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ヨブ記講解80 - 知恵は神様から来る(上)

4 日前
読了時間: 18分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記28:12-13


ヨブ記は、今日のように科学文明が発達していなかった数千年前に記されたのに、科学的な内容があります。例えばヨブ記26:7で、「神は北を虚空に張り、地を何もない上に掛けられる。」といって、地球が宇宙空間に浮いていることを表現しました。これは万有引力によって、地球が太陽の周りを回っているという科学的な理論とあっています。また前回ヨブは、ヨブ記28:5「地そのものは、そこから食物を出すが、その下は火のように沸き返っている。」と言って、地球の内部に溶岩があることを知っているくらい、悟りのある賢い人でした。しかし、このような肉的な知識と知恵が、ヨブにとって問題を解決する鍵にはならなかったし、真の幸せをもたらすこともできませんでした。神様を見つける道を開くこともできませんでした。ですから真の知識を知っていることはとても重要です。​


私たちが知るべき真の知識は、人がどこから来てどこに帰るのか、人の本分は何か、どうすれば永遠の命が得られるかについてのことです。私たちに真の命を与える、永遠の命を与える、神様の知識を知っていなければなりません。それではどうすれば真の知識を得られるのでしょうか?箴言1:7「主を恐れることは知識の始めである。」とあるのですから、神様を恐れることが真の知識を得ることです。また箴言9:10「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」とあるので、神様を恐れるなら真の知恵と悟りを得ることができます。神様を恐れるということは、悪を憎み神様の命令を守り行い、神様を全面的に信じて信頼し神様に近づくことです。​


神様は天地万物を創造された全能なる方なので、私たちが神様を恐れる真の知識を得れば乏しいことはありません。神様は愛であり、その方を信じてより頼む人には、天国と永遠の命はもちろん、この地上でも祝福を受けるようにしてくださいます。ですから今日もメッセージを聞いて、神様から来る知恵と知識を得て、神様を見つけ体験し、神様を恐れていつも栄える皆さんになりますように。ヨブは28章前半部で、金や銀、鉄、銅のような鉱物は産出される鉱山があるので、人がそれを採取して溶かして、いろんな道具を作ると説明しました。そして続いて次のように言います。​


ヨブ記28:12-13です。


しかし、知恵はどこから見つけ出されるのか。悟りのあるところはどこか。人はその評価ができない。それは生ける者の地では見つけられない。(ヨブ記28:12-13)


つまり金や銀のような鉱物は鉱山から出るのですが、知恵と悟りはどこから見つけ出すことができるのか。世では真の知恵を見つけることができないから、人々はそれを量ることもできないと言っています。皆さん、知恵と悟りはどこから得られるのでしょうか?聖書を読むと知恵と悟りは神様から来るものだとわかります。ヨブは、世のどこででも誰からでも知恵を見つけ出すことができなかったので、真の知恵と悟りは神様から来るということを言おうとしています。ヨブ自身も知恵のある人だと自負していました。それで友達に自分の義を主張しながら、自分が知恵を持っていることを主張していました。人に良いことをしていたし、知恵がある者だと主張していました。しかし友達はヨブの話を聞いてくれませんでした。そしてあなたは愚かな者だと叱責していました。ヨブはそうでないと反論していたのですが、今になって、自分は知恵ある者だと思ったのに知恵がどこにあるのかわからないと、周りの人を見ても誰も知恵がないのだと思いました。だから自分の問題を解決できる知恵はないのだと思いました。人を見ても自然を見てもどこででも、知恵を見つけることはできないと思い、このように言っているのです。​


これは神様をあがめているように見えるのですが、28章後半部では、ヨブが神様を高める意図が明らかになります。これまでヨブは自分の義を奪った神様、自分を苦しめている全能者、悪人は祝福し自分のような正しい人は呪う神様だと言いながら、悪い神様として裁いていました。しかし今は突然神様を崇めている理由は何でしょうか?それは、本当に神様を高めるためではなく、自分が正しいということを友達が認めるようにするために、また作戦を使っているのです。ヨブはそれまでいろんな知恵を使って友達を説得して反論してみたのですが、友達が全然聞いてくれませんでした。それで、ヨブは今しばらく言い争いを休んで、知恵と悟りがどこから来るのかを説明しています。話をしていて、このテーマにそれ以上答えが出ないと思った時は、違う話をすることがあります。また他の方法で自分の言い分を主張しようとする時があります。そしてその雰囲気を転換しようとして他のテーマに移すことがあります。でも自分が言いたいことは同じなのです。​


