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ヨブ記講解82 - ヨブの過去の回想(下)

3 日前
読了時間: 15分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記29:7-10


ヨブ記29:7-8です。


私は町の門に出て行き、私のすわる所を広場に設けた。若者たちは私を見て身をひき、年老いた者も起き上がって立った。(ヨブ記29:7-8)


町の門は、城壁のある町の門です。それは町を守るためのものですね。そして聖書を読むと、その町の門で取引もして、契約をしたり、裁判もしたり、預言者たちがそこで神様の御言葉を叫んだりしました。ヨブがこのように町の門に出ていたことは、彼の権勢がそれだけ大きかったことが分かります。町の門はただの門ではありません。このようにいろんな役割のある門があって、誰もがそこに立つことはできなかったのですね。ある程度地位や権力がある人がそこで活動できました。試練に会う前、ヨブは、このように権力もあって物質もあって豊かだったし、また高い地位を持っていました。それで、若者たちはヨブを見て身を引き、年老いた者も起き上がって立ったというくらいだったのです。


昔はある街に王や高官が通ると、子どもたちもおとなしくなって、また大人の後ろに隠れて見ていたでしょう。しかし物もらいとか精神異常の人が通ったりすれば、子どもたちはその人を取り巻いてからかったりします。聖書にもこのような場面が出てきます。預言者エリシャがエリコの中で、いろんなしるしを行った後、出て行く時だったのですが、多くの子どもたちが、エリシャをからかいながらひどく苦しめました。その外見をハゲ頭と大きい声で言いながらからかい、執拗について来ました。それでエリシャが何度も良い言葉で、優しくそれをやめなさいと言ったのですが、そうしなかったから、結局は呪ってしまったのです。でもヨブは、若者たちが彼を見て身を引くほど尊敬されていました。また年老いた者も立って挨拶をするくらい、地位が高かったことがわかります。ところでここで私たちが一つ覚えておくべきことは、肉的な地位や名誉、富や権力は、人の心を得るのには限界があるということです。


そのような地位とか名誉、富、権力がなくなってしまえば、今までついてきていた人々が離れてしまうから虚しいことではありませんか?このような肉的なものは、まことの価値あるものではないのです。世で多くの人々が、自分の権力や財産を自慢して威張ったりするのですが、それを失ってしまったらどうなるでしょうか?恥ずかしくて人と会いたくないと思い隠れますね。今の生活を比べながら、喪失感と絶望感を大きく感じるからです。しかし心が聖く真実な人は、そのような富とか名誉、権力と関係なくいつも堂々としています。世の権力の前でも恐れません。誰に会っても、自分の姿そのままを見せて率直に言います。偽りもなく飾ることもなく、大げさに言ったりすることも見せかけもありません。いつも堂々としていて真実に言えます。しかし何かを隠そうとしたり、自分を大きく見せようとする人もいます。そのような人は低くなった時は、人と話すことを避けようとするのです。また学識がないとか貧しいからといって劣等感を感じて、自己肯定感を失う人もいますが、貧しさとか学識がないことは罪ではありません。


たまに働き人の中で、私と話をするとき緊張する人がいるようです。今伝えたように心が真実な人は、どんな人に会っても大胆で堂々といられるでしょう。もちろん目上の人に会って何か報告するときは、ミスをしないために緊張するかもしれませんが、でもその心もちょっと顧みてみたらと思います。ミスをしたらどうしようかと思ってこのように緊張すると、もっとミスをしてしまうのではありませんか?堂々と報告すべきことは客観的に報告して、もしかして自分に何かミスがあったならば、それは率直に言って謝ればいいのではありませんか?そして講壇に立って賛美をする人の場合も、例えば賛美大会に出た人が、練習の時はうまくいけたのに、本番では緊張して震えてできなかったとかいう人もいますが、以前牧者はそんなことはないと言われました。普段から、神様の前に心を尽くして賛美をして練習していたならば、本当に心から神様の前に賛美を捧げたならば、人が見ているのを気にすることなく、緊張することもなく、神様の恵みに満たされて賛美を堂々とできると言ってくださったことがあります。


