ヨブ記講解77 - 肉の思いは神様のことが理解できない(下)
説教:イ・スジン牧師
本文:ヨブ記27:13-15
それでは私たちが肉の思いを速やかに打ち砕くためにはどうすべきでしょうか?例を一つあげましょう。地に落ちた種は芽を出して根を下ろすために、自分は死んで全てを養分として渡します。その地に落ちた種が死んでこそ、その養分によって根が出て根が張るようになるのです。それで育つようになるのです。その種が持っている養分を、その芽のためにまた根のために与えるのです。自分はなくなっても新しい生命体を誕生させて多くの実を結ぶのです。ところで芽が出るような条件が備えられていても、種が自分で死ななければ何の実も結べないのです。このような自然の法則は霊的にも同じように適用されます。第一コリント15:31で使徒パウロはこう告白しています。「兄弟たち、私にとって、毎日が死の連続です。これは、私たちの主キリスト・イエスにあってあなたがたを誇る私の誇りにかけて、誓って言えることです。」とあります。ここで毎日が死の連続ですとは、実際人の体が死ぬことではなく、イエス・キリストを知る前に形成された自分というものを捨てるという意味です。
自分とは、あらゆる真理と反対のもの、肉、そして人の全ての思弁や考え方、枠など神様の御目に悪い姿です。使徒パウロが、毎日が死の連続だと告白したように、私たちも御霊の人になるためには、自分の中にあるあらゆる真理と反対のものと肉を発見して、徹底的に捨てなければなりません。ある人と一緒に働きをする時、その人の言っていることやその人の行動をしていることを見て気に入らないと思って、その人が苦手だと思いますか?そしてあの人が原因になると思いますか?そして私の方が、信仰があるから合わせてあげようと思いますか?皆さん自分を顧みなければなりません。それは肉の思いです。その人と合わないなと思った時はその人のせいにするのではなくて、自分を顧みて私の心の中で悪があるのではないか、自分を顧みなければならないのです。相手が何か悪いから合わないのではなくて、自分が悪いところがあるかもしれないのです。
だから肉の思いと御霊による思いはこのように違いますね。自分の心の中にある人に対する苦手意識とか、そして合わないと思っているそのような心とか、それを発見してそれを捨てようとしなければならないのです。それで、人との関係でそのようなところがあれば、自分と合う人とは親しくなるのですが、そうでない人とは距離を置いたりして、全然関係が改善できないでしょう。それは神様がご覧になるとき良くない姿ではありませんか?自分というものがあるからそうなのです。自分が強いから自己中心になってしまいますね。だから私たちはこういう自分というものを捨てようと、毎日祈りながら涙で悔い改めて捨てていかなければなりません。使徒パウロはそのために毎日が死の連続だと言っていました。私たちも毎日死の連続にならなければなりません。それで一瞬一瞬自分の心の中にあるそのような動きに敏感でなければならないのです。私は相手によってこんなふうに違う考えがあることや、自分の感情が違うことに気づかなければなりません。
そしてその原因が何なのか?私の心に憎しみというものがあること、高ぶりというものがあることを発見しなければならないでしょう。そしてそのために祈るのです。でも一回でそれが完全に捨てられないから、毎日そんなふうにしていかなければならないのです。そして次はその人に会った時も、自分の中でその人への苦手意識を持って避けようとしたりすることがないようにと、前もってそのために祈るのです。そして神様に感謝の祈りをまずするのです。神様、悟らせてくださり感謝します。私の中に残っているこのような苦手意識とか、これも完全に捨てるようにしてください。どんな人とも平和を追い求めて愛することができるように、どんな人でも受け入れる広い心になるようにしてくださいと、前もって祈りを積んでおくのです。すると後でその人に会うと、以前とは自分の心の中の感情が違うのを感じるでしょう。そしてその人を考える時も肉の思いではなくて、御霊によって思うことができるようになります。心にあるこのような肉を捨てるほど、私たちは御霊に属する人に変えられるのです。
