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ヨブ記講解78 - まことの愛と義(下)

4 日前
読了時間: 14分

説教:イ・スジン牧師

本文:ヨブ記27:19-23


自分を憎んだり自分を苦しめる人、自分に嫌味を言う人が周りにいるかもしれないのですが、その人が嫌だったり、そしてその人に対してひどいなとか、悪いなと思いながら悔しいと思ったり、その人と話したくないとか、会いたくないとか思っていた姿はありませんか?イエス様は、イスカリオテ・ユダが金入れからお金を盗んでいることも知っておられたし、ご自分を売る人だとも裏切る人だとも知っておられたのですが、でもだからといって彼にその使命を任せなかったのでもないし、だからといってのけ者にされたのでもありません。そして彼を見るたびに、あの人は裏切り者だとかそのように思われたのでもありません。12弟子の一人としていつも尊重して認めてくださったし、愛をもって悟らせてくださいました。皆さんはどうでしょうか?以前自分に何か害を与えた人がいるとしましょう。その人の顔を見るたびに前のことを思い出して、あの時ああだったとずっと根に持っている人はいませんか?でもその人は、前のことをすでに皆さんのところに来て謝って、そして神様の前にも悔い改めて、すでにその人は赦されたのです。でも皆さんがその人を赦さないままずっと根に持っているならば、神様がどっちの人を正しいと思われるでしょうか?イエス様の心を見習いますように。イスカリオテ・ユダへのイエス様の深い愛と善を皆さんも持ちますように。​


例えばある人が、皆さんがいないところで周りの人に、皆さんの悪口を言ったり良くない話をしたとしましょう。でも皆さんの前では全然そんな素振りはしないで、いつも親切に優しく接しているとしましょう。それなら皆さんはどう思うでしょうか?あの人、裏では私の悪口を言っているのにと思いますか?そしてその人に接する時嫌だなとか思うのではありませんか?皆さんはあの人が悪いと思うかもしれませんが、そう思っている自分の心に悪があることを悟らなければなりません。そして一言言ってやりたいと思ったりすることがあってはいけないでしょう。そして周りの人が、あの人は本当にこんなことをしていますと皆さんに伝えるかもしれないのですが、その時「ひどいですね。」とか「悔しいです。」とかこのように言うのではなくて、「いいえ、そんなことを私に伝えないでください。それが事実かどうかわからないし、そしてその人のことで、私がその人に会うとき接するとき、自分の心の中でその人への心が、良くない感情になることを私は望みません。そうなってほしくないです。」と言いながら、このようにその人を裁かないで、そして誤解が生まないようにすることが必要でしょう。​


私たちはこのように自分を基準にして自分中心に考えるのではなくて、いつも神様の目線から自分を見て、そしてヨブのような姿はないのかまず自分を顧みなければならないでしょう。イエス様の寛容と憐れみを考えてみてください。皆さんイエス様と十二弟子はいつも一緒でした。でもその人が裏切ることをイエス様は知っておられたのですが、最後までその人のために寛容を尽くしてくださり忍耐を持って待ってくださったのです。牧者はそのような心でした。近くで見てもいつもそうでした。どんな人に対しても、ご自分について訴えたり、また害を与えた人の名前を私たちに言ったりしたこともないし、そしてそれについて辛いとかひどいとか言われたこともありません。「どうしてこんなにひどいことをするのか。」とか、「本当にがっかりだ。」とか言われたことがありません。「そのような人の名前を言わないように。」と言われたし、ただ「その人もみんな後で悔い改めて帰ってくるから。」と言われました。​


私たちは、牧者のその話を聞いていつも感動しました。牧者は周りの人も誤解しないように、その人への印象が悪くならないように、いつも配慮してくださいました。誰かをむやみにああだこうだと言われたこともありません。今ヨブは、自分は被害者だと思っていますね。自分は正しいのにこんなに神様は自分を苦しめている、でも世の中には悪い人がたくさんいて、そういう人たちはなぜ苦しみなぜ懲らしめられていないのかと、それが悔しくて、だからこうなるべきだと呪っているのです。でもそれは正しい人の考え方ではないのですね。だから私たちも自分にもヨブのような姿はないのか顧みましょう。そして愛をもって、霊的な無知のため偶像に仕えて、死の道に向かっている人々のために祈り伝道しましょう。ヨブは続けて悪者と横暴な者が受けるべき報いが何かを自分なりに説明しています。​


