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ヨブ記講解81 - 予知予定(上)

4 日前
読了時間: 20分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記28:21-24


前回ヨブは、「知恵はどこから来て、悟りのあるところはどこなのか」という質問を繰り返して、知恵と悟りの重要性について言いました。ヨブは試練にあっている間、知恵は世のどこからでもどんな人からでも見つけることができないし、ただ神様にあることを悟りました。また知恵の中に全ての富と名誉、権力、力が入っているから、金銀宝石より尊いものが知恵だということも分かりました。しかし、ヨブが知恵と悟りが神様から来ることを強調している意図は、神様に栄光を捧げるためではなく、自分の妥当性を主張するためです。ヨブは、自分は正しい人なのに、神様が何のわけもなく自分を苦しめていると言いながら、悪い神様を罵倒するための作戦を使っているのです。ひょっとしてこのメッセージを初めて聞く方は、ヨブを悪い人のように誤解しないでほしいのです。ヨブの今までの生き方を見てみれば、彼は聖霊を受けていない人の中では義人とも言えるくらい、行いは正しかったし潔白でした。しかし本性の悪まで発見して脱ぎ捨てて、御霊の歩みに入るためには、練られる過程が必要だったので、神様は愛をもって練ってくださっています。​


ヨブは自分の限界を超える試練にあったら、以前は想像もできなかった悪をむき出しにします。自分の知恵を使って、自分が正しいと主張し友達を無視して非難し、神様に呟くまでします。しかし神様がヨブの前に現れて悟らせてくださった時は、徹底的に悔い改めて、本性の中の悪まで捨てて御霊の歩みに入りました。神様はヨブが試練によって変えられていく過程を、私たちに見せてくださることによって、私たちが自分を発見して変えられるように望んでおられます。ですからヨブ記のメッセージを聞いてそれを鏡にして、自分の中にある悪を発見して完全に聖められる皆さんになりますように。ヨブと自分を比べてみるとき、基準というものを知っておくべきだと思います。ヨブは旧約時代の人です。聖霊を受ける前の人でした。皆さんは正しく生きていて時に試練にあった時、自分の悪が現れる姿を見ながら、私もヨブのようだと思ってはいけないでしょう。そしてヨブと比べてみる時、ヨブのような姿があっても、自分はヨブよりは劣っていると思ってください。ヨブは旧約の時代の人で、聖霊を受ける前の人だったからです。その時ヨブの悪が現れたのですが、今の私たちは新約時代で聖霊時代に生きているから、同じ基準で比べてはいけないでしょう。これを覚えておいてください。ヨブ記を読んでみれば、ヨブは自分で聞いて自分で答える形式で、自分の意見を説明することがあります。今日の本文でも、前回に知恵はどこから来て悟りのあるところはどこなのかと自分が質問して、今日の本文でその答えをしています。


ヨブ記28:21です。


それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。(ヨブ記28:21)


すべての生き物の目に隠されたということは、知恵と悟りが隠されてわからないという意味です。動物と植物はもちろん、万物の霊長と言われる人にも、知恵と悟りは見つけることができないという意味です。皆さんの周りに賢い人がいて、悟りのある人がいて羨ましいと思いますか?それが真の知恵なのか悟りなのか考えてみるべきでしょう。イエス様の時代に知恵がある、権威があると思っていた人々はどうだったでしょうか?真の知恵と悟りも人には見つけられないということです。イエス様に直接尋問していたポンテオ・ピラトは、総督という高い権威と権力がありました。周りの人々は、その人は権力もあるし、地位もあるし、知識もあるから、知恵があるだろうと思うでしょう。しかし彼には真の知恵がなかったので、罪のないイエス様を罪人だと思い、死刑を言い渡しました。ピラトはイエス様についていろいろ報告を受けていたと思います。ピラトは、ローマからユダヤ人の地に総督として任命されて来た人です。だからユダヤ人の中で何か問題があったりすれば、ローマに報告しなければならなかったのです。そんな中イエス様という人が現れて、神の御子だと主張していると言われたから、ユダヤ人に困難をもたらすような人物だと思いました。それは国として大きい話題になっている、そのような人だったのです。