聖書を見てみると肉の人では理解できないことがたくさんあります。普通人は、人より高くなりたいし仕えられたいと思いますね。でも神様は低くなりなさい、仕えなさいと言われます。そして誰かに頬を打たれたら嫌でしょう。かっとなるでしょう。でも神様は右の頬を打たれたら左の頬も向けなさいと言われます。下着を取ろうとする人には上着をあげなさいと言われます。憎い人が1ミリオン行けとしいるときは、2ミリオンも一緒に行くようにと言われます。だから肉の人はこういう神様の御言葉が理解できないのです。自分の考えとあまりにも違うのです。だから従えないのです。皆さんは、御言葉にはそうあるけれど、神様の御心はそうだけれどでも、私はまだできないと思いますか?でもできないと否定してしまってはいけません。実際、神様の御心、御言葉通りに行おうとまず努力しなければならないのです。どうしてできないと言ってしまうのでしょうか?努力してそして神様がそうしなさいと命令されたから、私たちはできると思って従おうとしなければならないのです。
それが御霊によって思う人です。でも肉の思いの多い人はそれができないのです。使徒パウロのように毎日が死の連続になって、主に似た霊の心に変えられなければなりません。皆さん、ヨブはまだ肉の人だったから神様のことが理解できなかったし、肉は肉を生むしかないのです。それで続くヨブの言っている言葉を聞いてみれば、霊的なこととはかけ離れていることが分かります。ヨブは友達に神様のことを自分が教え始めます。それは神様の本当の御心ではなくて、ヨブが神様のようになって高ぶっていて、悪人がどう裁かれるべきかと言っていることです。
ヨブ記27:13です。
悪者の神からの分け前、横暴な者が全能者から受け取る相続財産は次のとおりだ。(ヨブ記27:13)
次の通りだと言っているから、14節から見ればその内容が書いてありますね。結論で言えば裁かれるべきだということです。横暴なものとあります。ヨブはなぜ悪者や横暴なものが神様から裁かれるべきだというのでしょうか?信仰のない世の人の中には、横暴な人に対してあんな人は事故や災いに遭うべきだとか、罰を受けるべきだと思うことがよくあります。私にあんなひどいことをしたから、あんな悪いことをしたから、あんな人は事故にあって怪我でもしたらいいのにとか、滅びてしまえとか、心の中で考えたり呪ったりする場合があります。悪い人だから当然その報いを受けるべきだと思うからですね。ヨブもそうでした。皆さんはそんなことを考えたことがないのか顧みますように。明白にあの人はひどいことをしているから、罪を犯しているからとか、明白に悪い人だからと思いますか?当然罰を受けるべきだと思いますか?教会にひどい被害を与えたから、あまりにもひどいことをしたから、当然懲らしめを受けるべきだと思いますか?それならヨブと同じような肉の思いをしているということです。悪い思いなのです。しかし真理が心に臨んでいる人はそんなふうに考えません。
イエス様はどうされましたか?この地上で働いておられる間、病人を癒して弱い人々を力づけられて、命と希望を与えるなど良い業だけをなさいました。でも悪い人たちはイエス様を迫害して蔑み、罵りました。イエス様のお顔に唾を吐いて手で叩く人もいました。そしてもし神の子なら自分を救ってみろ、十字架から降りてこいと、からかう人もいました。しかしイエス様は、十字架の上でむごたらしい苦しみを受けていても、自分を嘲っている彼らを赦してくださいと祈られました。これが主の心で神様の心です。私たちは神様の子供だから、このような父なる神様の赦しと愛の心を理解して、似ていくことは当然ではありませんか。マタイ5:44-45に、「しかし、私はあなた方に言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなた方の父の子どもになれるのです。」と、イエス様が言われました。
