ヨブ記講解81 - 予知予定(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記28:25-28
続く本文ヨブ記28:25-26です。
神は風を重くし、水をはかりで量られる。神は、雨のためにその降り方を決め、いなびかりのために道を決められた。(ヨブ記28:25-26)
ヨブは風の強さと水の量が神様の予定によって決まると言っています。雨が降ることもまた稲光が光ることも、全部神様が既に決めておかれたと言っています。自分も何の過ちもない正しい人なのに、神様が既に決めておいたから、このように苦しみを受けているのだと言っているのです。今までヨブが話していることを調べてみれば、最初は神様の力を褒めていて、知恵と悟りをくださる神様を褒めているようだったのですが、彼の意図は違いましたね。独断的な予定によって、権力を振るう悪い神様と言っているのです。しかしこれはヨブの誤解です。思い込みで決めつけです。神様は善であり愛そのものである方です。私たちを愛して良いものだけくださったし、予知予定されたすべてのものも私たちのためなのです。
皆さん、創造主の神様は、私たち人に何が必要なのかをご存知です。人が生きていける一番ふさわしい、一番適切な環境を造ってくださいました。宇宙万物が秩序と調和によって、人が生きるのに一番良い環境になるようにしてくださったのです。人のために水の量も風の強さも決めてくださったのです。稲光とか雷は、雨が降る雲から発生するもので、これも神様の摂理で自然の理です。人に雨が降ることをあらかじめ知らせるための摂理もあります。神様が定めておかれた自然の理によってその法則によって、夜と昼があり四季があり地球の自転と公転があり、満潮や引潮もあり、風と雲の移動などがあります。海の水は水蒸気になって上がって雲を作り、雲は風によって世界のあちこちに移動し雨を降らします。このような水の循環があるため、全ての生き物が生きることができるのです。神様は人をはじめ全ての生き物のために、水を多様な形で降るようにしてくださったのです。
申命記11:14にこうあります。「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しい葡萄酒と油を集めよう。」とあります。詩篇65:10には「地のあぜみぞを水で満たし、そのうねをならし、夕立で地を柔らかにし、その生長を祝福されます。」とあります。ひょっとしてこのメッセージを聞きながら、神様が創造された自然万物と定めておかれた法則によって、雨が降る自然と動物や人間が生きるようにすると説明したら、もしかして台風とか津波のような自然災害が思い浮かぶ方がいるでしょうか?神様が自然万物を司るというから自然災害もあるのではないか?神様がその台風とか津波もあらかじめ定めておかれたのかと思う方がいるでしょうか?本来神様がこの地球を造られた時は、自然万物が公義によって循環していました。神様が立てられた自然の秩序によって、雨と雪もバランスよく降りました。しかし、人が自分の利益のために自然を破壊し始めて、自然界の秩序が少しずつ乱れました。人類が文明を発達させながら、同時に環境をひどく汚染させたから、自然の法則が壊れました。大雨と大雪、日照りと洪水など自然災害が発生して、風と雲と雨、温度の調節が狂うようになりました。しかし、このすべては神様のお許しの限度の中で起きることであり、神様が定めておかれた枠から離れることはありません。
しかし、人が自然を自分の利益のために破壊したから、その自然災害によって苦しみを受けるのです。でも、この地球がそれでも動くように神様が守ってくださっているのです。神様は、人が生きていけるように定めておかれた限度があるからです。神様は私たち人のために自然に秩序を定めておかれ、全てを調節してくださったのです。ところがヨブは、神様が独断的に自分の利益を追い求めて定めておいて、全てを自分勝手に司っていると言っているのです。このように神様は悪い方だと言って、自分は正しい人だということを強調しているのです。そして、自分は神様の予定によってこのように苦しみを受けていると言いながら、悔しい自分の気持ちを表現しているのです。私たちももしかして、いろんな面でこのような考え方をしているかもしれません。また人に対してもそんなふうに誤解するかもしれません。これは気をつけなければなりません。