またユダヤ人の指導者の大祭司や律法学者、長老たちも、イエス様についていろいろと問題視していました。それでローマの総督としてピラトはそれを調べて報告しなければならなかったでしょう。すでにイエス様の働きについても聞いて知っていました。イエス様は伝えるお言葉も権威があり、そして人にはできないことを行っているということをすでに知っていました。神の力によって癒すことや、しるしと不思議が現れたことを、ピラトはすでに報告を受けていて知っていました。イエス様に罪がないことも知っていました。しかし、ユダヤ人たちがイエス様について訴えながら、自分たちの律法に反していると言いながら、罪人だと主張していたのです。そしてユダヤ人の指導者たちが、妬みによって憎しみによって宗教的な理由で、イエス様を殺そうとしていたということも知っていました。ところがイエス様に罪がないことを宣言しても、ユダヤ人たちはイエス様を十字架につけろと強く言っていました。それで反乱が起こりそうなところだったので、ピラトはそれを恐れて、罪のないイエス様を罪人として十字架に渡しました。


これが真の知恵でしょうか?悟りでしょうか?肉的に見れば、反乱が起こらないように自分なりに治めたと思ったかもしれませんが、霊的には大きい災いをもたらしたのです。このように、人の知恵、肉の知恵は、目の前の自分の利益を求めるものです。とても愚かなものです。イエス様の時代の律法をよく知っていて、教える立場にいた大祭司と祭司長達、律法学者、長老達もそうでした。救い主が目の前にいるのにわからないまま、十字架につけました。目があっても見えることができず、耳があっても聞くことができませんでした。霊的な目と耳が開かれていなかったから、神様から来る知恵と悟りを受けることができなかったのです。今日も同じです。いくら聖書の知識があっても、心で悟れなければ役に立ちません。御言葉に対する霊の目が開かれて、その中に込められた霊的な意味を悟って行ってこそ、神様と交わることができるのです。もし真理を頭だけで知っていて霊的に悟れないならば、行いもないし心が高くなってしまうでしょう。


ところで本文でヨブが説明しようとすることは、また違う意図があるのです。「知恵と悟りは全ての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない」というのは、神様の権限を表現したのです。つまり神様には全てのものを定めておかれたという意味です。全ての生き物の目に隠されとは、神様は彼らに霊的な世界が分かる知恵をくださらなかったという意味です。空の鳥にも分からないという表現も同じです。鳥は視力が優れていて、高い空を飛んでいても地面にある小さい虫を見ることはできますが、神様についても霊的な世界についてもわからないという意味です。それは神様が生き物に限界を置いておいたからであり、神様の権限であることを説明しています。つまりヨブは神様の予定を説明しようとする意図でこのような例えを挙げています。


続く本文も同じです。ヨブ記28:22です。


滅びの淵も死も言う。「私たちはそのうわさをこの耳で聞いたことがある。」(ヨブ記28:22)


ここで滅びと死とは、たとえ命が絶たれた状態ではなくても、全ての財産、子供と妻、健康、友達まで全部失ってしまったヨブ、自分の境遇を言っているのです。ヨブはまだ息はしているものの、その他の全てのものを失ったから、滅びたような者だからこのように表現しています。ここから少しずつヨブの意図が分かるようになりますね。神様が全ての生き物に限界を置いておいたように、ヨブが滅びに向かっていくことも、また神様が予定されたことだから、自分ではどうすることもできないという意味です。ヨブはこれを言いたいのです。自分の今までのことを考えてみたら、真の知恵が重要だ。この知恵はどこから得ることができるのか?この知恵を得てこそ自分の問題が解決できるのに、人にも海にも天にもまた生き物にも知恵を見つけることができない。その知恵は神様から来るものだと言っていました。全ての生き物の目にも隠されていて、空の鳥にもわからないと言っています。知恵と悟りは見つけることができない、その理由は神様がその知恵をくださらなかったからだと言っています。


