り変わってしまいます。また天国への希望を失ってしまい、罪を捨てることが厳しく思い、世に向かってしまう人もいます。イエス様は、罪によって地獄に行くしかなかった私たちを、十字架の愛で救ってくださいました。このような大きい恵みを受けた人が、どうして環境が厳しいからといって、試練が辛いからといって信仰を捨てるでしょうか。皆さんは、変わらない信仰を持って、神様を第一に愛し、御言葉通りに聞き従って、神様の恵みと愛に報いる真の子供になりますように。これが、神様が認めてくださる正しい人なのです。続けてヨブは、過去自分が正しかったことを自分の義を言っています。


ヨブ記29:17です。


私はまた、不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。(ヨブ記29:17)


ここで不正をする者のあごは強い力を意味します。権力を意味します。ライオンのあごを砕くならどうなるでしょうか?それ以上獲物をかみ砕くことができないでしょう。同じようにヨブは、不正を行う人の強い権力を自分が砕いて、弱い者を助けたと言っているのです。例えばソロモンの名裁判があります。第一列王記3章を読むと、一人の赤ちゃんを間に置いて、二人の女性が、自分が本当のお母さんだと主張することがありました。この二人の女性は同じような時期に赤ちゃんを産んだのですが、一人の女性が自分の過ちで子供が死んだら、夜こっそり他の女性の赤ちゃんと入れ替えておきました。朝になって、自分のそばに寝ていた赤ちゃんが死んでいるのを見たもう一人の女性は、どれほど驚いたでしょうか。そして詳しく見てみれば、その赤ちゃんは自分の子ではなかったのです。赤ちゃんはみんな似ているようでも、お母さんなら自分の子が分かるでしょう。そして生きている赤ちゃんが自分の子だと、見て分かるのではありませんか。それで二人は互いに自分の子だと言い争っていて、ソロモンのところに来て裁判を求めました。この時ソロモンは、その赤ちゃんを剣で半分に分けてあげるようにと言いました。本当のお母さんが誰かを明かすためだったのです。本当のお母さんならその赤ちゃんを死なせることができないからでしょう。ソロモンが予測した通りに、本当のお母さんは、じゃあその赤ちゃんはあの女性に与えて、その子は殺さないでくださいと言いました。しかし、偽のお母さんは半分にして公平に分けましょうと言いました。何が本当なのかがすぐ明らかになったでしょう。


ヨブも、自分もこのように、不正を行う人々から弱い人々を救い出して、献身的に助けたと言っているのです。このように貧しい人、困っている人々をいつも助けていたでしょう。ヨブには権威もあったし力もあって、富も名誉もありました。でもこのような地位にいても愛と善がなければ、隣人のためにこのように献身できないでしょう。かえって権力を悪用する人もいるし、お金があるともっと欲張る人もいます。しかし、ヨブはそうではなかったのです。このように正しいことをしていて、人々からも愛されて尊敬されていました。


ヨブ記29:18です。


そこで私は考えた。私は私の巣とともに息絶えるが、不死鳥のように私は日をふやそう。(ヨブ記29:18)


私の巣と共に息絶えるとは、罪のない状態で死ぬことを言います。不死鳥のように私は日を増やそうとは、長生きするという意味です。ところで息絶えるという言葉の後ろに、長生きするという意味で日を増やそうという言葉が来るから、文脈が合わないようです。ここで私の巣と共に息絶えるとは、単に死ぬことを言うのではなくて、最後まで善を追い求めていって平安に最後を迎えることを意味します。ヨブは昔良かった時、善をたくさん行っていたから自分で祝福しているのです。私は長生きをする、平安に目をつぶるようになると言っているのです。このように堂々と言えるくらいの人だったのですが、今は苦しんでいて滅びてしまったからどれほど悲しかったでしょうか。皆さん、人は明日のことが分かりません。箴言27:1に「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。」とあります。ヨブは岩ではなく砂の上に家を建てておいたので、つまり神様の御言葉ではなく、自分の考え自分の義によって生きていたから倒れてしまいました。


自他が認める正しい人だったのですが、厳しい試練の前では彼の義はなくなってしまい、悪が出てきました。このように肉的な善と義はいくら良さそうに見えても、いずれ自分の限界にぶつかると倒れてしまいます。しかし私たちが神様の御言葉通りに、岩の家に家を建てておけば、今日も明日も決して倒れません。真理にあって建てられた善と義は、どんな試練患難がやってきても揺るがないしかえって輝くのです。ですから神様は、ヨブがこのように揺るがない岩の上に立つようにするために練っておられるのです。イエス様もステパノ執事も使徒パウロもそうであったように、自分を殺そうとする人々のために愛をもって祈り、自分の命までも与えることができる霊的な善と義を持つように、神様は望んでおられます。皆さん、私たちは教会の試練の過程を経験しました。その時ヨブのような姿はなかったのか顧みますように。自分なりに正しい行いをしていたのに、自分なりに善を行っていたのに、いろんな人を助けていたのに裏切られた時どうだったでしょうか?そして自分なりに心を分かち合っていた人だと思っていたのに、自分を裏切ってしまったとか、自分を愛する人を離れて教会を攻撃する人もいたでしょう。そのような人に対して皆さんはどう思いましたか?どんな感情を抱いたでしょうか?それを顧みますように。


ヨブは今それについて恨んでいてつぶやいています。ヨブは自分なりに正しいことを行っていて、自分なりに良い業をたくさんしていたのですが、それは肉的なことだったのです。私たちは霊的な善と義を持たなければなりません。ペテロはイエス様に死ぬことがあっても、イエス様を裏切らないとついていくと言ったのですが、その時それがペテロの本心だったでしょう。でも結局は後でどうなったでしょうか?イエス様が十字架につけられる時は、恐れて否認してしまったこともあったでしょう。私たちは、自分にもそういう姿があるということを認めなければなりません。そして自分のそのような恥ずかしいところ、自分が今発見した自分の悪を見て感謝しなければなりません。今ヨブはそれを悟っていないのですが、後で神様が悟らせてくださるでしょう。私たちは今のヨブの姿を見ながら、自分を比べてみて正しく悟りますように。


結論です。


ヨブは聖霊を受けていたのでもないし、真理をよく知らなかったのですが、その行いだけはとても正しかったし、良い行いをたくさんしました。ところで私たちは聖霊を受けています。多くの真理の御言葉を教わってよく知っています。だから当然ヨブの義や善より優れていなければなりません。真理にあっての義とは正しい神様の御心に従って正しく行うことです。詩篇11:7に「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎみる。」とあるように、神様は正しい人を愛してくださいます。自分が見ての善と義ではなく、神様が認めてくださる善と義でなければならないのです。人が見て正しいように見えても、神様の御目には正しくないことがたくさんあります。自分の義というものがあれば、神様の御心よりは自分の義に従うようになります。ですから自分が正しいという義を打ち砕いて、神様が義だと認めてくださる行いをしていきましょう。そうすれば祝福が臨みます。


使徒パウロは第一コリント15:31でこう言いました。「兄弟たち、私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリストイエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」今ヨブは過去の自分の正しい行い、また善行を自慢しているのではありませんか?しかし使徒パウロは反対です。毎日が死の連続であることを誇っています。私たちもこうなりましょう。毎日自分というものはなくなり、完全な真理の人に変えられ、多くの人に福音を伝える生き方をして、天国で太陽のように輝く栄光の主人公になりましょう。皆さんも自分の義を打ち砕いて、真理にあって永遠に変わらない、揺るがない霊的な善と義を所有して神様に喜ばれますよう、主の御名によって祈ります。

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