ヨブ記27:20-21です。


恐怖が洪水のように彼を襲い、夜にはつむじ風が彼を運び去る。東風が彼を吹き上げると、彼は去り、彼をそのいる所から吹き払う。(ヨブ記27:20-21)


皆さん、夏、大雨が降ったり、台風が吹きつける時を考えてみてください。山崩れがあるかもしれないし、農耕地が浸水したり、多くの人命被害が出たりします。一瞬で建物が崩れたりすることもありますね。ヨブは悪者と横暴な者にはこのような恐ろしいことが臨むと、襲うと言っているのです。東風が吹き上げるとその悪者は去ると言いました。自分は正しい人にもかかわらず、悔しくもこんな苦しみを受けているから、悪者はこうであるべきだと、こうされるべきだと思うのです。これは世の人が悔しいことにあったり、我慢できない侮辱を言われた時、相手が雷に当たって死ねとか、交通事故にでもあってしまえとか、このように思うことですね。でも愛があるならば、悪い人を見てもかわいそうに思うだけです。隣人を自分自身のように愛するから、彼らが滅びに向かっていることがあまりにも心痛いのです。愛を持って祈るのです。


ヨブ記27:22です。


神は容赦なくそれを彼に投げつけ、彼は御手から何なんとかして逃れようとする。(ヨブ記27:22)


ヨブは正しい自分をも神様は顧みてくださらないで苦しめているのに、悪者はなおさらだと言っています。神様の裁きの手から逃れる道はないと言っています。世の人々は悪い者がいると、その人は天罰を受けるべきだとか赦されないとか言いますが、でもこのような言葉を口にすることその事態が悪なのですね。ヨブ記講解ではそれを何度も繰り返し説明しています。神様は悪者を容赦なく投げつける方でもないし滅ぼす方でもありません。イエス様はイスカリオテ・ユダが盗んでいることも知っていたし、ご自分を裏切ることも、彼がどうなるかも知っていながらも、彼を遠ざけたり御顔を背けたりしませんでした。忍耐をもって寛容を尽くして何度も機会を与えて、立ち返るように望んでおられました。また罪人の代わりに十字架につけられるほど大きい愛を同じように与えて、その愛とお仕えは変わりませんでした。


ところで神様はダビデの場合は、彼が過ちを犯した時、厳しい試練に遭うように懲らしめてくださいました。なぜでしょうか?ダビデは懲らしめを受ける時神様から離れるのではなくて、神様の愛を深く悟って聖められる大きい器だと知っておられたからです。親は子供が過ちを犯した時、ある子にはお仕置きをする場合もありますが、ある子には言葉だけでたしなめて赦します。言葉だけで叱っても反省し変えられる子供ならお仕置きをする必要はありませんね。またお仕置きをしてぐれてしまう子ならば、優しい言葉で言い聞かせてなだめて、変えられるのを待ってあげる方がいいでしょう。でもとてもいい子で頼もしいと思っていて期待していたのに、その子が過ちを犯したならば、他の子よりもっと厳しく叱ったりお仕置きをしたりすることもあります。その子はこれをきっかけに親の愛をさらに深く悟って、変えられることを信じているからです。私たちを耕作なさる神様の心もこれと似ているでしょう。神様は人の心を正確に見ておられる方です。ダビデとかヨブのように、試練にあっても神様から離れないで結局は純金のように出てくる大きい器は、神様がご自分で練ってくださり、天国で太陽のように輝く栄光の場に導いてくださるのです。ですから私たちは試練にあっている人を見るとき、あの人は大きい罪を犯しているとむやみにさばいてはいけないのです。