ヨブもそうでした。自分には知恵がある、自分は正しい人なのに、神様がわざと自分を苦しめているのだと言いながら、友達にこれを理解してくれと言っても友達は聞いてくれないから苦しかったのです。友達は「ヨブ、あなたが悪いからこのように苦しみを受けているのだ。」と、「あなたは愚かなものだ。」と言っていました。28章までこのように友達と言い争っていても答えが出なかったのです。だからヨブは今、他の方法を使ってみようとするのです。雰囲気を転換して、他の方向で自分の正しさを主張するために、知恵と悟りについて言っているのです。先週は知恵と悟りがどこから来るのかという今日のことを言うために、金や銀や鉄、銅がどこから出てくるのか、人がどうしてそれを掘り出すのかについて説明しました。そして知恵が、価値があるということを今日説明するのです。そしてその知恵は神様から来ることを言っています。でもそれは神様を崇めるためではなく、自分の正しさを主張するためだということです。友達を説得させるためでした。


今日の御言葉で、真の知恵と悟りを得る方法について皆さんは悟りますように。辞書を見てみれば、知恵とは物事の道理を判断し処理していく心の働き、物事の筋道を立て計画し正しく処理していく能力とあります。ところで、霊的な意味の知恵は、人が生まれて育ちながら見て聞いて学んだ知識を適切に活用することを言います。神様は人の脳細胞に記憶装置を作ってくださり、私たちが見て聞いて経験したものを入力するようにされました。生まれたばかりの赤ちゃんはまだ見て聞いたことがないので、記憶装置に何の知識も入っていないのですが、本能的にお母さんの乳を飲むようになります。そうして育ちながら、親や兄弟、先生のような周りの人から多くのことを見て聞いて学び、知識を頭の中に入力していきます。このような知識をどのくらいよく活用するのかによって知恵がある、あるいは知恵がないと言われるのです。


例えば赤ちゃんが這っている時、お母さんは危ない物に触らないように、周りを片付けておかなければなりません。アイロンをかけていてそのまま置いておけば、赤ちゃんがそれを危ないとわからないまま触る場合があります。お母さんがその前にダメだと言って、赤ちゃんが触らないようにすることもありますが、それでも赤ちゃんは触ったりするのです。危ないとわからないから、そういう知識がないからでしょう。そして知恵のあるお母さんならどうするでしょうか?ちょっとそのアイロンの熱が冷めた時、火傷しないくらいの熱がある時赤ちゃんの手に触らせて、それが熱いということを、触っちゃいけないことを経験させるのです。そうでなければまたそれに触ってしまうことがあるから、それが危ないものだと教えるためにそのようにします。ちょっと熱が残っているアイロンを赤ちゃんの手に触れさせて、これは熱いから危ないから触っちゃいけないと、このように教えるのです。すると赤ちゃんはそれを覚えてその感じを入力するのです。


その時それが熱い危ないということを入力させるのですね。そして感じるようになります。赤ちゃんは熱いという単語はわからなくても、自分の肌で感じたから、次に同じものを見ると、それは触ってはいけないということがわかるようになるのです。もちろん1回ですぐそれがわかるのではありませんが、子どもにはそのように実際経験させて教育することがあります。もっと小さい時はそうしてはいけないでしょうが、教育ができるくらいの年になればそのようにするのです。この時賢い子どもならば、以前自分が経験したその熱かった感じを覚えていて、次に同じものを見たら、それを触らないようになります。すると、お母さんは、この子は賢いのだとわかるようになります。でもお母さんがこれは熱いからと言って触らせて感じさせたのに、またそれに触ってしまって、熱いから泣いてしまったりする子どももいるでしょう。このように理解力とかそれを覚えることは人によって違うでしょう。自分が知っている知識をどのくらいよく覚えていてまた活用するのかによって、知恵があるとか、そうでなければ賢くないとかこのように分けられるでしょう。霊的には私たちが見て聞いて学んだ知識を適切に活用することです。


