ヨブ記講解78 - まことの愛と義(上)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記27:16-19
愛する皆さん、前回ヨブは、悪者が神から受ける分は、横暴な者が受け取る分はこれだと言いました。恐ろしい呪いの言葉を言いました。悪者や横暴な者の子孫は増えても剣によって死ぬ、飢え死にすると言いました。ヨブはその人だけではなくその子孫までも憎み、根絶やしにされたらいいと思いました。これは義人の心とはかけ離れていて、善そのものである神様の心とは全然違う反対の心です。悪です。その心が神様の善と愛とあまりにも異なるから、神様の心が理解できないし、だから神様を誤解して裁くのです。このように肉の思いは神様を理解することができないし、神様のなさることも理解できないし、答えも祝福も受けることができません。
神様のことが理解できないと言いました。聖書に記されていることを見てみれば、旧約に記されていること、預言者を通して神様はご自分の全知全能であることと、神様の忍耐と寛容を現わしてくださるのですが、時によってその方法が違うのです。神様はなぜこんなことをなさるのか、人の立場では理解できないこともあります。例えばある人は自分が戦争で勝利すれば、初めに自分を迎えに来たものを神様に捧げると言いました。それが自分の娘だったのです。それでも神様の前にそのように誓ったから捧げました。でもその聖句を読んで、神様はなぜそんなことを要求されたのかと思う人がいるかもしれません。でも神様が娘を捧げなさいと言われたのでもないし、エフタが自分からそのように誓願を立てたのです。そして自分が誓願をした通りに神様に行いました。それなのにそれを誤解して神様について恐ろしい方だと思う人がいるかもしれません。
ですから私たちは、このような肉の思いを巡らしてはいけないのです。聖書を読みながら、神様の心が、また神様の意図がわからなくて、自分の思いによって誤解したりすることがあるのです。ヨブがそうでした。その理由は心に悪があるから、神様の真理がないから、自分の考えと自分の理屈によっては理解できないから、このように言うのです。私たちは、ヨブだけがそうだったと思うのではなくて、自分は今どうなのかを顧みなければなりません。もしかして、神様に対してだけではなくて周りの人に対して、自分が自分の思い込みや決めつけによって、憶測によって、ああだこうだと思ったり誤解することがあるかもしれません。私たちはこのように自分を顧みてさらに変えられましょう。私たちは善と愛そのものである主の心に似ていかなければなりません。イエス様が、ご自分を十字架につける人々のために愛をもってとりなしてくださったように、私たちも愛をもって人を赦して善をもって悪に勝ちましょう。打ち勝ちましょう。
今日もヨブは悪者と横暴なものについて呪っています。皆さんはメッセージを聞きながら自分の心を顧みてください。そして神様が望んでおられるまことの愛と義は何かを悟りますように。人々は自分の中にある悪い感情が表れたらそれについて言い訳をします。例えばかっとなったりむっとした時、自分がそのようにかっとなったのは、自分に悪いことをした人のせいだと、自分にひどいことを言った相手のせいだと思います。だから私がかっとなって気を悪くしたということは、自分が悪いとは思わないのです。相手が悪いと思うのです。でも私たちは自分の心にある悪を発見しなければならないのですね。
そして周りに怒りっぽいとかイライラする人がいるとき、私たちはそれが嫌であの人とはあまり話したくないと思いますか。それは自分の心の中に愛がないということで、その人に対する憎しみがあるということです。でも、いやあの人が悪いでしょうと言うかもしれませんが、そのようにすることは自分のことを言い訳することだけなのです。私は昔から人を見て私にも同じような姿があるかもしれない、私の中にもそういう悪い考えがあるかもしれないと、いつも反面教師にしていようと思いました。あの人がしていることが悪いと思った時は、私もそういう悪い姿があるかもしれないといつも思おうとしました。そしてある人がちょっと真理に反することをするのを見ると、それについて周りの人がまた困ったり傷つく姿を見ながら、あの人はひどいな悪いなと思うのではなくて、私はそうしないように気をつけようと思うようになるのです。