神様がご自分の思い通りに全てを決めておいたからだと、だから自分もこのように苦しんでいるのだと言っているのです。神様の独断的な権限を言っているのです。そして自分もそのため被害を受けている者だと言って嘆いているのです。神様がすでに全てを定めておいて、自分の苦しみのことも定めておかれたから、もうそれは自分ではどうすることもできないと言っています。今はまだ死んではいないけれど、自分はすぐ死ぬのだからと言って、もう滅びに向かっているのは決まっているという意味で言っているのです。それで「滅びの淵も死も」とは、このように滅びと死とという単語を使っているのです。知恵と悟りそのものである神様を褒めたたえていたようですが、実はヨブにはこういう意図があったのです。そして私たちはその噂をこの耳で聞いたことがあると言いました。これは、ヨブが神様の愛と神様の働きについて聞いたことがあり、神様の知恵と力も知っているという意味です。


しかし神様の前に、一生懸命いけにえを捧げて正しく生きてきた自分が、今はこのように滅びに向かっているのは、神様がそのように決めておいたからだと言いながら、神様のせいだと神様を恨んでいるのです。自分の体がこのような病気で満身創痍になったことも、神様が既に定めておかれたから、仕方なくこの道を歩んでいるのだと言っているのです。私たちもこのようなヨブの考え方を見ながら、皆さんも信仰の面や日常生活でもいろいろ悟りますように。神様のせいにしたり、神様につぶやいてはいけないのです。自分が決めて自分が選んだ結果なのに、なぜ神様は守ってくださらなかったのか、なぜ神様は放っておいたのかと思って誤解してはいけないのです。自分の過ちや自分の選択した結果によって、苦しみを受けているのに、霊の世界の法則があって、それに合わなかったから試練がやってきたのに 、自分のせいにしないで、神様はなぜ助けてくださらないのかと嘆くこういう姿はあってはいけないでしょう。自分を低くして悔い改めて、神様の憐れみを求めなければならないでしょう。


ヨブはなぜこのように自分がよくやったことだけを考えているのでしょうか?自分は神様から知恵が来ることも知っている、自分なりに神様の前で一生懸命いろいろ行っていたのに、潔白で正しい生き方をしていたのに、神様はこんなに自分を苦しめているのだと訴えているのです。信仰生活でもこういう誤解があってはいけないでしょう。自分なりに祈っていて信仰生活もしていて献金も捧げています。しかし自分の生き方が完全でなかったから、また罪の壁もあるから、それによって試練患難にあったとしましょう。でも自分が前によくやったことだけを思いながら、神様を離れてしまう人もいるのですから、とてももどかしいです。私たちはそのような愚かな人になってはいけないでしょう。神様は愛であり良いものだけを与えようとするお父さんです。しかしヨブのこのような姿を見ながら、自分自身を顧みますように。そしてこのようなヨブ記講解を聞いているのに、愚かな道に行くことがあってはいけないでしょう。


続く本文でもヨブは予定される神様として誤解して言っています。


ヨブ記28:23です。


しかし、神はその道をわきまいておられ、神はその所を知っておられる。(ヨブ記28:23)


これは、神様は万物の主人として、すべてを神様の思い通りに定めておかれたから、知恵が来る道も神様だけが知っておられるという意味です。ヨブ記28:24で、「神は地の隅々まで見渡し、天の下をことごとく見られるからだ。」と言っています。これも同じでしょう。神様は地の隅々まで見渡して、天の下をことごとく見ておられるから、何でも思い通りに定めておかれたという意味です。これは神様の独断的な主権を言っているのです。神様についての大きい誤解であり、決めつけです。今日予定論を主張する人も同じです。予定論とは、人の救いは人の行いや努力によってではなく、神様の意思によってあらかじめ決まっているということです。神様はすでに人類の歴史と人の生死禍福などを定めておいたから、救いもすでに決まっている、変わらないと主張します。