次に悟りとは、辞書には物事の真の意味を知ること、理解とあります。霊的には道が明らかに見えることです。神様の御言葉には私たちが進んでいくべき道が明らかに書いてあります。その御言葉に聞き従って行う時悟りのある人になれます。知恵と悟りがあれば試練も避けることができるし、試練にあったとしてもよく乗り越えて、良い結果を出すことができます。同じことをしても少ない時間をかけて楽に実を結ぶことができるし、すべてのことにおいて栄えるでしょう。個人だけではなく、家庭や職場、国のためにも知恵はとても重要です。皆さん、知恵、悟りの霊的な意味を説明しています。皆さんも悟りとか知恵を持ちたいと思いますね。皆さんには知恵があって悟りがあるからここに来て、メッセージを聞いていて天国に向かっているでしょう。どれほど賢い方々でしょうか。


大礼拝の時のメッセージを聞いたでしょうか。家族との間で平和を作る知恵とか悟りも必要でしょう。教会でメッセージを聞いているのに、このように日常生活で家族との間でも知恵を持って善を行わなければならないのに、相変わらず変わってないならばそれは知恵があると言えないでしょう。私たちは人間関係において、いつもこのような知恵を持って善を行わなければなりません。人にしてほしいと思うことがあるならば、相手も私にしてほしいと思うことがあるのです。それをよく悟らなければなりません。そして私たちは相手に何かしてほしいと思うのではなくて、ありのままの姿を認めてあげて、自分から何か助けようとしなければなりません。人に仕える心が必要です。でもそうでなければ平和が壊れることがあるのです。真理に従っていくことは、幸せを得る知恵のある悟りの道です。赦すこと、仕えることが知恵であり悟りです。それは真理の中にあるものです。知恵によって人が死ぬこともあり、生きることもあり、国が栄えたり衰えたりします。


韓国の朝鮮時代のセジョン大王の時はどうだったでしょうか?王の心に善があり知恵があったから、民のためを思って知恵を使ったので、民がその恩恵を受けたでしょう。それで民のためにハングルを作りました。民も文字を書き読み使うことができるようにし、さらに豊かになるようにしました。このような心にある善から知恵が出てくるのです。セジョン大王はそうだったのですが、その当時の高官たちはそれが不満だったのです。なぜなら自分たちは、漢字が読めるし書けるし使えることで平民との違いがあって、自分たちが彼らを支配できたでしょう。でも一般の民も字が読めたり書けたり使うことができるなら、自分たちが支配することができなくなるから、そうならないように王に対して不満を抱いていたのです。どれほど愛がない姿でしょうか。セジョン大王は民を愛して善を持って知恵を使ったのですが、悪い人々は心に悪があるから、そのような知恵がなかったし、王を妨害しようとしたのではありませんか。皆さんはどちらを選ぶでしょうか?何かを見て聞いて考えるとき、心の善から良い知恵が出てくるのか、そうでなければ悪から悪い知恵が出てくるのか顧みますように。


箴言3:18に「知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。」とあります。知恵には2つがあります。人から出てくる肉的な知恵と神様がくださる霊的な知恵がありま。すこの2つには大きい違いがあります。その結果も違うし、また進んでいく方法も違います。肉の知恵を持っている人は、霊的な知恵を持っている人の行いを時には愚かだと考えたりします。しかし、しばらく経ってその結果を見てみれば、どちらが本当の知恵だったのかが分かります。例えば霊的な知恵を持っている人、神様からの知恵を持っている人は、譲りまた自分のものを与えて低くなります。しかし肉の知恵を持っている人は、自分が人に高められたいと思い認められたいと思うでしょう。また自分が正しいと言い張るでしょう。でも善の知恵を持っている人は、自分が正しいと言い張ると平和を壊すことになるから、相手のことを思い黙っているのです。心に善があるからです。でも高ぶりのある人ならば、そうすれば自尊心が傷つくから相手に無視されるからと思って負けたくないのです。肉の思いを巡らすのです。それで自分が正しいと言い張っていくから、言い争うようになるのです。すると平和が壊れてしまうのです。でも心に善がある人ならばその善から知恵が出てくるし、平和を求めるようになります。自分が低くなります。そうすれば神様が相手の心を動かしてくださり、もっと良い結果になるようにしてくださるのです。今自分が一歩退いて負けてあげて平和を作るならば、その相手の心も感動して、ふたりがいい関係になって協力して良い結果が出ることがあるのです。ですから善の知恵のある人は、自分ができる最善を尽くして相手のためを思って仕えるし、みんなのために助ける道を見つけていくのです。これが、神様が喜ばれる心ではありませんか。そのような人に神様は知恵をくださり、強くして高くしてくださり、用いてくださるのです。私たちが追い求めるべき霊的な知恵が必要です。