同じように今ヨブが、悪者や横暴な者に対して呪いながら、その子孫までも呪っている姿を見ながら、ヨブはひどいなとあんまりだと思うのではなくて、私もヨブと同じような姿があるかもしれない、もしかして私もそんなふうに誰かを憎んだり、本当に理解できない凶悪なことをした犯罪者とかそういう人に対して、そういう厳しい懲らしめが臨んだらいいとか、罰を受けるべきだとか思っていた自分の姿はないのか、それも自分の中にある悪のためだということを徹底的に悟らなければならないのです。そうすると悔い改めるようになりますね。私は本当に悪い心を持っています、私本当に悪いことを考えていましたと、神様の前に低くなって祈るようになるのです。それが一回だけではなくて、ある時は数日も数週間もそのように続けて悔い改めていくならば、その悪を捨てることができるようになるのです。ヨブ記講解を聞きながら皆さんもそう変えられますように。
本文ヨブ記27:16-17です。
彼が銀を塵のように積み上げ、衣装を土のようにたくわえても、彼がたくわえたものは、正しい者がこれを着、銀は、罪のない者が分け取る。(ヨブ記27:16-17)
ここで彼とは悪者のことですね。銀を塵のように積み上げとあります。これは銀が塵のように数え切れない程積み上げられて、その価値がなくなるくらいだという意味です。ソロモン王の時代には すごく富が豊かになっていて、銀を石のように思っていた時もあったようです。また土とは価値のないものを言います。衣装を土のように蓄えるとは、衣服を価値のない土のように思うくらいたくさん積んでおいた場合を言います。今本文を説明しています。悪者がいくら多くの財産と服を蓄えておいても、その銀は罪のないものが分け取り、その服は正しい者が着るようになると言っているのです。ヨブは悪者や横暴なものが積んだものは、当然正しい者が受けるべきだと言っています。自分の思い込みによってこう言っているのです。
世の人々は金持ちを見て、あの人は貧しい人から搾取したり不法でお金を貯めたはずだとか、あの財産は貧しい人に分けるのが当然だと思ったりする場合があります。でも金持ちだからといって、不法で財産を集めたと思うことは思い込みでしょう。誠実に働いて財産を蓄えた人もいるし、また彼らも慈善事業をしたり、良いところに使う人もいます。また貧しくても知恵のある人は、夢とビジョンを持って成功したり、頑張って努力して財産を増やしたりします。でも自分の貧しさを親のせいにしたり、社会のせいにしたりして怠けている人は、さらに惨めな姿になります。だから貧しい人は誰でも施しを受けるべきだと思うことも正しくありません。聖書を見ると、みなしごややもめなど貧しい人や疎外された人を、社会的な弱者を顧みるようにとあるのですが、これも聖霊に働きかけられて相手に合わせてしなければなりません。間違った施しは、相手がさらに神様から遠ざかるようにしたり、堕落したりするようにするかもしれないからです。
例えばヨナのように神様の御心に逆らって試練に遭っている人や、お酒やギャンブルなどで財産を費やしてしまった人がいるのですが、その人に施しするなら、その人の霊的な面では何の助けにもならないのです。その人が罪を続けられるようにしたり、神様の御心に逆らうように助けるようなものだからです。だから私たちは貧しい人を助けるべきだというそのような自分の思い込みによって、お金持ちを見ながら気に入らないと思ったり、どうして自分だけ贅沢しているのかとか思ったりしてはいけないでしょう。私たちはこのように心の中に妬みがあるのです。そして自分よりうまくいっている人を見る時、それが気に入らない時もあるでしょう。そしてある人は怠けていて会社に勤めて誠実に働こうとしないで、自分を誰かが助けてくれたらいいのに、なぜ国は政策を正しくして自分のような人を施してくれないのかと、不満を抱いたりする人もいますが、それは正しくないでしょう。教会で施しをする時も、神様の御言葉通りに聖霊の働きに従って正しくしなければならないのです。
