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ヨブ記講解82 - ヨブの過去の回想(上)

3 日前
読了時間: 16分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記29:1-6


前回は、予定の神様として誤解しているヨブの話を一つ一つ調べてみました。ヨブは、神様が独断的にご自分の利益を求めて、全てを定めておいて、全てを思い通りになさると誤解しました。雨が降ることも、稲光が光ることも、全て神様が決めておかれたと主張しました。つまり、正しい自分が今苦しみを受けていることも、神様が全てあらかじめ定めておかれたことだから、自分ではどうすることもできない。神様は悪い神様だと自分の悔しい思いを訴えました。しかし神様は、人を造り自由意志をくださって、世を愛し治めておられるのですが、それは神様の予知予定の御業です。神様は人々に自由意志を下さり、自分で選ぶようにしてくださいました。エデンの園で、善悪の知識の木を置かれて、自由意志を持って行うようにされたように、私たちは一瞬一瞬が善と悪、真理と反対のものの間で選択の軌路に置かれています。善と悪だけではなく、何を食べようか何を着ようか、また何の職業を選ぶか、誰と結婚するかなど、人はいつも何かを選ばなければなりません。​


皆さん、これは誰かが代わりにしてくれるのではなくて、自分で選択するのです。そしてその結果が良くない時があります。何かを期待してよかろうと思って選んだのに、思い通りにならなかったなら、結果が良くなければどうでしょう?それを周りの人のせいにしたり、環境のせいにしたりするのが人なのです。自分の計画通りにならなかった時、自分が選択を間違えた時もあるのですが、私がその時選んだのが違ったのだとか、自分の努力が足りなかったからとか思えばいいのですが、そうでない人が多いのです。会社で自分が認められなくて周りの人に愛されなければ、周りの人のせいにしたりしてはいけないでしょう。自分が自分の仕事もちゃんとして、また人間関係もさらに良くなるように努力する姿が必要でしょう。何かを選んだ後その結果が良くない時、自分を顧みて自分を反省するのではなくて、人のせいにしたり環境のせいにする人は、それ以上成長することが難しいのです。皆さんの過去にこういう姿があるなら、このメッセージを聞いて知恵を得ますように。​


私たちは、いつも選択の岐路に置かれています。外に行って食事をする時のことを考えてみましょう。家族と一緒に中華料理屋に行って食事をする時、メニューを選ぶ時がありますね。ある人はチャンポンが食べたいと思って、ある人はジャジャン麺が食べたいと思い、それぞれメニューを見て食べたいと思うものを選んだとしましょう。あるいは、今まで食べたことがない新しいメニューを選んだとしましょう。それで食べてみたら、思ったよりあまりおいしくなかったのです。そして隣の人はおいしそうに食べているのです。私の場合はそういう時は、私の選択が良くなかったと思ってそれでも全部食べます。そして口に合わなくても、期待と違っても、それでも感謝して食べます。しかし、ある人はそういう場合、自分が選んだものを食べないで、隣の人に交換してと頼んだり、おいしくないからと言いながらそれは食べないで、隣の人が食べているものを食べてしまったりする場合があるのです。そういう場合が皆さんにはあるのではないのか、また見たことや体験したことはないのか、顧みますように。​


自分が選んだものだから、責任を持って私の場合は全部食べるのですが、でもある人はそのようにしないで、この店あまりよくおいしくないと言いながら店のせいにしたり、また隣の人になんで私を止めなかったのかとか、人のせいにしたりする人もいるのです。こういうとても些細なことでも、自分の利益を求める姿なのか、そうでなければ、自分の選択において責任を負う責任感のある人の姿なのか顧みますように。私たちは日常生活で、このように些細なことでも、いつも自分がどんなふうに考えてどんなふうに自分の心が動いているのか、霊的な面を顧みますように。それで細かいところかもしれないのですが、そういうところもミスを見逃さないで、一つ一つ真理に合わせて直していけばいいと思います。私たちはこのように毎日一瞬一瞬、自分で何かを選んでいます。​


ある人は選択に障害があるといって、人に任せたりして、自分では選べない人もいるらしいのですが、でも自分で決定して選ばなければならない時もあります。教会でも働き人になって、ある集まりのリーダーになった場合、自分が何かを決めなければならない時もあるでしょう。そういう時も、いつも私たちは、正しい選択をするために努力しなければならないでしょう。それを避けたり、また人に任せて、自分は責任を負いたくないと思ったりしてはいけないでしょう。だから小さいことも大きいことも同じなのです。今日ヨブ記講解を聞きながら、ヨブが自分なりに知っていることや、また心の中の苦しみとかを訴えているのですが、私たちはその言葉の中から、いろんな霊的な悟りがあると思います。皆さんも日常生活でもそうだし、教会の中でも働くとき、何かを選ぶとき気をつけなければなりません。世では罪と悪がはびこっているから、悪いことなのに良いことのように美化される場合があります。人々の価値観が揺れていて乱れていて、だんだん善と悪をわきまえることができない暗い世の中に変わっているからです。このような時代を生きている私たちは、全てのことにおいて正しく見分けて正しい選択ができる力が必要です。​