ですから私たちは、自分を迫害する人がいるならその人を憎むのではなくて、神様の子どもらしく、父なる神様この方が悔い改めるように助けてください、その方も真理の中を歩むように助けてくださいと祈るべきでしょう。親から悪い気を受け継いで生まれたり、育つ時悪い環境の影響で悪が植え付けられた人で、敵である悪魔サタンの仕業を受けて悪いことをしているのだから、彼らをかわいそうに思って、憐れみで祈ってあげるべきではありませんか?罪は憎んでも人は憎んではいけません。ローマ12:21にあるように、悪に負けないで善をもって悪に打ち勝たなければなりません。このローマ12:21はよくあげられますね。これを聞きながら同じことを言われていると思ってはいけません。実際に皆さんが本当に悪に負けていないのか、善をもって悪に打ち勝っているのかを考えなければなりません。私はこのような聖句を聞くたびに感動します。そうだ、本当に善をもって悪に打ち勝たなければ、私はまだ完全に打ち勝っていない姿もあると思いながら、神様の前で悔い改めます。そして善の最高な段階をさらに慕うようになります。
悪い人にも、自分を殺そうとする人のためにも命を与えるイエス様のその愛の段階、その善の段階をさらに慕うようになります。そして実際私がイエス様のように十字架につけられるなら、迫害されるならそうできるのだろうかと思うようになります。知識ではその段階のことを知っていても、実際自分がそんなふうにされるならできるだろうかと思ってみるのです。そしてもっとその段階を慕うようになるのです。それでこのような聖句が出るたびに感動して、そういう善を持たなければと思うようになるのです。皆さんもそうなりますように。そのような深い善の段階に入りたいですか?それならヨブ記講解をよく聞いて、自分にあるそのような悪を捨てなければならないのです。ヨブとヨブの友達が互い言い争っていながら、どんなふうに悪をむき出しているのか、感情的になってどんなふうに激しいことを言っているのか、神様に対してもどんなふうにひどいことを言っているのかを見ながら自分を照らしてみて、自分にあるそのような悪を捨てて善をもって悪に打ち勝たなければならないのです
新しいエルサレムに入るためには、このような善の三段階四段階の次元が必要なのですね。だからそれを目標として目指していかなければならないのです。そのためにはどんな人でも善をもって受け入れることができなければならないのです。人を誤解したり罪に定めたりすることは決してあってはいけないし、また周りの人に何か言われたからといって、落ち込んだりがっかりしたりすることがあってもいけないでしょう。これを祈祷課題にして、毎日この御言葉を握って祈らなければならないのです。何か人に良くしてあげたのに何の見返りもない、かえってその人に誤解されたり悪い仕打ちを受けたとしても、私は善を行ってその人を愛することができるのか?考えてみながら一つ一つ心にある悪を捨てて、神様、主のこういう善の心に似ていこうと努力しなければならないのです。本当に悪人のために命を与えることができるのか、皆さん、そこまで行かなくてもいいではありませんか、どうしてもそのような善を持たなければならないのですかと思う人がいるかもしれませんが、でも神様が望んでおられる段階、次元はそうなのです。
そうしてこそ新しいエルサレムに行けるから、神様は皆さんもその一番優れた天国に導こうとされるのです。だから私たちは神様の愛を感じながら私もできますと言って、神様が望んでおられる善を行いながら行きましょう。むやみに人との間で誤解したりまた悪く思ったりしないで、ヨブのような姿があるのではないか顧みますように。罪や悪のある人、悪を行う人に対して厳しく責め立てたら、かえって相手の人は怒るかもしれないのですね。だから善と愛をもって接して、相手が自分の姿を顧みて恥ずかしく思って悟るようにした方がいいでしょう。でもヨブはこのような真理を知らないから、相変わらず目には目、歯には歯という律法をもって人を裁こうとしているのです。そして悪い人は裁かれるべきだと当然だと思います。
続くヨブ記27:14-15にこうあります。
たとい、彼の子供たちがふえても、剣にかかる。その子孫はパンに飽き足ることはない。その生き残った者も死んで葬られ、そのやもめらは泣きもしない。(ヨブ記27:14-15)