ヨナはどうだったでしょうか?神様の御心に逆らっていきました。ニネベではなくてタルシシュに行く船に乗ったのですね。ヨナと一緒にその船に乗っていた人々も大変な目にあったのです。それで暴風に巻き込まれてまずは自分たちが生き残るために荷物を海に捨てたのです。でも、この船に乗っている人の中で神様の怒りを買う人がいるかもしれないと思って、それでくじを引いたのです。その時ヨナが当てられて、それでヨナはそうだと自分のせいだと言いました。私が神様の命令に従わないでこのように反対に向かっていて、こんなふうになってしまいました。でもその船に乗っていた人々は、このヨナを海の外に投げ込もうと最初から思ったのではありません。ヨナと一緒に生き残ろうとしたのですが、でも自分たちの力では何もできなかったから、結局仕方なく一緒に苦しみを受けたのです。だから間違った施しをすれば一緒に苦しむこともあるのです。
だからといって試練にあっている人や苦しんでいる人を見た時、その人のことだからと思って無関心ではいけないでしょう。その人のために祈って、その人が霊的に変えられるように助けることも愛も必要でしょう。でもただその人を肉的にかわいそうに思って、その人の霊的な原因問題を解決するよりは、今食べてまた必要なものをまず与えてしまったりすることがあるかもしれないのですが、何を優先しなければならないのかが重要なのです。本文に彼が蓄えたものは正しい者がこれを着、銀は罪のない者が分け取るとあります。ヨブが正しい者についても誤解していることが分かります。なぜなら正しい者は人のものを取ろうとしません。心の聖い人は人のものを欲しがる心はないからです。ヨブは悪者が持っているものは全部義人が正しい者が受けるべきだと思いますが、本当の義人は人のものを取ろうとしないし自分で努力して得たものを持つだけです。
ヨブ記27:18-19です。
彼はしみが建てるような家を建てる。それは番人が作る仮小屋のようだ。富む者が寝ると、もうそれきりだ。彼が目を開くと、もうそれはない。(ヨブ記27:18-19)
彼が目を開くともうそれはないとあります。しみは紙を餌とする害虫です。放置していると障子紙とか書籍本などを食べられてしまうため、駆除や対策をする必要がありますね。昔はこのようなしみによって食われてしまうことはよくありましたね。それで物事に少しずつ損を与えるものや人のたとえとしても、このしみを使ったりします。ヨブは、悪者の家は虫に食われてだんだん朽ちてなくなり潰れるようになると言っています。ここで番人とあるのですが、これは番をする人、見張りをする人のことです。そして番人が作る仮小屋とは、お墓の近くとか何か物を守るために番をする人が、寝泊まりするように臨時に建てた小屋を言います。
昔、韓国では親が亡くなると子供がその墓のところで仮小屋を作って、3年間親のお墓を守り管理する風習がありました。このような仮小屋は臨時のものだから、雨風が吹いてくると簡単に倒れるくらい弱いです。ヨブは、悪者の家がこのような番人が造る仮小屋のように早く潰れてほしいのです。韓国のことわざに、いとこが土地を買えば腹が痛むという同じような心です。悪者がうまくいくのが金持ちになるのが気に入らないのです。今日神様を信じると言いながらも、相手がたくさん持っていることや良いものを食べることが気きに入らなくて非難する人もいますが、ヨブのような心ですね。
以前私たちが一緒に集まって礼拝をする時はどうだったでしょうか?女性の皆さんがチマチョゴリを来て案内や献金の奉仕をしていました。そして女性の中では、そのようなチマチョゴリの種類が多くて、たくさん服を持っていてよく替える場合があったのです。チマチョゴリは一回作るのにお金がたくさんかかりますね。それを見ながらなんであの人は家が裕福でもないのにいつもそのようによく替えるのかとか、よく新しいのを買うのかと思う人もいたそうです。でも神様の前に奉仕するために自分なりに最善を尽くして、一番神様の前で美しい姿でいるために、どのように頑張ってその服を用意できたのか、その事情を分からないのですね。他の人がどんな心で神様の前でそのように立とうとしているのか分からないのに、ただその上辺だけを見て、また人のものを欲しがる羨ましがるそのような悪があるから、あの人は家が金持ちでもないのにそんな高いものをコロコロ替えるのかとか、このように思ってはいけないでしょう。それは妬みでもあり、また人に対する憎しみかもしれないのです。だから自分の心の中でもしかして人が自分より良いものを持っているとか、人が自分より上手くいくのが気に入らないと思っている姿はないのか顧みなければならないでしょう。私たちはそのようにただ目に見えるその上辺だけを見て、もしかして人をさばいている姿はないのか顧みますように。