ヘブル12:6にあるように、主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからです。もしかして全ての人が罪を犯すたびにすぐ懲らしめを受けるなら、神様を恐れて遠く離れて救いの道に戻ってこないかもしれません。ですからそのような人ならば、神様はすぐ懲らしめるのではなくて忍耐を持って待ってくださり、その人が悔い改め立ち返るように待ってくださるのです。このように悪者に対して忍耐を持って耐え忍んで待ってくださることも、また愛する者が不義を行うとき懲らしめることも、全部神様の愛です。皆さんダビデは神様がとても愛してくださる人でした。罪による報いだったのですね。それは、その罪を完全に捨てるようにするために神様が練って下さることです。罪を犯した時すぐ懲らしめる場合もあったし、また後でその報いとして試練に遭う場合もありました。そして悔い改めて救われるようにする為です。そして救われるだけではなくて、その罪を捨てて聖められるために神様は練ってくださったのです。そしてダビデはその試練の過程を、喜びをもって感謝しながら耐え抜いたのです。神様の前で恨んだり嘆いたり神様の心を痛めたりしたのではなくて、そのような試練もあまんじて受けたのです。それで結局はこのように大きい器として認められました。


でも全ての人がそうなのではありません。もしそのように罪を犯すたびに懲らしめるのだったら、厳しくて辛くて離れてしまう人もいるからですね。だから神様はそのような人は、このように寛容を尽くして耐えしのんで、その人が悔い改め立ち返るように待ってくださるし、悔い改める機会をくださるのです。これも神様の愛です。そしてダビデのような場合は、その罪の痕跡までも神様が拭い去るために、そのように厳しく練ってくださったのですね。その人が純金のように出てくる時までそのように練ってくださったのです。だからそれは祝福なのです。だから人それぞれ、神様が導いてくださる方法が違うのです。そしてダビデがサウル王によって苦しみを受ける時もあったのですが、その時は、ダビデは何か悪いことをしたのでもないのに、そのように厳しい試練にあったのです。しかし、そのような過程を経て、イスラエルの統一された国の王として器を備えるように神様はしてくださったのです。だから試練にあっている人を見て裁いてはいけないし、また自分に与えられているそのような試練も、神様の愛として受け止めて感謝しなければならないのです。


そして自分の罪とか過ちのため試練にあっているならば、まずは悔い改めなければならないでしょう。神様の御心があるからと思って、自分を顧みようとしないことがあってはいけないのです。だから神様がなさることは、神様の私たちへの愛であることを信じることが大切です。でもイスカリオテ・ユダは、そのようなイエス様の愛と憐みを受けたのに、最後まで立ち返らなかったから結局は悔い改めることもできず、救われなかったのです。結局イエス様を銀貨30枚で売ってしまったでしょう。後で良心の呵責を感じて後悔したのにもかかわらず、悔い改めることができず、自殺という惨めな結末になってしまいました。私たちは今、私たちに与えられている恵みの機会を逃してはいけません。初めの愛も失って、世を愛していて罪と悪を行っているのに、何の懲らしめもないから安心していてはいけません。神様が今まで待っていてくださること、耐え忍んでおられることをその恵みを知って、速やかに立ち返らなければなりません。


罪と悪を捨てることも明日に先延ばしにするのではなくて、今日この時間に悔い改めて立ち返らなければなれないのです。次にしましょうと思ってはいけません。次にまた機会があるかどうか分からないでしょう。1回2回と、罪と悪を行っていけばだんだんその罪は重くなります。黒もさらに濃い黒がありますね。そのような黒いものがついてしまったなら、それを落とそうとしても洗おうとしても痕跡が残るし、綺麗にならない時がありますね。だから私たちはこのように毎日自分を顧みて、罪と悪を捨てて聖くなるために祈りながら努力し続けなければならないのです。するとますます心が聖くなります。闇もだんだんなくなって、私たちは光の中を歩むことができます。


ヨブ記27:23です。


人々は彼に向かって手をたたき、彼をあざけって、そのいる所から追い出す。(ヨブ記27:23)