私は教会の堂会長として、全ての働き人と一緒に話し合って神様の御心を実現していきたいと思います。しかし話をしてみれば、ある人は自分の肉の思いの限界の中で「それはいけません。それは無理です。」とか言う人がいます。皆が心を一つにして祈りながら、神様の国のために一番良い道、最善を尽くしていけばいいのですが、そうでない人もいるのです。だからといって、私が無理に引っ張っていくこともできないし、2回3回同じことを言うこともできないではありませんか。メッセージではもちろん同じことを繰り返して説明するときもありますが、それは皆さんがそれぞれ信仰の量りが違うからでしょう。でも教会の働き人でリーダーとか、また各部署の長くらいならばまた違うのではありませんか。神の国のために何かことを進めるとき、肉の思いを打ち砕くように私から助言をすることもあるのですが、でもそれでもそれを聞き入れないなら、それを2回3回4回また会うたびに言うこともできないし、だから私はもちろん全ての方の意見を聞いて、みんなと一緒に何かを進めていきたいと思うのですが、いつも反対してまた信仰を見せることができない人がいれば、その人よりは信仰を見せて、また積極的で心を合わせようとする人に任せるしかありませんね。
さらに大きいビジョンを持って神の国のために発展できる、そういう考え方を持って心を一つにしていけばいいのですが、そうでないいつも反対していて肉の思いを巡らしている方もいるからもどかしいのです。でもそれを外から見ている人は、堂会長先生は自分と気が合う人や好きな人とだけしか働かないとか誤解するかもしれません。でもそうではないのです。もちろんそんな風に誤解する方はいないと思いますが、皆さんの周りの人との間でそんなことがないのか顧みますように。自分が見ているその人の一面だけでその人を悪く評価したり、人に悪い面を伝えたりすることもあるのではありませんか。ですから皆さん、自分はどんなふうに人を見ていて、どんなふうに物事を口にしているのか、また人間関係においても、自分がどんなふうに人に接しているのか、顧みますように。あの人は前に私にひどいことを言ったからと言いながら、その人がしていることを全部否定してしまう、また他の人にもその人について、ちょっと悪いふうに伝える、自分の姿はあるのではないでしょうか。
教会の中では主のしもべとか働き人は、また、必要なことならばこのように正しいことを伝えるべき時もあるのですが、そうではない人もいます。その聖徒の顔を伺ったりして真理を正しく伝えない人もいるようです。でも教会の中で私の代わりに聖徒の皆さんや働き人に助言をしてくださる方もいて、とても感謝です。もちろん相手がそれを聞きたがらない方、また聞いてあまり嬉しく思わなかったりするかもしれないのですが、でもこれは真理だから、また教会のために必要なことの場合は伝えるべき時もありますね。そしてそれを言われた人が、それを伝えてくれる人の意図を誤解してしまって、ただ叱られたとか指摘されたとかこのように気を悪くして、周りの人にもそんな風に愚痴を言ったりすることもあるなら、その人は、それ以上は発展を期待することができないでしょう。
ヨブは知恵があってもちろんこれは肉の知恵なのですが、神様についてあれこれこのように自然万物を例に挙げて、このように神様から来る知恵について説明していますが、でもその意図は中に隠れていたのですね。皆さんも自分自身の隠れている姿を発見しますように。自分がどんな意図で人にこんな風に言っているのか、またどんな意図を持って、物事を言ったりまた人に伝えたりしているのかを深く顧みますように。ヨブの姿を通して自分の姿を発見しますように。神様の働きをしている皆さんは、一人一人が本当に大切な方でたっとい方で、みんなの熱心があるから本当に感謝です。それで皆さんと一緒に心を一つにして、さらに神様の国のために働いていきたいと思うのですが、でも肉の思いをずっと巡らしていて、それで信仰がない告白ばかりをしている人とは、私もちょっと一緒に働くのが難しいのではないでしょうか。だから誤解しないでさらに発展的なことのために考えていったらと思います。
続く本文28:27-28です。
そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり、これを定めて、調べ上げられた。こうして、神は人に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである。」(ヨブ記28:27-28)
この言葉そのものは真理です。私たちは知恵と悟りを得る方法を得ましょう。神様を恐れることが知恵であるということは、神様そのものから知恵が来るからですね。神様を恐れるなら神様が悟らせてくださり道を導いてくださいます。箴言8:13に「主を恐れることは悪を憎むことである。」とあり箴言9:10に「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」とあります。