しかし予知・予定論があります。それは、神様はすべてをご存知だから、それに合わせてすべてを定めておかれたということです。もし神様が、ご自分の思い通りに独断的に定めておいて行う方ならば、人間に自由意志を下さることはなかったでしょう。神様は、人が自由意志によってどんな風に行うのかをすでに知っておられるから、それに合わせて全てを定めておかれました。それで神様は人が結局堕落して、救い主が必要だということも知っておられ、世界の始まる前にイエス・キリストを備えておかれました。また各時代にどんな人物が必要なのかも知っておられ、モーセや使徒パウロのような人を選び用いてくださいました。そうではなくて、神様が一方的に全てを決めておいたならば、人は自分の努力や意思でいくら努力しても、既に決まった運命から抜け出すことはできないでしょう。ヨブのように自分の道は既に決まっていると思うから、どうして努力しようとするでしょうか?


例えば神様の計画に、誰々は何年何日に滅びることに決まっているとあるならば、この人は夢もビジョンも人生の目標も持てないでしょう。何か試練患難がやってくれば、神様の予定通りに来るべきものが来たと思って、乗り越えるために努力もしないでしょう。そして私たちは、熱心に信仰生活をする理由もないでしょう。一度救われることに決まっている人は、どんな罪を犯しても救われるだろう。だから、イエス・キリストを受け入れて聖霊を受けた後は、自分勝手に生きても構わないと思うでしょう。しかし神様は、救われる人をあらかじめ選んでおいたのではなく、誰でも救いの枠に入ってくると、救われるようにしておかれました。この人は救われる人だと決めておいたのではなくて、救われる基準、救いの枠は定めておかれました。こうこうすれば救われるという枠を定めておかれたのです。誰でもその枠の中に入ってくれば、救われるということを定めておかれたのです。誰々は救われ、誰々は滅び、このように定めておかれたのではないのです。これを覚えておいてください。


だから罪許されて救いの枠に入ったとしても、再び死に至る罪を犯して立ち返らなければ、罪から来る報酬は死という霊の世界の法則によって救われないということです。あの人は救われたと決まっているならば、どんな罪を犯しても救われる。これは予定論ですが、そんなことはありません。神様はそんな風に救われる人を、救われない人を決めておいたのではありません。こうすれば救われる、こうすれば答えを受ける、こうすれば呪いが臨む、このように教えてくださったのです。神様は全てをご存知です。だから私たちを救うためにイエス・キリストを使わしてくださり、聖霊様を使わして、私たちを助けてくださるのです。そして救われるか救われないかは、私たちにかかっているのです。第一デサロニケ5:19に、「御霊を消してはなりません。」とあり、黙示録3:5に「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名を私の父の御前と御使いたちの前で言い表す。」とあります。


これは一度聖霊を受けて救われた人の中でも、また罪を犯してしまえば命の書から消されることもあるという意味です。守ってくださると言い切れないのです。御霊を消してはなりませんとあるから、消されることもあるという意味です。どうすれば御霊が消されるのかも聖書では教えています。命の書から消すことがないと言っていますが、それは消されることもあるという意味も含んでいます。旧約聖書を読んでみても分かります。イスラエルの民が罪を犯した時、モーセはどんなふうに祈りましたか?民たちを許さないならば、主の記された書物、つまり命の書から自分の名を消してくださいと、自分の命を引き換えにして許しを求めました。これを通して命の書から名前が消されることもあることがわかります。神様は選ばれた子供たちを先に見捨てることはありませんが、人の方から神様を見捨てて戒めを犯すときは、自分から神様との関係がなくなってしまうのです。神様は人が立ち返るように絶えず機会をくださり、救われる道を開いてくださるのですが、その人が立ち返って来なければ救われないのです。