私たちの目の前にある多くの選択肢の中から何を選ぶかによって、人の幸福、不幸、また人生の価値が変わるからです。箴言22:1「名声は多くの富よりも望ましい。愛顧は銀や金に勝る。」とあります。一瞬一瞬、皆さんの選択が、神様の前で誉れと恵みを求めるのか、そうでなければ、虚しい朽ちるものを求めているのかを顧みますように。真理にあって、いつも真に価値あるものを選ぶ知恵ある皆さんになりますように。今まで皆さんが何かを選択してきて、今は良くない結果になっているかもしれませんが、だからといってそれをただ後悔しているばかりではなくて、今日この時良い方を選んでいってください。そうすれば明日はもっと良くなるでしょう。例えば今日疲れているけれど祈りをするかしないか、祈ればさらに強くなるでしょう。でももし祈らなければ、霊的にどんどん悪くなるのではありませんか?だからこのように、一瞬一瞬正しい方を選んでいけますように。私たちは自分で何かを選んだならば、それの責任を負う必要があります。だからいつも真理にあって価値あるものを選び、知恵を持っていきますように。今日からはヨブ記29章を見ます。ヨブが、過去神様が共にいてくださった時間を振り返っています。今までヨブは苦しみながら悪をむきだしにして、神様の前にいろいろつぶやいたり、嘆いたり訴えたりしていました。そして今はしばらくそれをやめて、以前良かった時のことを振り返っています。


ヨブ記29:1-2です。


ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。(ヨブ記29:1-2)


過去の多くの日々を顧みながら、神様が私を守ってくださったその時が良かったのにと思っているのです。


ヨブ記29:3です。


あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、その光によって私はやみを歩いた。(ヨブ記29:3)


神のともしびが頭を照らしていたとは、昔は死の影の谷間を歩いていても、神様が共におられたから、神様の光によって照らされていたというのです。つまりその闇を恐れなかったという意味です。


ヨブ記29:4です。


私がまだ壮年であったころ、神は天幕の私に語りかけてくださった。(ヨブ記29:4)


壮年とは、辞書には、結婚して社会に活動する身も心も盛んな頃とあります。ここでヨブが、私がまだ壮年であった頃と言っていることは、体が健康であるだけではなく、全てが豊かでことがうまくいっていた時のこと、人生の全盛期のことを言っています。ヨブが試練に会う前の生活はどうだったでしょうか?ヨブ記1:1を見ると、「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」とあります。ヨブ記1:2-3には、「彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。」とあります。数千年前にこのように多くの財産を持っているくらい、あふれるほど祝福されていました。だからヨブはその時は自分に神様は親しく語りかけてくださったとこのように表現しているのです。ヨブが神様と親しみを感じながら、神様の前に全焼の生贄を捧げて、神様との間で神様の心を感じていた時を回想しているのです。ヨブは厳しい試練にあって苦しいから、神様に呟いて悪い神様だと訴えたりしていたのですが、それでも過去に自分が受けていた祝福は、神様の恵みだったことは認めています。


しかしことがうまくいくときは、「神様に感謝します。」と言っておいて、試練患難にあったら、「神様がなぜ自分を苦しめるのか。」と神様を否認する人もいます。ある人々は、「私は今教会に通っていないけれども、昔は自分も神様を信じていて、聖歌隊も教会学校の教師もしていました。」という人もいます。でも本当に信じていたならば教会から離れなかったでしょう。神様を信じる信仰が真のものではなかったから、世に向かってしまったのです。上辺だけを見れば、神様を信じていて忠実に仕えているように見えても、試練患難にあったら神様につぶやいて嘆く人がいます。それは神様を心から信じるのではなくて、目に見える祝福を受けるために、また自分がしたことの代価を求めていたからではありませんか?教会の働き人の場合、教会で忠実に、あちこちで奉仕をするならばだんだん務めが高くなります。それで何かの集まりでリーダーになったりすることもあるのですが、でも神様の前には、霊的に忠実であることがもっと大切です。そして信仰が成長することが、さらに神様の前では神様に喜ばれることです。ただ務めだけ高くなったり、それを求めて忠実になったりしてはいけないし、それを求めて熱心だった人は、自分に見返りがなかったり答えがなければ、神様のせいにして離れてしまう人もいます。