肉的な知恵を持っている人は悪い方法を使ったりします。それで自分とライバルの人がいるならば、その人をおとしめるためにその人のミスとか失敗とかを人に暴いたりするのです。自分がその人に勝つために悪い知恵を使うのです。それが世の知恵です。しかしその結果は良くないのです。神様を恐れかしこむ人は、神様がくださる霊的な知恵を受けることができます。箴言8:13に「主を恐れることは悪を憎むことである。」とあり、箴言14:16に「知恵のある者は用心深くて悪を避け、」とあります。悪を憎むことが神様を恐れることなので、神様を信じる人なら当然悪から離れ善に属しなければなりません。これが天の知恵です。


聖書を読むとヨセフやダビデ、ソロモン、ダニエルなど、天の知恵を受けた昔の人々がいます。この方々は神様を恐れかしこみ善の心で仕え、神様がくださる知恵をいただいて、国を治め、民を教えて導きました。代表的に、神様が私の心にかなったものと認めてくださったダビデは、信仰による知恵があったので、少年であるにもかかわらずペリシテ人の巨人ゴリアテと戦って勝ちました。そのような時にどんな知恵を使ったのでしょうか?羊飼いだったのでダビデは投げ石を持っていました。羊を取ろうとする荒野の猛獣たちが近づいてくると、投げ石を投げて追い払ったりしました。またその投げ石を投げて当てて殺したりしました。普段からそのような訓練をしていて使っていたのです。それでその投げ石を使ってゴリアテに打ち勝ちました。その時の知恵とはどういうものでしょうか?これを投げてゴリアテを殺そうとする、このような知恵を神様がくださったのですね。しかしゴリアテは鎧で武装していました。全身が鎧で武装されていたのですが、見てみたら兜をかぶっていたのですが、目のあたりは開いていたでしょう。それで額の真ん中が開いていたからそこを目標として投げ石を投げたのです。これがその短い時間に神様がくださった知恵でした。


いくら投げ石が上手な人でも、その石を一発で当ててどうしてその巨人を倒すことができるでしょうか。それは神様がくださった信仰によるものでした。人にはできないことでしょう。ゴリアテが言ったように小さい少年が出てくるから、からかっていたでしょう。あなたは何をもって私を殺す気なのかと、手には剣をもなかったし鎧を着ていなかったから嘲っていたでしょう。人が見るには到底勝てないところだったのですが、ダビデには信仰がありました。神様に頼っていました。また神様の御名を汚しているその異邦人を許すことができなかったのです。神様を愛して神様を恐れる心が熱かったからです。それでその信仰を持っていたから神様がこのような素晴らしい知恵をくださったのです。それでゴリアテの額の真ん中を的中することができました。神様が働いてくださったのでゴリアテはそうやって倒れたのです。ダビデにそのような素晴らしい信仰があったから、神様が知恵をくださり、ダビデが行ったからこのように神様の御業が起きました。ですから私たちは心に善と真理があってこそ、また信仰があってこそ、神様が働いてくださるのです。数週前も神様がどのような人に働いてくださるのか、どのような人を助けてくださるのかについて伝えました。心に善がある人を、良い人を神様は助けてくださいます。