賛美大会の本選に上がって、神様の前で賛美を捧げて、皆さんが恵みを受けるようにすることに感謝しながら、また聖霊に頼って祈りながら練習するなら、心が安らかになって実力を発揮できるでしょう。でも人の目を意識したり、もっと画面にきれいに映らなければとか思ったりしていると、肉の思いを巡らしてしまうから緊張もするし、またミスもすることもありますね。私は以前、マンミンの支教会ではなく外部の教団のセミナーに行ったり、また外部の教会に招待されて行ったこともあるのですが、どんなところに行っても、そのように緊張して震えることはありませんでした。なぜならば神様に頼っていたからです。私はあまり学識もないし、権力とか地位がある人でもないのですが、国の国会議員とか、放送局の頭とか、また大きい教団の総会長の方々に会う時もありました。しかし、私はそれを見るのではなくて、私の後ろにおられる神様、大きな霊的な権威ある方が私を支えてくださるからと考えて、どんな人に会っても私は、何か不安になったり緊張したりしなかったのです。​


そのために備えて祈る時も、あれこれ肉の思いを巡らして、政治家なのに何の話をすればいいんだろうとか、そのような地位の人々の前で、もしかしてマナーとかミスをしたらどうしようとか、そのように考えたことはなかったのです。そうではなくて、霊的な権威、神様が私と共におられるから、私の心と私の口を神様が支えてくださるからと思って、その信仰があるからいつも心が安らかで、そして平安に話をすることができました。国会議員とか政治家の方とかにお会いしてもそうでした。


そしてその方々が、私に何か質問をされたこともあります。そしてある国会議員の方が、自分の地域でイカ業が盛んであるけれども、それを韓国に輸出したいとか、そのような経済的な問題や貿易のことを話題にされたり、また国がもっと経済的に豊かになるためにどうすべきでしょうかとか、このように私に質問されたこともありました。もちろんその方は外国語で言われるから、通訳が1回2回くらいあって、私はそれを聞くのですが、その通訳している間、私は心の中で神様私に知恵をくださいと祈るのです。


それで神様が、聖霊様が私に教えてくださるのですね。答えるべき内容を。それで私は韓国のキリスト教の歴史について説明をしました。朝鮮時代とか貧しかったのですが、キリスト教が入ってクリスチャンが増えてから、このようにだんだん経済的にも成長して、国が強くなりましたと言って、それでまず、福音化このようにリバイバルすることが重要ですと言いながら、そうすれば自然に神様が経済的にも祝福してくださいますと、このように説明をしたら、聞いている方々もとても喜んでいました。どんな質問されるか分からない状況だったし、私がよく知らない分野について聞かれたこともあるのですが、神様はいつも私がこのように答えができるように私を支えてくださいました。私が霊的に神様を信じて頼っていたからです。


私の前で話をしたり報告をする方々も、そのように緊張しないで、話すべきことは話して報告すべきことはこのように報告してくだされば良いと思います。イエス様のことを考えてみましょう。イエス様は、時にはお休みになるところもなくて、またお召しあがることもないことも時もありました。それでひもじい思いをされることもありました。マタイ8:20には「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と言われました。何か世の富とか権力があったのではありませんが、世の権力者の前でもどこにいても、いつも堂々と毅然としておられたのです。イエス様の心そのものが真実だったからです。ヨブは過去のことを回想しながら、自分の前の地位とか豊かさについてまた話をしています。


ヨブ記29:9-10です。


つかさたちは黙ってしまい、手を口に当てていた。首長たちの声もひそまり、その舌は上あごについた。(ヨブ記:9-10)


このようにヨブは、役員とか首長たちの前でも、彼らが何も言えない、また声を潜めるくらいの地位を持っていたということです。ヨブを尊敬していてヨブの話を聞こうとしたのです。このように尊敬されて高い地位にいたヨブが、今はみすぼらしくなってしまい、すべて失ってしまったらどうなったのでしょうか?人々はヨブを嘲って離れてしまいました。これが肉の人の姿です。神の子供である私たちはいただいた恵みを忘れてはいけません。また霊の愛をもって、変わらない心で仕えなければならないでしょう。韓国のことわざに、大臣の家の犬が死んだ時は、弔問客が列を作るけれど、本人が死んだら門の前が静かだという言葉があります。権力者が生きている時は、その家の犬が死んでも、人々がたくさん訪れて来て弔問するのですが、本人が死んだ時は、それ以上媚びるへつらう必要がなくなるから、訪ねてくる人がいないということです。人々のずる賢い心、移り変わる心を表現しています。ヨブの今の境遇がそうでした。前は多くの人が近づいて来て、みんなが尊敬してくれていたのに、今はどうでしょう?すべて失った彼から離れてしまい、彼をあざけりました。このような人に対してヨブはどう思っていますか?