この2節を読んで皆さんはどうでしょう。これはひどい呪いの言葉ではありませんか。ここで私たちはヨブの心の中の怒りが感じられると思います。悪者や横暴な者の子孫は増えても、剣によって殺されるとか、また飢えて死ぬとか言っているからどれほど恐ろしい呪いでしょうか。ヨブは当事者だけではなくその子孫までも憎んで、根絶やしにされればいいと思っているのです。又、その日生き残ったものでさえ、疫病や伝染病などで死ねばいいと思うのです。例えば超チフスなど伝染病は、医学が発達する以前には多くの人がそのため死にましたね。この世の恐ろしい病気にかかればいいと呪うことは、どれほど心に大きい悪があるのでしょうか。もちろん今ヨブは本当に辛い思いをしていて、病気で苦しんでいることは理解できますが、自分が苦しいからといって人も苦しんでほしいと思うことは捨てるべき悪でしょう。心の良い人ならば、自分は不幸でも相手は幸せになるのを望むでしょう。でも真理で変えられる前は、人は自分が不幸なら相手も不幸でいて欲しいと思うのです。
ヨブは、自分は正しい人なのにこんなに苦しみを受けているから、悪い人ならもっと苦しめられるべきだと、もっと厳しく裁かれるべきだと思いながら、それを友達に教えようとしているのです。悪い人の子孫は、生き残ったものも死んで葬られ、そのやもめらは泣きもしないと言っています。悪人は根絶やしにされればいいと思うのです。ヨブの心に赦しの心がないことが分かります。ヨブだけではなく、真理の中を歩んでいない人の心はほとんどがそうです。ヨブのように行いでは正しい潔白な人でさえ、心の中にはこういう深い悪があったのです。それなら罪と悪を行っている人がヨブのような仕打ちをされたなら、どれほど悪をむき出しにするでしょうか。敵をも愛しなさいという御言葉は耳に入らないでしょう。でも復讐はもう一つの復讐を生むようになります。復讐が続けば結果的に皆が不幸になってしまいます。韓国のことわざの中に、殴った人は足を伸ばして寝られないけれど、殴られた人は足を伸ばして寝られるという言葉があります。悪をもって悪に報いない人には心には平安があるのです。そのような人が本当の勝利者ですね。
箴言19:11に「その人の光栄は、そむきを赦すことである。」とあります。私たちが心から人を許せば、自分が栄光を受けるようになります。イエス様はまことの赦しとまことの愛を実践なさったから、死の力を打ち破って勝利して王の王主の主となられる栄光をお受けになりました。ですから神様を信じる私たちも、当然イエス・キリストの愛に似て実践しなければなりません。そうする時、私たちに与えられる栄光が何か聖書に記されています。黙示録22:5です。「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」とあります。イエス・キリストの心に似た子供たちだから、将来天国、新しいエルサレムで神様の栄光を受けて代々限りなく王として生きるのです。ですから皆さんはどんな状況でも善をもって悪に打ち勝ち、愛をもって赦すことによって偉大な勝利者になりますように。それでこの地上でも真の平安を味わい、やがて神様の御座のある新しいエルサレムに入って、太陽のように輝く栄光を受けますように。
結論です。愛する皆さん、ヨブは自分の義と枠があったので相変わらず肉の思いを巡らして、神様の善と愛に対して誤解していました。このように心の中に真理と反対のものがあり、罪と悪がある限り、善と愛を見ても理解できないし気に入らないと思って、どうしてもそうすべきかと不満に思えたりします。例えばある団体で頭の人が悪人だとしましょう。すると部下とか周りの人がいろんな辛い思いをしたり害を受けたりしますね。その場合どうすべきでしょうか。周りのある権力のある人がその頭の人を罰したり懲らしめたり、その人を他のところに左遷してほしく思うのではありませんか?部下の人はみんな辛い思いをしているから、誰か力のある人が助けてくれればいいのにと思って不満を抱いたりするかもしれません。そして上司が悪い人だから、こんなに私たちは辛いのに、どうして社長は何もしてくれないのとか、このようにつぶやくことがあるかもしれません。