皆さんに何か問題が起こったら、その問題を解決するために祈ったりまた相談したりするでしょうが、まずは自分の心の中に善を満たすことを優先してください。心に真理と反対のものがあって悪があるならば聖霊の声を聞くこともできないでしょう。だから神様はもどかしいのです。ですから私たちはまず心を聖めて、心に善を満たして真理を満たして、聖霊がその真理の御言葉を思い起こさせてくださり、道が栄えるようにしてくださるようにしましょう。神様を恐れて悪を行わず善を行う知恵があったので、サウル王が自分を殺そうとしたのですが、ダビデは最後まで善を行いました。ダビデの行いはどれほど素晴らしいものだったでしょうか。数年間サウル王が自分を殺そうと追いかけていたのですが、ダビデはサウル王を殺す機会が与えられたのですが、手を下さなかったのです。周りの家来たちは神様が良い機会をくださったと、敵に報いるそのようなチャンスだと言っていました。簡単にサウルを殺すことができるそのような状況だったのですが、ダビデは神様に油を注がれた人を自分の手にかけることができないと言っていました。周りの人が見たら愚かだと思うかもしれません。良いチャンスを逃してしまったと思うかもしれません。今までサウル王によってどれほど苦しい思いをしたでしょうか?命が狙われていたのですが、でもダビデは神様が望んでおられる善を行いました。だから神様がそれを認めてくださいました。


私たちはこれをよく悟らなければなりません。自分に害を与える人にも報いてはいけません。神様に委ねなければなりません。このような善が真の知恵です。皆さんは日常生活でどんな姿でしょうか?自分が悪を行っていて何かうまくいくときは、神様が助けてくださっていると思う、錯覚するときはありませんか?自分なりに知恵を使ってもその方法が善でなければ、それは神様が望んでおられることではありません。全てのことにおいて、善と真理を基準にしなければなりません。聖霊の声をまだ完全に聞いていないならば、皆さんが何かを選ぶとき、何かをするときまず御言葉、真理を基準にして、顧みなければなりません。自分の利益を求めるのではなく、これが善なのか、神様が喜ばれることなのかをまず考えなければなりません。そうすればそれが人の知恵なのか、神様から来る知恵なのか分かるでしょう。ダビデは過ちを指摘された時すぐ悔い改めました。それによる試練の時も感謝しながら受けました。それでこの地上でも褒められる王になり、天国でも偉大なものになりました。このように神様を恐れる人は神様から知恵をいただき、神様の知恵は人の心を変えさせてくださいます。固い心も溶かすことができるし、失敗を成功に変え悲しみを喜びに変えます。しかしヨブは自分なりに知恵があると思ったのですが、試練患難の中で友達一人も説得できなかったのです。妻やしもべ、周りの人にあざけられ、蔑まれました。これはヨブが持っている知恵が、人の知恵、肉の知恵だったからです。もちろんヨブは普通の人よりは賢かったでしょう。ヨブは裕福だったし、徳と愛もあって名誉もあって、周りの人に尊敬されていました。自分の力でこのようになったと誇ってもいませんでした。ヨブは知恵の重要性を悟っていました。


箴言3:14-17「それの儲けは銀の儲けにまさり、その収穫は黄金に勝るからだ。知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。」とあります。長寿も富も誉れも、楽しい道も平安も、皆知恵の中に入っているという意味です。ヨブは富や名誉、権力より優れたものが知恵であり、この知恵にあって全てを得られることが分かりました。実際に知恵があれば価値ある生き方ができるし、知恵を活用して財産や名誉権力を得ることもできるし、いろんな人生の問題を解決することもできます。ヨブの友達は自分なりの知恵を使ってヨブを叱責し、いろんな言葉で悟らせようとしたのですが、ヨブはそれが全然役に立たなかったのです。またヨブ自身も自分の問題を解決することができませんでした。結局ヨブは、自分が問題を解決できないのに誰が解決してくれるだろうかと思いました。自分より知恵のある人はいないと結論を出したから、人はその評価ができない、それは生ける者の地では見つけられないと言いました。知恵はこの世ではどこででも見つけ出すことができない。人は誰もその評価ができないと嘆いていました。

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