ヨブ記講解83 - ヨブの善と義(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記29:11-13
前回、ヨブは、かつて神様がくださった祝福を受けていた時を振り返っていました。ヨブは、過去に自分がどれほど尊敬される地位にいたのかを説明しながら、その時が良かったと語り、今の苦しみを嘆いていました。しかし、神様を信じている私たちは、たとえ現実が厳しくても、神様を信じなかった過去が良かったと言ってはいけないでしょう。エジプトから出たイスラエルの民は、救いの喜びと大きい神の力を体験したのに、逆境にぶつかるたびに、モーセと神様につぶやいていました。エジプトで苦役した奴隷の時代が良かったと言っていました。出エジプト記16:3です。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。」とまで言いました。皆さん、いくら肉を食べたいほど食べられても、パンを満ち足りるほど食べていても、奴隷として暮らした方が良いでしょうか?そうでなければ自由の身になっていた方が良いでしょうか?
自由を味わった方が良いのではありませんか?そして、彼らがそれを求めていたから、神様はそこから連れ出してくださったのに、今、目の前に肉がないからと言って、このように神様の前につぶやいていました。このような人々は結局、乳と蜜の流れるカナンの地に入れず、荒野で死ぬしかありませんでした。エジプトから出たイスラエルの民のことは、私たちがエジプトのような世の中から、イエス・キリストを受け入れて、敵である悪魔サタンの奴隷から抜け出して、神様の子供になったことを意味します。またイスラエルの民が、カナンの地に向かっていく旅路は、天国に行く聖徒の信仰生活を意味しています。私たちはエジプトのような世の中から、イエス・キリストの恵みによって救われて天国に向かっています。このように幸いな道を歩いているのに、世に対する未練を捨てず世を愛しているなら、どれほど愚かな姿でしょうか。
私たちの信仰生活は、一日が経つと天国とさらに近くなるのだから、毎日感謝と喜びが溢れなければならないでしょう。今日もヨブは、自分の過去を回想しながら、過去が良かったと言っています。ヨブは自分がどれほど正しかったのか、良いことをしていたのかを言っているのですが、それは神様が望んでおられる善と義ではありませんでした。なぜヨブが試練にあって練られるしかないのか、今日のメッセージで悟りますように。神様が望んでおられる霊的な善と義を所有しますように。
ヨブ記29:11です。
私について聞いた耳は、私を称賛し、私を見た目は、それをあかしした。(ヨブ記29:11)
以前ヨブは人々に尊敬され愛されていたし、自分を祝福する声をよく聞いていました。人々はしきりにヨブを褒めちぎっていたし、ヨブのことをいろんな人に伝えました。しかし今、ヨブが聞いているのは自分を非難する声です。過去とは全然違う現実に置かれているヨブは、どれほど悲しんで苦しんでいるでしょうか。とても愛されていた人が、何かのきっかけで非難されるようになると、心の苦しみは大きいでしょう。私たちは心に傷ついた人を非難するのではなく、慰めて希望を持つように助けなければなりません。もし、罪を犯して神様と人々の前で恥ずかしく思っている人がいるなら、どんなふうに接するべきでしょうか?責めたり指摘したりするのではなく、その人の良いところを探して力づけて御言葉を持って悟らせて、愛を持って進め悔い改めるように導かなければなりません。
悔い改めるように導く時も、自分の義によって相手に押し付けたり引っ張ったりしてはいけません。苦しみを受けていて試練にあっている人が、霊的に悟るようにして悔い改めさせなければと思って、今落ち込んでいる人のところに行って、あれこれ指摘をするなら、その人はさらに落ち込むようになるでしょう。つまずいている人が立ち直る力が与えられるように、待ってあげることも必要です。手を差し伸べてその人を助けることはいいのですが、引っ張ったり押し付けたりしてはいけないのです。神様の愛を伝えて、神様の心を感じるようにして、勇気を持つようにしなければなりません。悔い改める力もない人もいるでしょう。そのような人がまず聖霊によって、自分で自分を顧みて悟るようにして、また愛を持って真理の御言葉を持って、その人が立ち直るように支えなければなりません。
皆さんは自分なりに良かれと思って、その人のためだと思って、あれこれ教えようとしたり、こうしなければならない、ああしなければならないとか、そのように進める時もあると思うのですが、相手はそれによってさらに傷つくこともあるので、気をつけなければならないのです。相手が聞く耳を持つ時、心を開いて受け入れるようになった時に、その人に必要な御言葉を伝えたりした方がいいと思います。神様がくださる知恵をもって愛をもって、その人のために祈りながら接するようにしなければなりません。そうではなくて、こうしなければああしなければと言いながら、相手をもしかして教えようとする人はいないでしょうか?