そして教会から施しを受けている人を見ると、その方が本当にそれによって経済的にもある程度安定して感謝だと思えばいいのに、私も貧しいのにあの人だけ施ししているのかとか、このように不満を抱くことはあってはいけないでしょう。心の良い人は、人の欠点や過ちを指摘するのではなくて、相手も幸せになってほしいと思います。ルカ15:8-9を読むと銀貨の例えがあります。「また、女の人が銀貨を10枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに探さないでしょうか。見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。」と言うでしょうとあります。ここで言う銀貨はローマ以前の時代のギリシャの貨幣です。ローマのデナリにあたるものです。一デナリは労働者の一日の賃金です。この女性がなくした銀貨をこのように念入りに探していた理由は、そのお金の価値のためだけではなくて、他の理由がありました。昔ユダヤ人の風習では結婚する時、男性が女性に愛の印として、銀貨10枚を糸で繋いで首にかけてあることがあったそうです。ところでこの女性がその1枚をなくしたから、どれほど切羽詰まって探したでしょうか。だから念入りに明かりをつけて家中を掃いて探したのです。それで見つけたら嬉しいから友達と近所の女たちを呼び集めて一緒に喜んだのです。
これは失った魂を見つけた神様の心を表現しました。イエス様はルカ15:10で「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」と言われました。このたとえの霊的な意味は、女性が亡くした一枚の銀貨を念入りに探したように、私たちは、罪人でも彼らが何としてでも立ち返って悔い改めるように、愛を持って祈ることが必要だということです。正しい人の心はいくら悪い人でも憎まないし、その人がうまくいくように祈ります。神様は、私たちもいくら悪者でもヨブが言ったように、報いを受けてほしいとか潰れてほしいとか思うのではなくて、愛と憐れみの心でその人々のために祈ることを望んでおられます。善と愛が欲しいです。人がいくら悪くてもそのまま放っておけば地獄に行くしかないということを考えると、何とかしてその人を救いに導こうとするでしょう。これがまことの愛の心です。
続く本文ヨブ記27:19です。
富む者が寝ると、もうそれきりだ。彼が目を開くと、もうそれはない。(ヨブ記27:19)
もうそれきりだ、つまりそのまま死ぬという意味です。ここで死ぬという言葉は、ヘブライ語で死んで先祖たちのもとに集められるという意味です。聖書を読むとアブラハムが葬られたマクペラの洞穴に、その子孫のイサクもヤコブも葬られました。ヤコブの子ヨセフはエジブトで臨終を迎えた時、子供たちにこれからエジプトから出ていく時、自分の遺骨をカナンの地まで運んでほしいと言いました。神様がくださった約束の地、先祖たちが葬られたそこに自分も葬られたいと願ったのです。今日も多くの人々が死んだ後、先祖と同じところに葬られたいと思います。ところでノンクリスチャンが先祖と同じところに葬られたいと思う理由は、クリスチャンとは全然違います。クリスチャンは家族が先に世を去ったとしても将来天国で一緒に住むことを信じているから、この地上のお墓とかにあまり意味を置かないのです。しかしノンクリスチャンは家族と同じ場所に葬られたら、死後の世界でも寂しくないだろうと思います。死に対する恐怖があるから、先祖たちと同じ場所に葬られたら慰められると思うのです。
昔の先祖はなぜ法事をしたり、また自分たちも死んだ後供養してほしいと思ったのでしょうか?子どもたちがたくさんいても、その中で長男にその法事をするように言って供養するようにと言います。なぜでしょうか?死んだ後一人でいるということが恐ろしいし寂しくて怖いからです。また周りに誰も自分を助けてくれないと思うからですね。だから親は子どもたちに先祖を供養することを教えたのです。そして子どもたちが、自分が死んだ後も自分を祀ってほしいと思いました。自分のことをずっと覚えていて、自分が死後の世界で豊かに生きられるように冥福を祈ってほしいと思ったから、供物とかお花を備えてほしいと思ったのですね。だからその方法を子どもたちに伝えたし、また法事とかを通して先祖に仕えるべきだと教えました。