聖徒の皆さん、神様が私たちに自由意志をくださったのは私たちのためです。もし私たちに自由意志がなく、ただ予定されたプログラム通りに動くならロボットと変わらないでしょう。私たちは自由意志によってイエス・キリストを受け入れて神の子供とされるのですが、ロボットのように絶対的に服従する存在の御使いは、決して神の子供とされることはできません。人には自由意志があるので、自由意志によって神様を探して見つけるのです。救いと滅びは決まっているものではなく、自分で自由意志をどんな風に使うかによって、永遠に天国に行くこともあり、永遠の死に向かうこともあるのです。祝福されるか、されないかも、それぞれの自由意志にかかっているのです。愛そのものである神様は、誰でも答えを受けて祝福されるように望んでおられるのですが、公義があり霊の世界の法則があるから、それによって答えと祝福をくださいます。


例えば、蒔けばその刈取りをする。行った通りに報いてくださるという公義があります。それなら私たちはその公義通りに行えばいいでしょう。真理を蒔いて行った通りに祝福を受けることができるのです。皆さん、世を生きていると原則通りにならないし、人々がその原則を変えてしまったりすることもあります。自分なりの原則を持って努力しても、成功できない場合があります。不義と不法があるからです。しかし神様はご自分で定めておいた法則に従って、公義に従ってことをなさる方です。だから皆さんがそれに合わせて真理を蒔いて行っていけば、必ず祝福を受けることができるのです。そして私たちがどうすればより優れた天国に行けるかは、信仰の計りというメッセージを通して聞いたでしょう。


神様は、この人は新しいエルサレムに行く、この人はパラダイスに行くと決めておいたのではありません。皆さん次第なのです。さらに力強く祈り、主のために忠実に仕えて、聖められていく人ならば、御霊の歩みに入り全く聖なるものとされるでしょう。しかし途中で止まってしまったり、後ろに向かって滅びに向かってしまうならば、その結果は自分の責任ではありませんか。だから神様を恨むのではなく神様のせいにしてはいけないでしょう。神様は愛を持って私たちが、神様が教えてくださった通りに行うようにと望んでおられます。神様の御言葉通りに行えば愛されて祝福されるのです。神様は公平な方です。公正な方です。その神様がおられることがどれほど感謝でしょうか。皆さんが試練患難にあった時、神様を愛せなかったからだと悟ったなら、神様を愛すればいいでしょう。すると試練患難は退くのです。このような霊の世界の法則があり、またそのようにしてくださる神様がおられるから、どれほど感謝でしょうか。祝福される道が何か教えてくださり、また自由意志をくださったことも私たちのための愛です。


神様が人を造り自由意志をくださったことも、世を治めておられることも、私たちを愛するゆえ予知予定によってなさることです。このように予知予定によって全てをなさる神様は、神様ご自分のための独裁ではなく、私たちのため、また神様の栄光のためであることです。聖書を読むと神様がどれほど私たち人の自由意志を尊重してくださるのかよくわかります。神様はイスラエルのために、預言者サムエルを立ててくださいました。第一サムエル記3:19に「サムエルは成長した。主は彼とともにおられ彼のことばを一つも地に落とされなかった。」とあります。これくらいサムエルは神様に支えられていました。また神様は、民がサムエルに対してすることは自分に対してすることだと言われるほど、サムエルは神様の代わりに立てられた人でした。サムエルは一生神様の御心に従って民を指導していきました。しかし民はサムエルに満足しないで王を立ててほしいと要求します。これは神様の支配から離れて人に治められたいと思うことです。神様は民を愛するので、もし王を立てるなら、どんな苦しみに遭うようになるのかを詳しく教えてくださいました。それでも民が最後まで王が欲しいと要求したから、結局サウルを王として立ててくださいました。しかしそれは神様の御心ではなかったので、サウルが王になった後、国はいろんな苦しみに遭い民も辛い思いをしました。神様はこのすべてを知っておられたのですが、強制的に引いていったのではなかったでしょう。民が願う通りに王を立ててくださったのです。