ヨブは友達と言い争いながら、彼らを非難して呪っていました。前は人々に尊敬されるほどの人柄があって、いろいろ良いこともしていたのに、全てを失ってしまい、体が病気で苦しんでいるから、このように心の中にある悪が現れたのです。だからヨブが以前行っていたそのような善行も、完全なものだったとは言えないでしょう。神様は試練を通して、ヨブのこのような欠けている姿が現れるようにしてくださいました。そして彼が、神様に似た完全な人になるようにするために、練っておられるのです。試練にあって自分を発見する前は、自分でもわからないのです。ヨブは今も、そのような自分の欠けているところを認めようとしませんね。自分は正しいと主張して、友達が悪い、神様が悪いと言っています。まだ悟っていないのです。もっと時間が経った後、悔い改めるようになるのですが、そのためにこのような試練が必要です。皆さんはこういう姿はありませんか?私は悪くないのに、私は何かあの人に悪いことをしたこともないのに、なんで私にこんなひどいことをするのかと思う時があるかもしれませんが、でもそのような試練も自分に必要なのです。


皆さん、自分の姿を顧みますように。今日人々は、人の外見や服装や乗っている車などで人を評価する傾向があります。また人の口から出る言葉によって、いろいろ惑わされたり騙されることもあります。そして心が真実ではない人は、相手によって態度が変わったりします。自分に何か益になるような人にはよくしてあげたりするのですが、そうでない人は無視したりするのです。私の場合は、周りの人が私にとてもいろいろよくしてくださっているのですが、ある時は聖徒の皆さんにも同じようにしているのかと考える時があります。私には本当にいろいろよくしてくれて、何でもかんでも私を助けるためにいろいろ頑張ってくださっていてありがたいのですが、でも私は時には私よりは聖徒さんのためにもっと良くしてくださいとか、聖徒さんのことにもっと気を使ってくださいとか言いたい時があります。目上の人や地位がある人の前では、本当によく仕えているようにするのですが、自分より目下の人やまた小さい子供の前では、無視したり雑に扱ったりする人もいるし、口にする言葉使いも変わる姿を見たこともあります。


私の前では本当に優しくまた笑顔で、いろいろそういう良い面だけを見せているのですが、でも家族の前で、また一般の聖徒の前で、また親しい友達の前ではどうなのかと、考えるようになるのです。どんな人に対しても同じように誠実な姿になってほしいと思うのです。地位がある人の前では親切でまた礼儀も正しく、そういう姿なのに、そうではない子供の前とかまた夫婦の間では、そうでない姿はあるのではないか顧みたらと思います。私は堂会長だから、もちろん必要な場合は、あれこれしてくださることはいいのですが、でもそれをオーバーしている方もいるのです。基本的なことはいいのですが、あまりにも大げさだとか思うくらいして下さる方もいるのです。そして、私がもし堂会長ではなくて一般の聖徒ならば、同じようにするのだろうかと思う時もあります。もちろんその方は良い心でしてくださっていると思うのですが、教会で聖徒の前では、親切で丁寧でまた仕えて謙遜な姿なのに、会社の同僚の前とか部下の前では、全然違う姿の人もいるのではないでしょうか?皆さん神様はどんな姿を喜ばれるでしょうか?心が真実でなければなりません。人によって態度が変わる、そういう姿は神様が喜ばれないでしょう。心が真実でない姿ではありませんか?心が良くて真実な人は、うわべで人を評価しません。神様は人のうわべを見るのではなくて心をご覧になる方です。


第一サムエル記16:7に「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と言われました。ある人は、自分の見た目とか振る舞いを磨いて飾って、人に認められようとするのですが、本当に磨くべきものは心です。いくら教養や常識でうわべを整えたとしても、心に罪と悪を持っているならば、神様のご覧になるときは美しい人だと言えないでしょう。最近は外見至上主義という言葉があるほど、見た目の関心が高くなって、芸能人だけではなく一般の方も整形手術をしたりするのですが、しかしいくら外見がきれいになっても、人としての本文を尽くさなければ、神様の御目には価値が生まれないでしょう。真の価値は永遠に変わらない真理です。私たちは、どんな環境やどんな試練にあっても変わらない心、真実な心を持っている人でなければなりません。


人の外見や人の富、権力、学識を見て、それがあるからといって尊重するのではなくて、その人の心の真実を見て尊重しますように。私たちも自分の真の価値がどこにあるのかを悟りますように。外面ではなく内面を美しくしていきましょう。魂に幸いを得ていてこそ全てのことで幸いを得、健康であり、天国でも神様の御座の近くに行けるようになります。心に真理が臨んでいるほど、その人の外見からでもキリストの光と香りが放たれるようになります。第二コリント2:15に「私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。」とあるように、皆さんはキリストの香りを放ち、多くの人を主の御前に導きますように。