それは教会の中でもそんなことがあるかもしれません。でも神様が望んでおられる善は何でしょうか。そのようなことで恨んだり不満を抱いたり呟いたりするのではなくて、自分がまず自分の心が変えられて善と愛をもって接して、その悪い人でも心が変えられるようにそのために祈って、又、愛をもって接して神様に祈っていけば神様が働いてくださるのではありませんか?そしてその人を見ながら、私はそうしてはいけないと思って、自分にはそういう悪がないのかと顧みながらだんだん変えられていくなら、自分は聖められるのが早くなるから感謝のことではありませんか?どうしてあの人はあんなに悪いのか、あの人があんな悪いことをしているのに、どうして誰もそれを指摘してあげないのか、自分たちを助けてくれないのかと、ずっと不満ばかり言っているのではなくて、神様が望んでおられる善の方法を行わなければならないのです。そして自分の中に悪があって、その人に対して不満とか怒りとか憎しみを抱いている姿があるなら、それを発見することで神様に感謝しなければならないでしょう。そしてその人も一緒にさらに優れた天国に行けるようにするために、神様に愛をもって祈るならどれほど神様が喜ばれるでしょうか。
皆さん、私たちはみんな神様の子供です。みんな神様に愛されている神の子供であることを忘れないでください。それで周りの人も一人の魂として大切に思い仕えながらいきましょう。私にあんなひどいことを言った人なのにどうしてと思わないでください。自分の心にそれだけ善がない愛がないという証拠ではありませんか。人それぞれその人の事情があるし、生まれ育った環境が違うし、持って生まれた性分とか性質が違うし、それぞれ神様の御手によって練られる過程にいるのです。だから私たちはその神様の愛を思いながら、さらに感動しながら、そして自分もそのような愛に似ていくために努力していきましょう。そして神様の善、主イエス・キリストの善と愛をさらに慕う心で、そのように変えられるためにいきましょう。すると結局は、自分の心が変えられれば、周りの環境も変わるし神様が働いてくださるのです。今すぐには理解できない神様の計画と摂理もありますね。でも肉の思いの多い人はそれが理解できないから不満を抱いたりするのです。そして神様のなさることが理解できないからどうしてとか思うのです。
又、出エジプトした第一世代のように、神様のなさることに対して呟いたり立ち向かったりするのです。なぜカナンの地にすぐ入るようにしてくださらないで荒野でこんなにつらい思いをするように、こんなに苦労させるのかと思うかもしれません。でも神様は、彼らがその40年という訓練の過程が必要だからそうされたのです。もしすぐカナンの地に入ってしまったならどうでしょう?力強いカナンの住民と戦って負けてしまうでしょう。そしてカナンの住民の悪が満ちる時まで待ってくださったのです。神様は彼らがそれでも立ち返る機会をくださったのですね。このような神様の愛があって心があったのです。でも人の立場では自分が今苦しいからそれが理解できないから、神様のことが理解できないし不満を抱いて呟いたりするのです。ヨブもそうだったのですね。でも私たちは神様の御心と計画と摂理をいつも完全に信じて感謝して喜んでいきましょう。神様の働きは肉の思いではできません。善と愛、信仰を見せるときそれを実現できるのです。だから私たちは速やかに御霊の人に変えられましょう
聞いた御言葉を思い出して祈りましょう。父なる神様、今日もヨブは自分が正しいと主張しながら自分なりに神様のことを教えようとしていました。しかしそれは神様の御心ではなかったのです。ヨブが自分の悪をもって神様を理解できないまま、悪人は裁かれるべきだと思っていただけなのです。人の心にある真理と反対のものや憎悪のため、神様の善と愛が理解できないのです。皆さんは御霊によって思い神様のことを理解し、神様の御心に完全に聞き従って祝福されるようにしてください。感謝してイエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