ヨブは今、悪者その横暴なものがこのように苦しみを受けるのを人々が見て、手をたたきながら喜んであざけると言っているのです。そして追い出すと言っています。でもそれは正しい人がそう思うのではありません。正しい人は他の人が苦しみを受ける姿を見て喜ぶのではないからです。それは悪い人の心です。心の良い人は赦すのです。ヤコブの息子ヨセフはどうでしたか?自分を奴隷として売ってしまった兄たちも赦しました。また乙女マリアと結婚したヨセフはとても良い心の人だったのです。それで自分と婚約した女性が自分と寝たこともないのに、妊娠したから普通なら姦淫したと思うしかないでしょう。律法では石打ちにされるべきことだったのですが、ヨセフは心が良い正しい人だったから許して、内密に去らせようとしたのです。人々に噂を出したのでもないし、石打ちにさせようとしませんでした。この他にも聖書には正しい人々の美しい心、良い心がたくさん書いてあります。アブラムがロトに対する心、ダニエルが自分を獅子の穴に投げ込むように命じた王に対する心、また自分を殺そうとする人々に対してステパノ執事がどのように祈ったのか、そしてこのように赦す心は神様が望んでおられる愛です。私たちはこのような信仰の人々の正しい心、善の心に似ていきましょう。


ヨブのように悪者が苦しみを受ける時、それを嘲ったり喜んだりまた追い出したりするのは当然だと思ってはいけないでしょう。私たちは、悪い人がもしかして今苦しみを受けていることを知ったならばそれを喜ぶのではなくて、かわいそうに思って心痛めてその人のために祈っているのか顧みますように。神様がご覧になるとき、自分の今の心はまた自分の考えることは、正しいのかどうなのか顧みますように。私たちにもしそういう姿があったならば、神様の前で悔い改めなければならないでしょう。神様の光に属する姿ではなくて、闇に属する敵である悪魔が喜ぶような心だったのではありませんか。でもそれに気づかない人もいるのです。自分が正しいと思って、自分は当然と思っているから分からないのです。でもヨブ記講解を聞きながら、私たちはそのような姿までも深く発見して悟って、そのような心にある肉、枠を捨てなければならないのです。メッセージを聞くとき私にもこういう悪い姿があると思うだけで終わってはいけないのです。そのために切に祈って一瞬一瞬自分を顧みて、敏感に自分の心の動きを見て悔い改めて変えられようとしなければならないのです。そのような潜んでいる悪も罪も、私たちは、発見して捨てていきましょう。


結論です。


ヨブは悪者と横暴なものに呪いが臨んでほしいと思っていますが、これは正しい人の心とは全然違うし神様の心とはかけ離れていることです。神様は全ての人が救われるのを望んでおられます。悪者に対しても忍耐を持って耐え忍び赦して待ってくださる方だからです。第一ヨハネ3:1に「私たちが神の子供と呼ばれるために、…事実、いま私たちは神の子どもです・・・御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」とあります。私たちは神様の愛によって、神様が機会を与えてくださったからここにいることができるのです。神様に許していただいたからここにいられるのです。皆さんそれぞれ自分を顧みれば、前は世の中でさまよったこともあったし、神様を信じると言いながらも、世を愛して真理と反対のものを愛していた時もありました。でも神様はだからと言って、あなたは悪い、あなたは横暴な者だから呪われるべきだと言われたのではなくて、限りない愛で私たちを待ってくださり導いてこられました。このように恵みをいただいた私たちはそれを忘れてはいけないし、他の人に対しても神様の愛の目、憐れみの目で見なければなりません。また罪人のために一人子までも惜しまずに犠牲にしてくださった神様の愛と、イエス・キリストの十字架の愛を伝える愛の伝道者になりますように、主の御名によって祈ります。


父なる神様、今日ヨブは友達に対して悪者だ、横暴なものだと言いながら、間接的に彼らが呪われるべきだと苦しみを受けるべきだと言っていました。でもそれはヨブの悪い心から出る呪いの言葉でした。神様は悪者でもその人々が悔い改めて立ち返って救われるように望んでおられます。それで愛の目で忍耐を持って待ってくださるのです。私たちもそのような神様の愛と善を見習って変えられるようにしてくださり、人を裁いたり罪に定めたり憎んだり妬んだりしていた罪と悪を徹底的に悔い改めるようにしてください。主の愛の心に似ていくようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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