今日、子ども教会学校の子ども主日礼拝の時、光と闇について伝えました。例えを挙げて伝えました。例えばスマホを持っている子がいて、学校の友達が新しいスマホを買ったなら、それが欲しくて、母に私もそれ買ってくださいと言ったり、だだをこねたりすることは、光ですか闇ですかと聞いたりしたのですが、皆さんならわかるでしょう。今日のメッセージを聞きながら、皆さんは愛を持って人に接しているのか、そうでなければ自分の義というものを相手に押し付けている姿ではないのか、顧みますように。真理を教えているつもりだけれども、相手はそれによって傷つく場合もあります。そして1回2回そのように言っても聞かない時もあるのですね。それでも最後までその人のために祈り、その人が悔い改めるように、立ち返るように、神様の愛の心を持って忍耐を持って寛容でいましょう。その人がまた起き上がる力を持つように慰めて助けましょう。ヤコブ5:19-20です。「私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなた方は知っていなさい。」とあります。
伝道することはとても大きいことです。世の人、死に向かっている人を救い出して主に導くためにも、多くの労苦と献身が必要です。そしてある人は教会に通っていて、神様の懐にいたのにそこから迷い出てしまう人もいます。そのような人も愛を持って連れ戻さなければならないでしょう。罪を犯した人がいて、その人に言っても聞き入れてくれないからと思って、あきらめてしまってはいけないのです。その人が罪から立ち返るように助けなければなりません。そしてつまずいていて落ち込んでいる人も待ってあげて、その人のために手を差し伸べましょう。真理から離れた人がいる時、その人が戻ってくるように助けるなら、その魂を死から救うことでしょう。そして多くの罪を覆うことでしょう。このような愛を実践しましょう。続く本文では、以前人々がなぜヨブを褒めて祝福していたのか理由を説明しています。
ヨブ記29:12-13です。
それは私が、助けを叫び求める貧しい者を助け出し、身寄りのないみなしごを助け出したからだ。死にかかっている者の祝福が私に届き、やもめの心を私は喜ばせた。(ヨブ記39:12-13)
ヨブには善があったから、施しをして人に分け与えることが好きでした。貧しい人やみなしご等困っている人やかわいそうな人々のために施しをして助けました。死にかかっている者の祝福が私に届きと言うくらいでした。またやもめの心を私は喜ばせたと言っています。ヨブがやもめの問題や貧しさを解決して助けてあげたからです。しかしヨブは、そのような人々を霊的に助けたのではなく、肉的に助けただけでした。ヨブに助けてもらった人々がヨブを褒めていたことも、真実ではありませんでした。助けを受けていた時は感謝していたのですが、時間が流れてその助けが持続されない時は、自分を助けた人を非難したり責めたりする人もいます。私たちはそうしてはいけないでしょう。自分の利益になる時は相手に近づいて、相手が潰れたり自分の利益がなくなったときは裏切ることがあってはいけません。そして施しをして良い業をした人は、自分が助けたことで終わらなければなりません。その相手が自分に感謝しなくても、自分に何かお礼をしなくても、そして自分をもしかして裏切ることがあっても、その人を非難したり憎んだりしてはいけないでしょう。
皆さん、多くの人が自分の良心によって善を行います。しかし神の子どもたちは、神様の御言葉に従って善を行わなければなりません。この教会では施しについて伝えましたが、肉的な施しがあり霊的な施しがあります。経済的に困っている聖徒がいて、その人に施しをしようとしたとしましょう。その人が御言葉通りに生きていなくて、そしてお酒を飲んだりしているとしましょう。お酒を飲んでいて仕事もまともにしないでいるなら、その人を教会が施しをしてもいいでしょうか?もし施しをするなら、お酒を飲むためにそのお金を使うのではありませんか?その人は本当に困っているから貧しいからと思って、誰でも施しをするのではないのです。なぜならその人を一時的にそのように助けたとしても、それによって問題が解決されるのではないでしょう。その人の問題、つまり今お酒を飲んでいることを解決するように助けなければなりません。そして信仰を持つように助けなければならないでしょう。
しかしただその人が今貧しいからと言って、お金とか物質で助けただけならばその人は霊的に助けるのではないのです。だから神様の御言葉で自分の良心に従って施しをすることと、ただの施しではこのように違う意味があるのです。自分の良心によってかわいそうに思って施しをする場合もあります。それは神様の御目には正しくない場合もあります。神様を信じて御言葉通りに生きていても、今いろんな事情があって経済的に困っていったり厳しい状況ならば、施しをすることはいいのですが、御言葉通りに生きてもいないし、世を愛してギャンブルをしたり、お酒を飲むのにお金を使ってしまったりしている人を、ただ施しをしていいでしょうか?そして霊肉ともにもちろん施しをしなければならないのですが、今言っていることは、自分がいいと思って自分の良心によって行う善か、そうでなければ、神様が望んでおられる善なのかを、よく見分けなければならないということです。皆さんも自分がどんなふうに善を行っているのか、どんなふうに忠実に仕えているのか、それが肉的なことではなかったのか、顧みますように。