私たちが神様を恐れているなら御言葉に従うでしょう。神様が「捨てなさい」と言われたことは捨てて、「守りなさい」と言われたことは守り、「しなさい」と言われたことはして、「してはならない」と言われたことはしません。これが神様を恐れかしこむことであり神様を愛することです。口先だけで愛していますというのではなくて、神様の御言葉を守り行うことが愛する証拠になります。このように生きていけば悪から離れるようになり、自然に魂に幸いを得るようになるから、すべての点に幸いを得ていくと霊肉共に健康になります。アブラハム、モーセ、ダビデ、ヨセフ、ダニエルもそうでした。神様を恐れかし込み聞き従ったから神様の栄光を見ました。
神様が望んでおられる従順は当然できるようなことを言うのではありません。できないようなことを、現実を見れば不可能に見えることを信仰で見て行うことです。アブラハムはそうでした。神様を恐れていたので、「約束の子孫であるイサクを全焼の生贄として捧げなさい。」という命令にも聞き従って、神様の備えを体験し信仰の父となりました。神様がアブラハムに信仰の父になると決めておかれたという意味よりは、アブラハムがそのようなテストで合格したから、信仰の父になる祝福を受けたということです。だから皆さんもこのような祝福を受けるためには、テストが必要です。信仰が試されることがあるのです。これが神様の予知予定の原理です。これを悟れば霊肉共に祝福される道が見えるでしょう。神様を恐れることが知恵です。だから私たちは神様を恐れかしこみ、その御言葉に従っていきましょう。
モーセはそうでした。神様の御言葉に従って海に向かって杖を持った手を差し伸ばしたら、葦の海が分かれました。それは人の知識では理解できないことでしょう。神様はモーセの信仰と従順をご覧になり、葦の海を分けてくださいました。それでイスラエルの民はその海の下の乾いた地を歩いて渡ったのです。神様がモーセを通してこのような奇跡を起こしてくださいました。これは神様が前もって葦の海を分けると定めておかれたよりは、モーセが神様の前で、信仰で聞き従う行いを見せたから、その結果としてこのような御業が起こったのです。モーセは神様を恐れる人だから 神様の命令に聞き従ってこのように驚くべき奇跡を見ることができました。
カナンの地に入るための関門であるエリコはどうだったでしょうか?そのエリコはとても大きい町で城壁もとても頑丈でした。でもイスラエルの民は、その町を回って鬨(とき)の声を上げなさいという神様の御言葉に聞き従いました。神様を信じるから聞き従う、これがとても知恵のある選択だったでしょう。私たちも到底聞き従えないような状況で聞き従うことが信仰であり、神様を恐れるということを悟りますように。そうするとき神様の御業が現れるのです。そして悪から離れることは悟りであるとあるのですが、悪から離れれば善の知恵と善の考えをするようになるから悟るようになります。神様の深みにまでも探られる聖霊様が心に働きかけてくださり、神様の御心に従うように導いてくださるからです。
ですから霊的に悟りのある人は、御言葉から天国に行く道、祝福を受ける道、答えを受ける道を見つけることができるのです。ヨセフには悟りがあったので、エジプトの7年間の飢饉に備えて段階別に穀物を保管して、それを供給する方法論を悟りました。兄たちが悔い改めるようにする過程もそうだったでしょう。このように何かの目的を達成するための道、その方法論が見えるのが悟りです。悟りがあれば何をしても、その目的と意味、最善の方法、またそれが自分に及ぼす影響もよく知っていて、それに合わせて最善の方法を選んでいくことができます。神様が知恵と悟りをくださって真の知識を得てその道を導かれるからです。
結論です。
皆さん、私たちには予知予定の神様がくださった自由意志があります。私たちが生きていきながらそれぞれが自由意志によって、どんな道を選ぶのか、どんな流れに乗るのかはとても重要です。一度一つの流れを選択すれば、それをまた変えるのは難しいからです。いつもそばにいる家族や友達でもイエス・キリストに従って狭い道を行くか、世の広い道を行くかによって、永遠の命か滅びかという別れがあるからです。エレミヤ21:8です。「『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。」とあります。一瞬一瞬どんな道を選ぶかによって、永遠の命か永遠の滅びかという全然違う結果になるのです。
これを悟っていつも知恵のある選択をしますように。愛なる神様は聖書を通して、私たちが知恵ある選択ができるようにその道を教えてくださいました。善と悪は何なのか、どんなふうにわきまえるべきか、永遠の命を得る道は何なのか、天国で栄光と報いを得る道も、この地上で健康に生きる道も、物質の祝福を受ける道も教えてくださいました。ですから皆さんの前で選択の岐路があるときいつも真理を選び、この地上ではもちろん永遠の天国で幸いな生き方をしますように。主の御名によって祈ります。聞いたメッセージを思い出して祈りましょう。