でもヨブは今苦しんでいても、神様の存在、神様が以前自分にくださった恵みは否定しないでいるのです。神様にいろいろ文句を言ったり訴えていたり嘆いていたりするのですが、でも過去自分がそのように恵まれていたこと、豊かであったことは、神様がくださった祝福で、神様が共にいてくださったからそのように豊かだったと言っている姿を見れば、その心そのものは良いのではありませんか?皆さんの心と比べてみてください。神様の恵みを忘れてしまって、前に頂いた恵みを否定する人もいるのですが、ヨブはそうではなかったのです。今ヨブは苦しみにあっていて、患難にあっているのですが、ヨブの友達は今のヨブを見ながらどう言いましたか?以前、あなたが善行を行っていたこと、人にあれこれ施していたことも全部悪かったと、悪い意図でそうしたのではないかと、このように否定してヨブを責め立てていたのですが、その姿とヨブの姿とは違いますね。


ヨブ記29:5です。


全能者がまだ私とともにおられたとき、私のこどもたちは、私の回りにいた。(ヨブ記29:5)


試練に遭う前は神様がともにいてくださったし、その証拠として多くの子どもが自分の回りにいたでしょう。でも今は、神様が自分を見捨ててしまったから、子どもたちも失ってしまい、こんな苦しみを受けているのだと言うのです。これは正しくないことです。正しくない話でしょう。試練にあっていて苦しみにあっていても、神様が自分を見捨ててしまったと思ってはいけないのです。その試練を通して、もっと自分を発見して変えられるように、神様は応援してくださり待っておられるのです。神様の子供だからそのように介入してくださり、愛を持って練ってくださるのです。神様が捨てたのではないのです。ヨブの場合もヨブがさらに変えられるようにするために、また罪から立ち返るようにしてくださるのです。私生児ではないからです。過ちを犯して罪を犯したのに何の懲らしめもなければ、本当の子供ではないと言われました。何か肉的なことをちょっと考えたり、肉の思いを巡らしたくらいではなくて、ひどい罪を犯したり肉の行いをしているのに何も起こらない、何の懲らしめもない、また聖霊が悟らせてくださることもないならば、それは大きい問題でしょう。聖霊が心の中でうめきまた心が苦しくなって、神様の前でいろいろ試練にあってまた自分を顧みながら悔い改めるようになって、そうやって、そのような過ちをやめるようになるから、それも神様の恵みではありませんか?皆さんが何か嬉しいことがあったり祝福されているならば、神様が共におられると思ったり、試練患難の時は、神様が自分から離れたと思ってはいけないでしょう。


ヨブ記29:6です。


あのとき、私の足跡は乳で洗われ、岩は私に油の流れを注ぎ出してくれたのに。(ヨブ記29:6)


これは、神様が自分を祝福してくださった時の豊かさを説明しています。乳、牛乳はたっといものだったのですが、それで足を洗うくらいなら、どれほど豊かな暮らしだったでしょうか。ミルクで洗ったりすると肌が良くなるという話もあるようですが、今の皆さんなら牛乳とかは普通に飲むものだと思います。でも私の子供時代そして学生時代も、牛乳はこのように普通に飲むものではなくて高かったのですね。だから、それを学校で給食で飲むのも、お金がなかったからできなかった時もあったのです。でもヨブの場合は、このように牛乳で足を洗うくらいだったか、らどれほど豊かだったでしょうか。ただの水でもなく、このように家畜を飼って、そこから得た乳で洗ったのです。このように、暮らしそのものが豊かだったし贅沢していたのです。もちろんこれは比喩で言っていることなのですが、それだけ豊かだったのです。そして、岩は私に油の流れを注ぎ出してくれたということも同じです。豊かさをたとえているのです。


皆さんもたびたび過去を振り返ることがあると思います。幸せだった思い出もあるのですが、後悔することもあると思います。でも神様を信じていなかったその過去が、今より良かったとは思わないでください。信仰の弱い人の場合は、自分が教会に通っていなかったなら、日曜日に遊びに行ったり、テレビも見たり、いろいろ楽しんでいただろうと思って、主日を守ることがきついと思うかもしれませんが、これは愚かな考えではありませんか?罪から来る報酬は死です。でも真理を行っていれば、永遠に命を受けて天国に行けます。だからこの地上でいくら楽しんでいても、罪を犯して贅沢していても、死んだ後は地獄に落ちるのに、どうしてそれをいいと、その方がいいと言えるでしょうか?主を信じない人ならば、そう言うかもしれませんが、天国と地獄があることは確かです。だから私たちは地獄に行く道ではなくて、天国に行く道を選んだから、それを感謝して喜ばなければならないでしょう。