ヨブは、悪者や横暴な者は富む者でも、死んだ後先祖たちのもとに集まることはできないと言って呪っているのです。しかし私たちは正しく知っておかなければなりません。世の人々は死んだ先祖のために法事をしたり供養をすれば、その先祖の霊が来て慰められてその供物を食べると思います。またちゃんとそのような儀式をしておけば、先祖の霊が自分たちを助けて守ってくれるだろうと思います。しかしそのような儀式をする時先祖の霊が来るのではありません。悪霊が来てその備え物を受けます。悪霊は人を助ける存在ではありません。先祖の中でクリスチャンだった人は死んだ後は、その霊と魂が上の黄泉で3日間適用期間を経て天国のパラダイスの待機場所に行って、主が空中に降臨されるまで留まります。ただし新しいエルサレムに入る人は、新しいエルルサレムの特別な待機場所にいるのですね。そしてそこで神様を褒めています。でも自分が永遠に住む家に入るのではなくて、新しいエルサレムで特別に用意されたところに留まるようになります。そうでない一般の人は天国のパラダイスにある待機場所に留まっているのです。
しかし主を信じなかったノンクリスチャンならば、白い御座の大審判の前は地獄に属する下の黄泉で苦しみを受けています。だからいくら先祖のために法事をしたり供養しても、実際に崇められるのは自分の先祖ではなくて悪霊です。悪霊は救われずに死んだ人の中で特別な条件の下でまたこの世に出てくる存在です。従って法事の時に来て崇められるのは悪霊です。それは偶像礼拝です。だから私たちは先祖に仕えるためそういう儀式をちゃんとすべきだと思っている人もいるのですが、そうではなくて、そのような法事とか供養とかをするときは悪霊がきてその備え物を受けるのです。家族が亡くなった後、冥福を祈るためにいろいろ供物とかお花を備えたりするのですが、先祖がそれを受けるのではないのです。そして祈祷師とか拝屋さんとかの所に行って、何か儀式をしてもらったり厄払いをしてもらう時もあるのですが、だからといって悪霊が退くのではありません。反対です。悪霊がそのため喜ぶのです 。そして家族の中で病気があったり何か憂いがあったりして、繰り返してそのような儀式をするように仕向けるのです。だから私たちはこの霊の世界のことを正確に知っていなければなりません。
そしてその悪霊は、自分に仕えてくれて備え物を捧げるときはちょっと苦しめるのをやめて、それでその人たちが厄払いできたと思って安心しているとまた仕掛けるのですね。それで自分に仕えるようにするのです。でも私たちは神様に仕えるものです。そして神様の子供だからそういう悪霊どもとは関係ない人です。でもこのようなことを知らない人は、子供がクリスチャンだからといって、法事とかそういう儀式に参加しなかったり手を合わせなかったりするとすごく怒りますね。そして自分が死んだ後、自分に何の供養もしてくれないのかと言いながら、それは親不幸だと言いながら怒ったりするのです。でもこのように霊を認める人はかえって伝道しやすいです。霊を認めるということは霊の世界を認めることだから、霊の世界のすべてを司る創造主の神様を認めるように、知恵をもって伝道すればいいのです。私たちは魂を愛する心で伝道に励まなければなりません。
使徒パウロは自分を迫害して殺そうとしたユダヤ人についてローマ9:3で「でもしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」と言いました。自分が地獄に行くことがあっても、彼らが救われることができるならそうなりたいと思うから、どれほど大きい愛でしょうか。このような愛があるからどんな苦しみも命が危なくなる試練の時も伝道しました。イエス様もイスカリオテ・ユダを愛してくださり、最後まで愛してくださいました。イスカリオテ・ユダがご自分を売るものだと知っておられたのですが、イエス様は彼に重要な金入りを任せて、最後まで愛をもって悟らせてくださいました。イエス様がイスカリオテ・ユダを愛したその深い愛を皆さんも所有するために祈りましょう。そして周りの人に対してイエス様のような愛を持って接したのか顧みますように。(つづく)