神様の子供が、かわいそうな人を物質で助けたからといって、それを愛と善行とは言えないのです。それはクリスチャンとして基本的な道理であり、人として当然すべきことだからです。それが何か褒められるようなことではないということです。当然行うべき善だということです。ところで今言っている真の善とは何でしょうか?それは神様の御言葉を守り行いながら、施しをして善行を行うことです。さらにより重要なことは真理を行うことです。敵をも愛して、許せないような人も許して助けることが、霊の愛であり真の善です。このような善を所有して、そういう善の心から施しをして人を助けることを、神様は喜ばれるのです。しかし自分の心には善がないのに、ただ上辺だけ良い行いをしていても、それは神様が認めてくださる善ではないのです。
自分のものを分け与えて献身している働き人でも、誰かが自分の陰口を言った時、嫌な思いをしたり憎んだりするなら、神様の前で善だと言えないでしょう。自分が施しをして助けた人が、時間が経った後、それについて感謝もしないで自分を裏切ったりするなら、ヨブのようにその人を憎むかもしれません。恨むかもしれません。それは善から出てきた行いではないでしょう。ある人が困っていてその人を施したのですが、その人が後で裏切ったり感謝もしない場合はどうでしょうか。皆さんならどうでしょうか?万民の聖徒の皆さんも牧者からどれほどいろいろ施しを受けたでしょうか。牧者はお年寄りの方のためにも、また子どもたちのためにも、本当にいろんな分野で施しをしてくださったでしょう。そして中高校生のためにもいろいろ施しをして支援してくださったから、今はそのような人々が社会に出ていて、自分で仕事をして教会に献金しながら、その時の恵みに報いたいですと言っている青年たちもいて本当に感謝です。
でも同じように施しを受けたのに、教会を裏切って教会の中で問題を起こしたりする人もいるのです。それでも牧者は同じように愛してくださいました。それでも施しをしてその人が困らないように、その人が辛い思いをしないように、そして経済的に安定してその人が信仰生活に集中できるように、そして神様の前にも、悔い改めるようにという愛の心をもって、善を行っておられました。このような牧者の善と愛を私たちは見て聞いたのではありませんか。どれほど深い善だったでしょうか。私もそのような牧者の善を見習いたいと思っています。それで牧者のように自分なりに最善を尽くして施しもいろいろしたのですが、でも牧者の心と比べれば、私は本当に牧者の善には足りないと思いました。そして私が施しをした方々が教会から離れてしまったり、私を裏切って攻撃したりする姿もあるのですが、もちろん悲しいですけれども、それでも牧者の心を思いながら、私もその方々のために祈るようになります。そして施しをしたことを後悔したこともありません。牧者の心をさらに思うようになりました。心に善があって、その善と愛をもって施しをすれば、見返りがなくても損はないのです。神様が全てを報いてくださるからでしょう。人に何かしてもらいたいという心がないからです。皆さんは神様が望んでおられる真の善を心に所有しますように。
ヨブは、以前このように自分が施しをしていろんな人を助けたのに、そのような人が今は自分を非難してからかっている。誰も自分を助けてくれないと、このように恨んでいて嘆いているのですが、皆さんはもしかしてこのような姿ではないのか顧みますように。そして熱心に忠実に仕えていて施しをしているのに、自分の思いに合わない人がいたり、何かのことで気にならないことがあったら、ああだ、こうだと言ったり、文句を言っている人がいるならば、その人はもう善だとは言えないでしょう。第一コリント13:3に「また、たとい私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」とあります。施しをして犠牲になって献身する人でも、その心に悪があり真理と反対のものがあればそれが出てしまうのです。心が移り変わってしまうのです。人々は人の言葉とか行いを見て判断したり、自分も自分のよくやったことだけを考えるのですが、神様は人の心をご覧になります。移り変わらない心、真実を望んでおられます。
他の例をあげましょう。皆さんが信じて愛している人が、何かミスをしたり罪を犯したりして神様の栄光を遮った場合、どうすればいいでしょうか?非難したり責めるのではなく、愛を持って助言して、その人のために断食して祈らなければならないでしょう。そしてその人が悔い改めて立ち返ったなら、許して前よりさらに愛する心でいなければならないでしょう。しかし罪に定めたり裁いたりしているなら、神様がご覧になってどう思われるでしょうか?自分の悪は悟れないまま、自分は忠実に働いているのに、いろいろ献金もしたのに、なぜ神様は祝福してくださらないのかと思う人もいます。癒しの集会の時、癒されるために、問題が解決されるために、自分なりに癒しの集会に備えていろいろ行ったのに、また日常生活でも教会の奉仕にも熱心だったのに、なぜ癒されていないのかと思う方もいますが、本当に私が見てももどかしいです。根本的な原因がわからないし、解決されないからです。ヨブの姿を通して自分の姿を顧みますように。なぜ答えを受けられないのか、その霊的な原因を正確に悟る皆さんになりますように。続く本文を見るとヨブがどれほど正しい行いをしていたのか振り返っています。