結論です。


皆さん、最高の富と栄華を味わっていたソロモン王は、過去のことを顧みながら、思う存分楽しんだから良かったというのではなくて、全てが虚しいと言いました。本当の満足はお金とか権力、快楽にあるのではなく、神様を恐れかし込む生き方にあるからです。ヨブは豊かだった時を顧みながら、「あの時が良かった。」と言ったのですが、私たちは過去よりは現在が、現在よりは未来の方がもっと良くならなければなりません。信仰にあって御言葉を守り行っているならば、当然昨日よりは今日の方が、さらに信仰が成長しているでしょう。また今日よりは明日の方が成長しているでしょう。信仰歴があるほど、御言葉もたくさん学んで祈りもたくさんするのだから、それだけ主に似ていて花嫁の備えも備えられていなければなりません。そうすれば神様とさらに親密になるでしょう。このような人は一日一日が経つと天国に近づいていて、花婿である主に会う日が近づいているのだからどれほど感謝するでしょうか。皆さんはヨブのように過去を振り返って、今の自分を嘆くのではなくて、昨日よりは今日、今日よりは明日、さらに神様を愛して後悔しない生き方をしますように。それで主がまた来られる時、喜びと感激を持ってその懐に抱かれますよう主の御名によって祈ります。


皆さん一つ顧みたらと思います。牧者がおられた時が良かったのに、その時が幸せだったのにと、もしかして今と比べて、今の方はあまり幸せでないように、今はあまり良くないように考えている人はいませんか?もちろん牧者と共にいた時は幸せでした。しかし、今も幸せでさらに幸せでなければならないでしょう。牧者がおられる時は恵みに満たされていたのに、今はもっと恵みに満たされていなければなりません。前は牧者にたくさんの恵みを頂いていました。だから頂いた恵みを、今は周りの人に分かち合うような人になってください。牧者に会いたいし、牧者と共にいた時のことを、本当にその時幸せだったと思う人ならば、今どんな姿でいるべきでしょうか?牧者は天国、新しいエルサレムにおられます。だから私たちは後ろを見るのではなくて、前を見て天国を見ていかなければなりません。前が良かったのにあの時が良かったのにではなくて、牧者のその恵みを忘れないで、もちろん忘れてはいけません。そしてこれから私たちが行くべきところ、目指すべきところは牧者がおられる新しいエルサレムだから、さらに前向きになりましょう。


そしてさらに神様の近くに行こうと決心しましょう。牧者は私たちのその道を開いてくださいました。皆さんが神様の愛、主の愛をあまり深く感じられなかった時、牧者は神様の愛、主の愛を皆さんが感じるようにしてくださいました。だから私たちは、牧者を愛して感謝したのではありませんか。そのように神様の愛を教えてくださった牧者を通して、神様とさらに近い関係、親しい関係、また神様とさらに深く交わることができるようになったのです。だから個人的にも、神様とさらに今、深い交わりをしていなければならないでしょう。また教会の試練の時、牧者が離れていたとしても、自分と神様との関係は、さらに深く親しくなっていかなければならなかったのではありませんか?私は今、牧者の代わりに、堂会長として皆さんを導く責任があるから、さらに私は神様ともっと深く交わっています。皆さんもそのような心ならば、神様は皆さんを親しく導いてくださるでしょう。


しかしそうではなくて、今は牧者がおられないから寂しいとか、どうしようとか、一人ぼっちのように思ってはいけません。神様がおられ祈っていれば、聖霊が皆さんの心の中で導いてくださり、だから私たちはいつも満ち足りているのです。今週で聖書通読キャンペーンが終わります。ある勧士さんは、この4ヶ月で15読をしたそうです。「4月30日までだから、16読をします。」と告白されていました。素晴らしいではありませんか?この方は、このように繰り返して聖書を読んでいるから、御言葉が自分の中で生きていて、聖書から神様の愛を深く感じているそうです。聖書は全て神様の心で愛です。だから聖書を読みながら、その愛を感じるのは当然です。だから私たちは過去のことだけを思って、あの時が良かったのにと思うのではなくて、昨日よりは今日、今日よりは明日がさらに幸せで、今日が一番信仰が大きい、今日が一番幸せな皆さんになりますように。そのように一日一日を過ごしていくならば、新しいエルサレムまでいけるでしょう。昨日も感謝、今日も感謝、明日はさらに感謝、このような皆さんになりますように。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。

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