このように救いも祝福も人の自由意志によって決まるということです。皆さんが試練患難にあっている時、神様はどうして助けてくださらなかったのだろうとか、神様はなぜ私がこの道に行かないように止めてくださらなかったのだろうと、思う時がありますか?神様は私たちに自由意志を下さったでしょう。それで人間耕作を受けて天国に入るようになるのです。自分が地獄に行くようなことをしておいて、なぜ神様は私がこのように苦しみを受けて地獄に行くようにしておいたのかとか、神様のせいにすることがあるでしょうか?今自分が地獄に向かっていると感じているならば、悔い改めて立ち返るべきではありませんか?死に至る罪をやめて断ち切って、悔い改めて立ち返るべきでしょう。それなのにそうではなくて、なぜ神様は私がこんなことを悪いことを知っているのに、このままに放っておかれたのかとか神様につぶやく人がいるのです。神様は私たちが救われる道、祝福される道を教えてくださり、その道に来るように何度も何度も機会をくださり、私たちを導いてくださるのですが、自分がその道に行かないまま、そんなふうに思っていていいでしょうか?


そして私たちが、信仰が成長すればどれほど祝福なのか、どれほど平安が臨むのかを教えてくださって、信仰が成長するようにしてくださり、私たちがまことの幸せを感じるようにしてくださる方で、祝福を与えようとする方です。それなのに自分は相変わらず世を愛していながら、どうして私には祝福してくださらないのかと言うなら、それでいいでしょうか?皆さん、神様の恵みと牧者の空間の中で、私たちが受けていた恵みを忘れてはいけません。しかし、自分が心の割礼をして心から真理と反対のものを捨てなければなりません。ずっと人に頼ってばかりでしょうか?ずっと神様にお任せしているべきでしょうか?ある人は、私はいつまで罪を捨てなければならないでしょうかとか、いつまで世を愛さないために努力して我慢しなければならないですかと思いますか?それならそれは本当に信仰がある人でしょうか?嫌々ながら辛い思いをしながらしているのではありませんか?信仰生活は幸せではないでしょう。しかし自分というものを捨てたならそうは言えないでしょう。自分というものがなくなって、自分に神様、主だけがおられるなら、このように神様の御言葉通りに生きる道がどれほど幸せでしょうか。でも自分というものが死なないで生きているから、自分の利益を求めて自分の思い通りにしようとして、それで家族との関係も壊れてしまったり、また真理と反対のものを求めて行ってしまったりして、病気になったりすることもあるのではありませんか?そしてやっと使われるような状態にいるかもしれないでしょう。


でも万民教会に来て聖めの福音を聞いたから、聖められるために努力しているから、信仰が成長しているから、どれほど感謝でしょうか。それなのに、私はこのように罪を捨てるのが本当に大変です。きついです。いつまでこうしなければならないのですかと思うでしょうか?皆さん、その道の終わりには祝福があり、永遠の命があります。それなら感謝して喜んでいくべきではありませんか。私たちは神様からいただいたこの恵みを忘れてはいけません。そして私たちが聖められることも、誰かが決めておいたものではありません。そして激しく攻めていけば、自分のものになれるからどれほど感謝でしょうか。新しいエルサレムに行ける道が開かれています。以前信仰の量りが数字で出た時は、自分はまだなのかと思いながら失望したりしたことがあったかもしれません。しかし、それで決まったのではないでしょう。今も信仰が成長し続けていれば、いつかいずれは、私たちは御霊の歩みに入って全く聖なるものとされることができます。

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