そしてある人は、聖めの福音を知ったからこんなに狭い道を歩まなければならないし、罪と血を流すまで戦わなければならないから、きついとかつらいとか思う人もいるようです。でも、私たちがこの地上で人間耕作を受ける目的は、ただ救われるためではなく、神様の心に似た真の子供になって新しいエルサレムに入るためではありませんか?オリンピックで金メダルを目指す選手は、数年数十年間そのために努力して厳しい訓練をします。しばらく束の間のこの地上での栄光のためにも、そのように忍耐して絶えず努力するのに、永遠の天国への希望があるなら、どんな心で信仰生活をすべきでしょうか?永遠に死ぬしかなかった私たちを救ってくださった主の恵みにいつも感謝しなければならないでしょう。しかも新しいエルサレムを目指すようにしてくださったから幸せではありませんか?そして信仰が成長すればこの地上でも健康、家庭職場でも祝福を受けるようになるからどれ程感謝でしょうか?ひょっとして今試練に会っている人がいるかもしれませんが、その試練の過程を通してさらに強くされ、さらに信仰が成長し、それによって後で祝福が臨むことを信仰によって望み感謝しますように。


子どもたちは育っていく過程で、風邪やハシカなどの病気を経験しながら免疫力が上がってさらに強くなり、精神的にも強くなりますね。私たちの信仰も練られる過程を通して、さらに強くなり大胆な信仰に成長するのです。私もそうでした。大礼拝の時メッセージで伝えたように、牧者がおられた時は、牧者が全部してくださるからと思って、自分がその牧者の使命をその働きをすることは思ってなかったのですが、でも牧者が先に行かれた後は、さらに私は強くなり、神様をさらに頼るようになって、また決断して私がしっかり立たなければと思うようになりました。そして心を神様が広くなるようにしてくださっていると思います。青年宣教会の集まりに行った時、こういう質問を受けました。私が、「堂会長職務代行だった時と委任牧師堂会長として就任した後の違いは何でしょうか?」と聞かれたのですが、本当に違うのです。職務代行の時と実際自分が堂会長としてのこのような責任を持つようになった時は、心の持ちようが変わりました。そして私が責任を持って皆さんを新しいエルサレムまで必ず導かなければという、そのような心がさらに熱くなりました。


そして皆さんが祈りを依頼してこられると、前は牧者の祈りを受けるようにと勧めたりしたのですが、今は、私が本当に責任を持って神様の前に切に祈るようになりました。そして教会の堂会長として、いろんなことを自分の選択によって決めることもあるのですが、それが負担になったり、それがつらいとか難しいとか不安だとか思ったことはありません。神様が私を支えてくださり、私を強くしてくださったから、このようにしっかり立つことができました。本当に感謝しています。そして私が皆さんのことを考えるときや、様々なことを決定するときに、自分が思っているその心も、前よりさらに広く大きくなっていると思います。さらに広い視野で見るようになり、多くの人を心に抱いていくように、神様が私を強くしてくださっています。それで私はとても感謝です。そして牧者とのその1年間の時間をくださったことも、神様が今の時のために備えてくださったとても尊い時間だったと思い、感謝しています。


教会の多くの方が今は新しい時代だと告白していますがそうです。教会の堂会長が変わったからそのような表現を使っていると思いますが、今は新しい跳躍の時代です。それなら皆さんもそれぞれ心を新しくしていかなければならないでしょう。新たな心構えを持って行くべきではありませんか?そしてさらに新しいエルサレムを目指すようになっていると思いますが、もしそうでない方がいるならば自分を顧みますように。自分にはどのくらい神様への愛が信仰があるのか、教会の試練の時どんな姿だったのか、顧みますように。神様は、神様を信じて望んで頼る人と共にいてくださいます。しかし皆さんが何かを願ったからといって、その通りに答えてくださるのではない時もあります。神様はさらに良い道に導いてくださる場合もあります。子供が可愛いからといって甘やかしてばかり育てるなら、その子どもは大きくなってからもわがままの人になってしまうでしょう。独立性や社会性も落ちて、自己中心的な人になりやすいです。だから子どもを本当に愛するなら、褒める時は褒めるのですが、過ちをした時はちゃんと叱ってお仕置きもして、正しく育てなければならないでしょう。私たちを練ってくださる神様の心も同じです。私たちがさらに変えられて神様をもっと愛する、そのような子供として成長するための愛です。続く本文を読むとヨブが以前豊かだった時、どんな地位だったのかを語っています。

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